(ピアノを単に楽しみで一人で弾いていた私が、人に教えるようになった経緯については以下をご覧ください)

 

 

 

指導を始める前に見学した産休予定の先生のレッスンについて触れておきたいと思います。

 

音楽をめぐり、私には5、6年のピアノ独習中に自然と培われていった何かがありました。そしてこの産休予定の先生のレッスンを見学することで、「自分にとって譲れないもの」を再認識し、「ソルフェージュ(音楽理論)は遊びで学ぶ」、「生徒を励ます」という指導の方向性を決めました。

 

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実は、その先生のレッスンは私からみてたいへん無味乾燥なものでした。先生と生徒の間に、生き生きとしたコミュニケーションがまったくありません。

 

先生が新曲を生徒に与え、楽譜上に現れる音楽記号について「この記号は習った?」と尋ねます。生徒は「音楽理論のクラスで習った」とか「まだ習っていない」とか答えます。習っていない場合は、先生がその記号についての説明を加えますが、生徒はそれを理解しているのかしていないのか、曖昧な表情です。その後、先生は淡々と曲の指導に入りますが、生徒はこれから習う曲に対して特に興味を示している様子もありません。レッスン中、先生は曲の6小節を生徒に片手ずつ弾かせ、それを数回繰り返します。レッスンが追わる時間が来ると、先生は「宿題:〇〇(習った曲の名)――習った6小節を1日10回、左手に注意して弾く」などとノートに書いて終きます。生徒は最初から最後まで、当惑したり無表情でいたりします。

 

このレッスンは、私が子供時代に受けたピアノ教育の延長線上にありました。「先生」は知識や技術が豊富で権威性のある何者かであり、「生徒」はそんな相手に従って教えを乞う――もしかすると、この国の音楽院というのは、いまだにそういった主従関係による教育が幅を利かせているのかもしれないと、私は感じました。しかし、習いに来ている生徒は、音楽院のエリート生徒ではなく、明らかに「趣味」でピアノを習いに来ている子がほとんどでした。

 

産休予定のその先生はまだとても若く、県内トップの音楽院でピアノを学んでいる最中で、レベルで言えば上級に差し掛かったところでしょうか。幼い頃、その地方の音楽界で権威のある老婦人からピアノの手ほどきを受けたということも、後からわかりました。(私もその女性にお会いしたことがありますが、私の最初の先生よりずっと怖い感じの方でした。)

 

私たちは、自分の師のやり方を踏襲しようとすることのほうが多いかもしれません。自分が体験を通じて知っている方法というのは、一番身近であり習慣化されています。また、自分が通って一定の成果が得られた道は、それ以外の道よりはるかに安心感があります。彼女もそうだったのでしょう。

 

でも、私はもっと違うアプローチがあってもいいのではと思いました。