そそっぱい おじんつぁん -2ページ目

そそっぱい おじんつぁん

多くの分野について、「あまり聞いたことがない考え方だが、なるほど 」と思われるような記事を少しづつ書いて行きたい。

昭和の 私が子供の頃の実家は 農家で高台にあり 眼下は田んぼだったので、秋になると一面が黄金色になって素晴らしく綺麗だった。

 

 

数年前の秋に実家に帰った時に、家の庭から撮った写真を添付してみる。

同じ庭から撮った春先の写真は以前に紹介した。

 

 

もう少し遅い時期になると 向いの山々が色づいて へたな(失礼)紅葉の観光地よりもよほど綺麗な風景になった。

 

私は、幸か不幸か稲刈りを手伝わされたことがない。

その代わり稲束を運ぶ手伝いをさせられた。

これが 小中学生の私たち兄弟にとっては結構重労働で 私は嫌いだった。

 

当時の田舎は、あとで述べるように稲わらをとても大切にした。

だから、高台にある家の周りに臨時に数本の丸太を立てて その間に丸太の横棒を3,4段に渡した「ハセ」という棚を作り、稲わらが痛まないように 稲束を松葉のように開いて横棒に掛けて干した。

 

そのため 田んぼで刈り取った稲束を、数個から十数個を背中に背負って急な坂道を登り、高台の「ハセ」まで運ばされた。

 

これを日曜日は半日くらい,平日は学校から帰ってから何日も繰り返した。

背中は痛いし脚は疲れるしでかなり辛かった。

 

同じように 麦束を運んだり、囲炉裏や釜戸の焚き木のために切り倒した山の雑木を兄弟で担いだり背負ったりして運ばされたのも苦痛だった。

 

ただ、私が今でも結構足腰が強いのは、そのおかげかも知れないと心密かに感謝している。

 

稲束が乾燥したらハセからおろして、「もみ」つまり皮を被った米を稲穂からもぎ取る ご存知の「脱穀」という作業を行う。

 

実家には、足踏み式の「脱穀機」と手回し式の「とうみ」という農機具があった。

脱穀機は、多数の金属の刃が並んだ筒状の胴体があり、それを足踏みで回転させたところに稲束を突っ込んで先端の「もみ」をそぎ落とす機械だ。 

間違って手を入れたら大怪我をする。

 

でも、この脱穀機は 空の状態で回すと、足踏みの調子に合わせて「ガ~ラコン、ガ~ラコン」とリズミカルな楽しい音を出すので、時折、親に隠れて回して遊んだ。

 

脱穀した「もみ」は、「とうみ」という機械の上部にある漏斗に入れ、それを落としながら手回しの風車で風を送って「もみ」に混じっている穂屑の藁(わら)を吹き飛ばし、「もみ」だけを側面から取り出す。

 

お分かりのように、これらの機械を人力で動かして作業するのは あまりにも大変だ。

それで、私が小学生の頃には すでに機械化されていた。

 

農業協同組合(農協)から借りてきたのだろうか、プーリーを備えた石油で動く発動機つまりエンジンと、同じくプーリーを備えた脱穀機を 2,3m 離して並べた。

そして 両者のプーリーにベルトを掛け、発動機の回転を脱穀機に伝えて回した。

 

脱穀機は「とうみ」の機能も持っており、穂屑が正面から吹き飛ばされて側面から「もみ」が流れ出る構造になっていた。

 

脱穀の当日は近所から1,2名の大人が手伝いに来てくれた

朝早くの「ダッダッ、ダッタッ」と腹に響く大きな音で私も飛び起きて、力強い発動機の回転と 豪快に脱穀機に稲束を突っ込む大人たちの姿、猛烈な勢いで吹き出す穂屑、そして勢いよく流れ出す「もみ」の光景にとても興奮した。

 

こうして収穫した「もみ」は、あとで紹介する米俵に詰めて農協に供出した。

 

米俵は60kgくらいだったと思うが、身長が160cmあまりの小男のおやじは俵をひょいと担いでリヤカーに乗せて自分で引っ張って行った。

子供の頃はもちろんだが 今の私でも とても俵は持ち上げられないだろう。

 

田舎の山村の田んぼでは 1反歩で6俵くらいの米しかとれなかった。

ここ千葉なら10俵はとれるだろう。

 

おやじは、米を供出した帰りには、いつも通り6人の私たち子供ひとり一人に 袋に詰め込んだ色んな種類の駄菓子を買ってきてくれた。これが本当に楽しみだった。

 

「もみ」をそぎ落とした稲束は、貴重な稲わらとして納屋にうず高く積んで保管してあり、大切に利用した。

 

まずは縄だ。

 

「わら」は、余分な葉をブラシで搔き落とした茎の部分に 口に含んだ水をぷーッと吹きかけて湿らせてから、取っ手のついた直径10cm,長さ15cmくらいの重い木槌で叩いて柔らかくした。

 

ついで、ひとづかみずつの「わら」を2組取り出して根元を足で押さえ、両手で2組の「わら」を挟んで一方向に強く揉んでねじり、根元から穂先へと「縄をなった」。

 

穂先に近づいたら、両組に適量の「わら」を差し込んで追加し、太さが均一で途切れることのない長いロープに仕上げた。

 

「縄をなう」のは子供の私にもできたが、おやじのように固くて締まった縄にはならなかった。

どこの家でも 各種の太さと長さの縄を作って いろいろな利用をしていた。

 

たとえば、実家はつるべ井戸だったので、おやじは直径が3cmくらいで長さが10mもの長い縄の「つるべ」を作った。いきなり太い縄に「なった」のか 細い縄を同じように「なって」太くしたのかは 記憶がない。

 

話は違うが、この井戸の「つるべ」の太い縄は 古くなって切れると取り替えたが、切れた「つるべ」の縄をもらって柿の木の枝にぶら下げ、豪快なブランコを作って空まで(?)飛んだり、ぶら下がって「アーアー」と叫びながらターザンごっこをしたりした。

 

「わら」は、「押し切り」のカッターで5cmくらいの長さに切って牛の餌にもした。

もちろん牛の餌は「わら」だけではない。「ふすま」と呼んでいた米ぬかや、時折ジャガイモを与えた。

 

さらに、おやじは毎朝 土手の草を鎌で二抱えも刈ってきて与えていた。

当時は どの家もそうしていたので 道端の土手はどこも綺麗だった。

 

田んぼのあぜ道には大豆を植えていたし、畑には野菜や麦を植えて くまなく手入れをしていた。山についても木々や竹は適度に利用して下草狩りもしていたから、田んぼも含めて当時の田舎の風景はどこも綺麗だった。

 

今の ここ千葉は、田んぼの 3割以上が休耕田で草ぼうぼう、道端も背の高いセイタカアワダチ草などの雑草で埋め尽くされているし、山は 竹やぶが侵食して 木々も つる草の くずの葉で覆われている。

私にとっては胸が痛む風景だ

 

話はそれたが、私が小学生の頃までは、祖父が「わら」で「わらじ」を作っていた。

結構複雑な作り方だったので、今では特殊技術だろう。

 

「わらじ」を履いた経験があるだろうか?

「わらじ」は、驚くほど軽くて足にフィットし、履いている気がしないくらいだった。

 

戦後間もない貧しい頃だったので下駄ばきが多かったが、既に靴も普及しつつあり、私も さすがに恥ずかしくて人前で「わらじ」を履いて歩いたことはない。

 

おやじは「わら」で 蓑(みの)や「わらぐつ」も作っていたが、特殊な わら細工は俵(たわら)だったろう。

俵は「わら」と縄で 胴体と上下の蓋を別々に作る。

「もみ」を入れた俵は、中身が漏れないように 胴体と蓋を縄で頑丈に縛って仕上げた。

 

その複雑な姿かたちに 私はいまでも美的な美しさを感じるのだが どうだろう?

 

ところで、今のここ千葉では、コンバインを使って稲刈りと脱穀を一気に行っている。

稲わらも同時に切り刻んで田んぼに撒いてしまう。

 

昭和のむかしに比べて 農作業は 本当に楽になった。

 

そして 休耕田が増えた・・・