阿武隈山麓の昭和の風景と生活 <春編>「田植え」 | そそっぱい おじんつぁん

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多くの分野について、「あまり聞いたことがない考え方だが、なるほど 」と思われるような記事を少しづつ書いて行きたい。

 

私が子供の頃の田舎の田植えは、5月中旬の今頃から始まった。

以前のブログで紹介した実家の高台から見た眼下の田んぼの一部が実家の田んぼだった。

写真の田んぼは綺麗な長方形だが、当時の田んぼは曲がりくねった不定形をしていた。その後 整地したのだ。

 

子供の私たち兄弟は田植えのための作業はほとんど手伝わなかったが、私には忘れられない苦い思い出がある。

 

当時、実家は農耕用の和牛を飼っていて田んぼを耕すのに利用していた。

耕したあと、水を張ってから かき混ぜて土をドロドロに砕いて田植えがし易いように平らにすることをシロカキ(代掻き)という。

 

シロカキは、回転するたくさんの鉄製の爪を持ったマグワ(馬鍬)という かなり大きな農機具を牛に引かせて行った。

おやじがマグワのハンドルを押さえ、子供の私は 牛の鼻輪にに結わえた竹ざおを持って牛を誘導する役目をさせられたのだ。鼻取りと言ったと思う。

 

この鼻取りは 非常に難しい というか恐い。

というのは、牛が竹ざおで誘導した方向に進んでくれないのだ。

別な方向に行ったり下手をすると走り出したりする。

鋭い鉄製の爪を持ったマグワが暴走すると人間や牛の足を巻き込んで大惨事になる。

 

おやじに怒鳴られたがどうにもならない。

2,3回きりで以後手伝わされたことはなかった。

 

結局、おやじは牛の鼻輪に結わえたロープで誘導して ひとりでシロカキをしていた。

つまり、牛は いつも世話をしてくれるおやじの言うことは聞いたが、世話もしてくれない子供の私をバカにして言うことを聞かなかったということだ。

 

 

田舎では、人手が掛る作業は 近所の大人たちがお互いに助け合うという習慣があった。

全てが手作業だった当時の田植えもそのひとつだ。

そのほか、稲から米をもぎ取る脱穀作業や、かやぶき屋根のふき替え作業などを覚えている。

どういう訳か 稲刈りは各家で行った。

 

田植えの日の朝、同じ部落の大人だけでなく田んぼの向こうの部落の大人たちも加わって10人近くが手伝いに来てくれた。

 

実家の田んぼは 6反歩(1800坪)くらいだったと思うが、10人近くが並んで一斉に田植えをする姿は壮観だった。

子供の私たち兄弟は田植えには加わらなかったが、昼飯やお茶を田んぼまで運ぶ手伝いをさせられた。

 

昼飯といっても当時はおにぎりと漬物とお茶くらいだった。

 

おにぎりは おふくろが握ったが、子供の手では持ちきれないくらい巨大だった。

作り方は、大人の茶碗にご飯を山盛りに入れて上から押さえ付け、茶碗をひっくり返してご飯をスポッと取り出してから手で握るという豪快なものだった。

 

当時は、どの農家も高価な海苔は買えなかったから、塩をまぶしただけのおにぎりだった。

具もなし。

 

ところが、おしょうばんにあずかる子供の私たちにとっては ご馳走だった。

小さな手で大きなおにぎりを頬ばると 本当に美味しいと思った。

 

そんなに質素なおにぎりなのに、なぜか?

 

それは、直径が 4,50cmもある五升炊き(だったかな?)の釜で、薪を燃やした釜戸で炊いた炊き立てのご飯だったせいもあるが、戦後間もない当時の山村の事情があった。

 

つまり、白米100%の いわゆる「白いご飯」だったからだ。

白いご飯を食べるのは 盆と正月くらいだったのだ。

 

当時は、どこの家も麦飯だった。

なにせ 時の総理大臣が「貧乏人は麦を食え!」と ほざいた時期だ。

 

麦は、専用の手回しローラーで大麦をぺっちゃんこに押しつぶした「押し麦」だ。

この作業は 私たち兄弟の役目だった。

この押し麦を白米に2,3割混ぜて毎日のご飯を炊いた。

 

麦飯は、炊き立ては まあまあだが、冷えると本当に不味い。

最近は、健康志向で雑穀米が人気と聞くが、気が知れない(失礼)。

 

田植えが終わると わが家で宴会が開かれた。

ご馳走の記憶が全くないから 大した料理はなかったと思う。

でも、酒を飲んで陽気に騒いで歌うみんなの様子が 子供心にとても楽しかった。

 

歌は軍歌が多かった。

年に何回かの宴会のおかげか、私は今でも10曲くらいは軍歌が歌える。

 

家々の田植えが終わった眼下の田んぼの景色は、日に日に緑が濃くなって本当に綺麗だった。

以前のブログで紹介した実家から見た風景の写真で想像してもらえるだろうか?

 

 

そして、私がいちばん好きだったのは蛙の声だ。

 

日が暗くなると、下の田んぼから蛙の大合唱が一斉に せり上がった。

ぐわーんと押し寄せる波のような感じで 何とも荘厳だった。

 

そして、夜遅くなると合唱はピタリと止んだ。

眠りに入ったのだろう。

 

当時は車もなかったから、蛙の合唱が終ると田舎の夜は物音ひとつしない静寂の世界に変った。

頭の中がキーンとするような静けさだ。

 

時折、遠くから 東北本線の汽車の哀愁を帯びた ひょーんという汽笛の音が かすかに聞こえた。

そんな中で私たちも眠りについた。

 

いまでも 近所で蛙の声を聴くとむかしを思い出す。