テクノロジーの利用で得る便利と失うもののバランス

 

2026年9月27日 鈴木 友之

 

 サードキャリアに入って収入を伴う仕事をしなくなった現在、時間に余裕が出来たことから昼食の準備を引き受けている。一つ了解を得たことは、メニューは当方の一存に任せてもらうこと。残り物の食材を使って欲しいといった要望は受け付けないこと。というのは、主治医の指導に従って毎日6,000歩のウォーキングをしているが、その仕上げにショッピングセンターに立ち寄り、食材を通して季節・天候変化と物価を「視察」しながら、これといった珍しい食材や特割品を見つけるとその場でスマホを取り出してレシピを検索して買うか否か決めたりしている。それによって、料理のレパートリーを広げ、興味をもって料理を続けることが出来ている。もっとも、先日は魚屋で「亀の手」を見つけてスマホでレシピを検索したものの食指が動かなかったこともあるが。調理した後の食事で妻から良いコメントは良いが、ときに辛口のコメントを聞くこともある。それは次へのステップにつなげる機会と前向きに受け止めるように努力している。

 

 このような日常で、スマホの存在は非常に便利で強力な武器になっている。しかし、一つ立ち止まって考えなおしてみると、スマホを通して適当なレシピを簡単に得て、それを基に料理することは、見方を変えると創意工夫といったオリジナリティーのない普通の料理に陥っているのではないかと心配になる。もちろん、一度はレシピに従って料理して作り、出来た料理を味わって、つぎの料理で自分なりの味付けなどの工夫をするのは勿論だが、それでもレシピの枠を出ることが出来ていない気がする。そもそもスマホやパソコンによるネットワークなどがなかった時代には、どのようにしてレシピを得ていたのだろうか。振り返って想像するに、レシピ本に準拠して自分用にメモを書き出して料理して、料理後の食事の感想を基にメモに手を加えていたのではないだろうか。私自身はやったことがないが、妻のレシピノートを見るといろいろと書き込みがある。やはり、スマホで完結するのでなく、自らの手で書き出して工夫の取っ掛かりを作ることが必要と思い当たり、実行始めた。

 

 友人の一人にベジタリアンがいる。奥さんに負担を掛けたくないと言って自分で料理している。彼の話を聞くと、グーグル検索などせずに、基本的な精進料理を参考に自分なりの工夫をして動物性調味材の助けを借りずに美味しい味わいを出せると彼は言う。例えば、鰹節の出汁は使わずとも、昆布とシイタケなどの野菜で十分においしい味が出せるといったように。二、三年前の春にタケノコ狩りに行ったあと、収穫を彼にも分けた。後日、タケノコ料理を6種類くらい写真に収めて、メールでなく「封書」に写真を入れて送ってくれた。若竹煮も鰹出汁を使わずに美味しく作れたと言う。感心しつつ、出来れば写真といったデジタルでなく、アナログで実物の味をみたかったと一言付け加えた。単にベジタリアンというだけでなく、デジタルもミニマムの利用にとどめている生活ぶりから、彼はボケる暇がないままに、永く世にはびこりそうだ。

 

 最近、小中学校の教科書がデジタル化を2030年度から本格導入を目指して、現在英語の教科書で段階的に導入が始まっていると聞く。完全デジタル化にはメリットとデメリットがあげられており、段階的導入を通じて明確化したデメリットにどう対策できるか検討することと思う。先行してデジタル化を実現したスエーデンではアナログへの逆戻りを始めたという。デジタル化というテクノロジー活用を否定することなく、アナログとのベストミックスが出来ることを期待したい。まして、最近大きな問題になりつつあるAIの研究論文利用でのガイドラインの設定の議論にもあるように、テクノロジーの便利さも活用することは良いことだが、一方で自身の「思考力」や「独創性」を鍛えるという大切な機会を失うことがないように、よく考えて利用を促進したい。

以上

2026年9月25日

延川和治

 

国内42万部を突破した、人生がうまくいく可能性を高める「五十二の思考法」を紹介する「Think clearly」 (ロルフ。ドベリ著)には、新しいテクノロジーについて興味深いことが書かれています。

車、パソコン、ソフトウエアなど、便利さを向上させる新しいテクノロジー。

しかしその便利さの裏には、そのガソリン代や、設定に必要な時間・労力、使い方を習得するための作業、ひっきりなしのアップグレードなど、さまざまな「反生産性的なコスト」が存在します。 

これらを合わせ考えると、新しいテクノロジーは、必ずしも思っているほど価値があるとは限らない。

だからこそ、本当に必要なもの以外は持たないようにしようと、という考え方です。

 

では、キャリアの世界ではどうなのでしょうか。

自分が進みたいキャリアへ向おうとするとき、家庭の事情、経済的背景とか、年齢など、前に進もうとする力を抑えるさまざまな要素があります。

これらは上記のテクノロジーの「反生産的コスト」と同じなのでしょうか。

 

家庭の事情も、経済的な事情も、年齢も、持つ・持たないの選択ができるものではないと思います。 むしろ、それらを含めた環境そのものを全て受け止め、これらと共に進んで行く、これがキャリア作りなのではないでしょうか。

 

そして、進みたいキャリアが変ることもあります。

やってみたいことが、いろいろある。 ひとつひとつやりたくなる。

やってみないと判らないこともあります。

失敗をしてみなければ判らないこともあります。

途中で方向を変えたからこそ、自分が本当にやりたいことに気付くこともあります。

この最後の段階に残らなかったそれまでの数々の失敗の経験を、全て「反生産的コスト」と仕訳していいのでしょうか。

むしろ、これらは自分の本当のキャリアを探すために必要だったコストのように感じます。

  

20代のファーストキャリア、50代のセカンドキャリア、60/70代のサードキャリア、

この間、同じキャリアの目標を持ちつづけていたとしても、それぞれのときにキャリアを取り巻く環境は異なっていたと思います。 

それでも、その時々の異なる環境を抱えながら、自分が創りたいキャリアを創り上げて行く。 これが「自分のキャリア」ではないでしょうか。

 

いろいろ失敗もする、遠回りもする、取り巻く環境も引きずっていかねばならない。

結果的に、100%満足とはならない事が多いのかもしれません。

他の人と比べたら「もっと良いキャリアがあったのでは」と思うこともあるでしょう。

 

でも、今のキャリアは、これからのキャリアは、自分が積み重ねてきた経験と失敗、自分が置かれた環境、そして、その中で自分が選んできたキャリア。

それを思えば、その人の今のベストキャリアを作っていくことができるのではないでしょうか。

 

人と比べてとか、世間がどうとかでなく、その人自身が、自分にとってのベストと思うキャリア、この自分のとってのベストキャリア作りをサポートしていくのが、キャリアコンサルタントの役割の一つと理解しています。

 

以上

便利な世の中の中の一考

 

2026年9月22日 大圖健弘

 冒頭から突然だが、兎角現代は便利な世の中になったものである。「家の中にあっても家の外にあっても必要だと感じるものがすぐ手に入るようになり、必要な情報がスマホやPCを通して、労せず目の前にやってくる。」「一昔前なら現地に行かなければ手に入らなかったものが一日ぐらい待てばどこにいてもすぐ手に入れることもできる。」「以前であれば難しかったいろいろな手続きもITの力を借りれば比較的簡単に行うことができる。」こうした状況はつい半世紀前には想像できない状況であり、本当に世の中の技術の発展に改めて驚かされる。

 しかし、ふと、我に返った時、本当にこれでよいのだろうか、と考えてしまうことがある。確かに、こうした技術の発展によって私たちの生活が良くなったように感じているが、それが本当の事なの?といった疑問や、その便利さを享受したことによって逆に自分たちが失ったことはないの?とかという疑問がわいてくることが特に最近多く感じるところである。

1, 生活は便利になったの?

この疑問は、技術が発達したことによって、従来簡単にできていたことが、逆に複雑化して行われてしまい、個人の生産性や、全体の生産性に大きな影響を与えてしまう事が良くあることでもわかる。

例えば、色々な役所の手続きについても、今までなら手で書いた書類を提出するだけで事が済んだのに、今ではIT化が進んだために、インターネットにつないだ機器からでなくては、手続きができなかったり、窓口でも機器を使った手続きしか案内されなかったりという状況が出現している。こうした現象は特に近年多く発生するようになったと感じている。

 事実、先日もある補助金の申請をしようと思ったら、手書きの申し込みではできず、Excel表等の提出や、ネットを通したPDFの提出でしか対応できない状況で大変苦労したという、苦労話を伺ったことがあった。

これらは、一般的には便利になったといわれながら実は不便になっている一つの例である。確かに、一方で便利さの利益を享受できているのに対し、不便を感じている人がいるということになるのかも知れない。

 

2, 自分たちは便利と引き換えに失ったものはないの?

社会では、こうした技術の進歩のおかげで自分たちの生活が、非常に快適になっていることはある意味正しい理解ではあるのだが、こうした便利を享受することによって、その背景にある技術の習得や、原理原則まで忘れ去っているのではないかという懸念が多くの人から投げかけられている。

例えば、かなり以前から、子供たちが電卓を使って計算をすることについて、便利になるがそれによって計算力や数値把握能力が養われないのではないかという議論がされてきたことはよく知られている。

現在色々な情報が、労せず手に入ることから、情報を得ようとするプロセスがわからなくなるのではないかといった懸念や思考をしなくなるといった懸念が世の中でも沸き起こっている。

こうした、便利がかえって不便になったり、便利になったりすることによってその事象の根底にあるものについての理解ができなくなることについての懸念は、昨今のAIの発展や普及においても大きな問題になっている感じがする。確かに、AIの社会浸透に伴って、色々便利になっていることは間違いがない。しかし、この世界もよく注意しなければ、とんでもないことになる危険性を抱えている。筆者の職場でもAIを活用した業務推進を進めているが、そのAIなるものはよく間違いを起こす。しかし、AIに纏めさせたもの作成させたものは見栄えが良く、特にAIが断定的に示してくることから、よく考えない人はその結果を批判なく受け入れ正しいものと感じ、「AIは便利だ」「AIは偉大だ」と信奉してしまう。こうしたことが、世の中でしばしば起こってしまったのでは、便利になった世の中とは言えず、技術の発展がかえって世の中を衰退に導いていくことになる。

 

私たちは技術の発展をこれからも受けていくのであるが、技術の発展のみを信じているとこうした藪蛇になりかねない。技術の発展を無批判に受け入れるのではなく、しばしば立ち止まって本当に必要な技術が何かということを見極め、必要な技術を受け入れていくことが必要だと考える。それ以外の技術については、本当に必要な技術に進化させたりしながら、時には不要な技術は切り捨て、安全で本当の意味で便利な社会を築いていかなければならない。

 

                                 以 上

失敗から学ぶ「MECE」を満たす準備の大切さ

 

2026年8月22日 鈴木 友之

 

 一昨年、ブドウ棚を作ってデラウエアの苗を植えた。昨年、早くも数十房に袋掛けして実を害虫や鳥から守り、味もそこそこに味わえた。今年はさらに美味しくしようと有機肥料を一層多く、とは言っても過ぎぬ範囲で施して、消毒も念入りにしてから袋掛けをして万全を期した。

 

 ところが、である、昨年は一度も被害にあわなかった鳥害に悩まされることになった。7月の終わりごろ、妻がムクドリがブドウ棚の下で何やら熱心にブドウの実り具合を見ている様子だと言う。私も見てみたら、なるほど妙にブドウ棚を見上げてキョロキョロしている。そして1週間後から、鳥たちとの戦いが始まった。

 

 まず第一波は紙袋をつついて破ることから始まった。紙袋の中のブドウの実が食べられ地面に皮が散乱した。対策第一弾として鳥よけ用光る短冊を下げたが効果がない。第二弾として防鳥ネットを購入してぶどう棚の周りを囲った。1-2日位は効果があったようだが再び攻撃された。紙袋が破られ食べたブドウの皮が地面に散乱する。対策第三弾として紙袋の上にさらにプラスチック製網袋を掛けた。さすがに紙袋とは違って破られず効果が出たと思ったのもつかの間、網袋の上から紙袋をつついて破り実の汁を吸いだす、果ては袋ごと引きちぎられて地面に落ちて袋から実を取り出される。鳥の食べることへの執念の凄まじさを思い知らされた。

 

 2週間後、実がほぼ熟したのを確認して、無傷な房をすべて採り込んだ。紙袋を掛けた数から採り込めた房を数えたら、約6割を鳥、ムクドリやヒヨドリと思われる、に食べられたことになる。鳥対策に追われた2週間の後の虚脱感を収穫したブドウの甘味で癒した。おすそ分けした隣人や友人からも美味しいとの“絶賛”をいただいて慰めになった。

 

 昨年、山梨県勝沼へブドウ狩りに出かけて、ブドウ園で巨峰を味わいながら係の人にブドウを育てる苦労と工夫を聞いて、今年のブドウ栽培の参考にした。今思い返すと、一つ一つの工夫も大切だが、ブドウ園全体の工夫に目をやらず、背景にある鳥獣外の実態を聞かずにいたことに気がついた。勝沼のブドウ園は区画ごとに周り四方とブドウ棚の上をすべて金網で覆っている。これを高品質のブドウ栽培を目指す専門業者だからと解釈して、素人はそこまではとパスして、結果鳥害を軽視していたことに思い至った。

 

 ことほど左様に、現実を直視して事前に対策をするのは難しい。せっかくの先駆者ともいえる専門家の取り組みを見学し聞きながら、十分に聞くに至らなかったことを大いに反省している。調べる以上は、当たり前と思っても、敢えて調査確認項目にリストアップして漏れのないように、それこそ「MECE (Mutually Exclusive Collectively Exhaustive)」を心がけたい。

 

以上

                                キャリア開拓における失敗とそれに学ぶ対応

                                                                                                                 2026年8月21日 大圖健弘
 よく、「失敗は成功の母」などといい、失敗を恐れず物事に挑戦し、その失敗から学び、良い方向に物事を進めることによって成功をつかむことが重要だといわれる。その言葉を聞くと、確かにそうなのだなと頭の中では良く理解することができる。失敗することで、色々なことが学べるということが主眼であるが、「現実の人生の中で、そんなに失敗をすることが多くあるものではない、あるいは、失敗をそんなにしてしまっては、人生多変だ」と思ってしまうこともあったりし、中々「失敗は成功の母」に巡り合うことは多くないのではないかと思う。
 しかし、キャリア開拓の世界、特に転職して会社でのキャリアを積んでいく中では、まさに、「失敗は成功の母」ということが重要な意義を持つものだと最近つくづく思う。会社人生を考えてみた場合、学校を卒業して新卒で仕事を見つける場合は、会社1社あたりの採用数も結構多人数であることから、競争も少なく、比較的職にありつきやすいことは、よく言われるところである。しかし、いざ、セカンドキャリアを模索する段階になると、なかなか就職することは容易ではない。事実、筆者は長年、会社の採用業務にあたってきたが、新卒採用にあたっては、応募者が仕事の経験も少なく、それぞれの応募者の可能性を見極めて採用するということもあり、採用基準は、比較的甘くなる。これに対して経験者採用は、即戦力の採用であり、本人の経験を十分吟味するし、採用数も1,2人といった少数であることもあり非常に厳しい採用基準になることが普通である。
 この中で、転職のための就職活動にあたっては、一発で職を得ることはが非常に難しく就職活動に失敗するたびに、その行動に関して反省し、次に役立てることが重要なキーになる。こうして一回一回の失敗について反省し、それを生かすことで最終的に就職を勝ち取ることが必要となる。この失敗の中で人は、面接官へのアピールの仕方。話の仕方、面接に向かう態度等1回1回を学び取ることができ、その学びを次回の面談等に生かすことによって、失敗することが少なくなってくるのではないかと思う。まさに「失敗は成功の母」なのである。勿論、こうした失敗をしないで、新しいキャリアを切り開ければ、それに越したことはない。しかし、なかなかそんなにうまく事は運んでくれない。
 事実、筆者は、50歳代、60歳到達時、65歳到達時等に就職活動を行ってきたが、それぞれの時期の就職活動において、失敗した反省を生かすことで、面接試験等で失敗する回数が減ってきており、各時期の就職活動の学びによって、応募する仕事の選び方等にも、工夫をこらせるようになってきている。
 是非、就職活動にあたっては失敗を恐れず、失敗に学んでより良い結果を勝ち取る方が増えることを祈っている。

                                   以 上
 

2026年8月20日

延川和治

 

大きく期待を膨らませて、新しいキャリアに挑む。

順調にいけば、その期待もさらに膨らみ、毎日を活き活きと過ごしていく。

けれど人生は単純ではないのが現実。

 

失敗もする、思いがけないこともおきる、嫌なこともでてくる。

自分の思い描いていた結果にならない。

そんなとき、心のパワーは急降下。

 

その時あなたはどうしますか?

力の出ない心を引きずりながら、モヤモヤといつまでも進みつづけますか?

 

多くの賢人達は、言います「素直に現実を受け入れろ」と。

でも、それが出来ないから、悩むのですよね。

 

だから私は、まず、

「残念なら、十分残念がっていい。」

「悔しいなら、十分悔しがっていい。」

「落ち込むなら、十分落ち込んでいい。」

 

そう思います。

その気持に先ず十分に浸ってみる。

これがスタートと思います。

 

その上で少し気持に余裕が出てきたら、紙の上に書き出してみます

まず「自分は何をやりたかったのか」

次に「その結果はどうなったのか」

そして、「なぜ、その結果になったのだろうか」

この“なぜ”は、思いつくいろいろな角度から全て書き出してみてください。

 

理屈が通らないことでもかまいません。 

「会議室の雰囲気が重すぎた」でもいいですし、

「忘れたスマホが気になっていた」でもいいです。

正しい原因を最初から見つける必要はありません。

まずは、自分の頭の中にあるものを、全て外に出して見ます。

 

その上で、その中から、

「これが大きかったかも知れない」と思えるものを2つ、3つ書き出し、

「次に同じ事が起きないようにするには、どうすればいいか」を考えて見てください。

 

そして、それを、実行してみてください。

もし、効果を感じられなければ、次の対策を実行してみてください。

 

私は思います、どうか、一度の失敗で、自分自身を評価決めしてしまわないでください。

私は、失敗を「終わり」にするのではなく、次の行動を考える材料に変えていくことが大切と思います。

 

人間は感情の生き物、だからこそ、その感情に十分に浸ることが大切、ですが、

それに留まり続けるのではなく、「次にどうするか」を考える。

御自分のキャリア目標に向う力を湧き出させ、一皮むける自分を創り続ける、

上記がその一つの方法になるのではないでしょうか。

 

一日の終わりに、その日

「よかった」と感じたことや、

「嬉しかった」

ことをいくつか思い出してみる。 

小さなことでかまいません。

 

そのポジティブな気持を少しづつ積み重ねていく、

そんな心の土台もつくりながら、

日々の落ち込みを乗り越え、御自身のキャリア目標達成に向かい、

意欲的に進んでいかれる、そのための小さな一助に、

この文章が、なれれば幸いと思います。

 

以上

目標達成にむけたパブリックコミットメント(公言)の効果

 

2026年7月26日 鈴木 友之

 

 大分昔の経験だが、20代に仕事で一緒した先輩と1か月間昼夜をともにする突貫工事のような仕事をした時期があった。二人とも独身だったから出来たのだろうが、仕事に追われる中で食事も睡眠時間も不規則な生活になり、仕事のストレスもあったのだろう、不摂生な食事で見る見るうちに太って来た。あるとき二人で食事しているときに、太ってきて服を作り直す必要性に話が及んだ。このまま太ってしまうのは受け入れ難い、ひとつ気合を入れて体重を減らそうという結論に至った。ふたりそれぞれの目標体重を設定して、仕事が一段落する1か月後に体重を図り、目標を達成した者に達成できなかった者がご馳走することにした。私は岩城宏之さんの減量体験談を参考に、減量作戦を立てた。まず毎日の食事のメニューを手帳に付けて、カロリーを概算で算出し記録し、体重も測って記録する。二人一緒にする昼食や夕食では、定食のご飯など半分ずつに分け合ったり、魚や肉料理は敢えて半分残したり。一方、野菜などはしっかりと摂るように心がけた。もちろん、間食はせずコーラなどの甘い飲み物は止めてお茶や水で済ませた。一か月後、二人で社内にある診療室の体重計で図り、減量値を確認。二人とも10kgを超える減量目標をめでたくクリアできていた。二人でお互いの努力を祝ってご馳走し合った。

 

 これは正に目標を達成するための方法「パブリックコミットメント(公言)」で多くの方が実践しておられると思います。この方法の効果には大きく3点あげられる。前述の例に当てはめて考えると次のような効果となる。

 ①    責任感の向上

   同僚と宣言し合うことで達成への責任を強化した。

 ②    モティベーションの維持

   食事のカロリー計算をして記録し、体重も毎日図って記録して、改善は喜びに、悪化は反省につなげた。目標達成の暁には   

   ご馳走が待っている、また着ている洋服がきつくなっているのが解消されるといった楽しみをイメージした。さらには、食  

   事管理と体重測定を記録することが楽しみにもなった。

 ③    周囲からのサポート

   仕事を日夜一緒にしている同僚と状況を共有して励まし合った。

一方で、実践する際の留意点としては、

 ①    ハードルが高すぎる目標にしない

   減量目標に際しては、身長と体重の関係から適正な体重を割り出して減量目標を設定した。実行に当たってカロリーは抑

   えるが、野菜などを積極的に食べてビタミン等の栄養素をしっかりとるようした。これは空腹対策にもなった。

 ②    進捗の共有

   周囲からのサポートでも述べたように、同僚と状況を常に共有して励まし合った。

 

 では、なぜパブリックコミットメントが目標達成に有効なのか。一つには「一貫性の原理」によると説明されている。すなわち、人間には「自分の言葉や信念、態度、そして行動を一致させたい」という強い欲求がある。例えば、「一貫性のない人間は信頼できない」とか「意志が弱い」とみなされるのではという社会的評価への懸念があり本能的に一貫性を保とうとする。また、一度決定した方針に従い続けることで、毎回ゼロから決断する思考ストレスを減らせるといった効果があるとも説明されている。さらに、公言することで「自己イメージの固定」につながり、公言を破った時の「信頼失墜」といった社会的コストが生じる懸念から一貫性の原理が強化されると考えられる。

 

 また著名な心理学者レオン・フェスティンガーの提唱した「認知的不協和理論」という視点から考えてみたい。まず、「目標を宣言した自分(A)」と「行動していない自分(B)」の間に矛盾が生まれると脳は強いストレスを感じる。Aで公言した目標を変えられないとなると、矛盾を解消するためにはBの行動を変えることになる。

イソップの「酸っぱいブドウ」寓話では、キツネが高い木の上にあるおいしそうなブドウを見つけて何度も飛び跳ねあがっても届かない。どうしても届かないので「どうせあんなブドウは酸っぱくてまずいに違いない」と言って立ち去っていく。飛び跳ねても届かないキツネがA、「おいしそう」という考えを「酸っぱいに違いない」に変えて立ち去るキツネがBとなる。

私の減量努力の例に当てはめると、減量目標を公言した自分がA、いろいろと食べたい自分がBとなる。Aが公言した目標を変えられない状況で矛盾を解消するために、Bが考えと行動を変える、即ち食事を管理維持することになる。

 

 どうでしょうか、何か成し遂げたいときには、途中で挫折する可能性から公言を避けて、こっそりと頑張って、達成したら高らかに発表したいと思う気持ちがありと思います。私がそうですから。しかし、そこを敢えて公言することで行動への動機づけを強化してみませんか。上記に紹介したように、無理せず達成可能な範囲でストレッチした目標設定、モチベーション維持する方法を取り入れて、公言することで周囲のサポートも得て、トライしようではありませんか。

 

以上

組織、特に非営利組織での個人の行動は

2026年7月21日  大圖健弘

 

 先月、所属する趣味の団体における、組織員の考え方の問題について、話題にしてみたが、もう少し敷衍して、こうしたサードキャリア年代の活躍する組織での個人の行動について考えてみたい。

 若い時に所属している団体、特に会社のような営利団体においては、組織の目標が組織の持続的な成長や売り上げ極大化、利益極大化といった形で明確であることが多く、それに向けて組織の構成員が、行動することによって全体最適の行動が保たれる。この為、その組織の構成員は、多少の不満や細かい考え方の違いがあるにしてもその行動は組織の目的に合わせて、柔軟に変化させながら進めていくことが普通である。

 ところが、営利団体でない組織や、明確な組織の目標の無い団体であっては、個々人の行動は必ずしも、同一の価値観に基づく行動にならないことが多くなってくる。筆者は50歳代のころとある特定非営利活動法人に所属していたことがあったが、多くの企業人等が参加していたその団体においても、大きな組織目標は大まかにはあるものの、その目標を達成するための行動様式、あるいは目標自体の具体的な形についてはそれぞれの構成員によって考え方が違い、結果において、その団体全体のコンセンサスが取れないことが多くみられた。

 所謂会社人のメンバーが多いそうした団体でさえそうした状況にあるのであるから、サードキャリア世代の集まる団体において、その組織の構成員の行動様式が全体最適を前提とした行動になることは非常に難しい。特に、その組織の目標でさえ人によって考え方が違うことが良くあることである。この中で、その組織の構成員としての自己の行動の考え方は、他の構成員の考え方や、行動様式を尊重し、全体の和をまず考えるのではなく、その組織の在り方に対する自己の考え方をしっかり持ち、その考え方を堂々と主張して、その組織のありように貢献することではないかと考える。勿論、エゴむき出しで主張するのではなく、その組織の貢献することが前提での話であるが、バラバラの考え方の構成員の話を聞きながら調整を取っていくことは、到底難しいと考えられることから、それよりも自分の考え方を明確に主張し、できうる限り明確な形で組織に対しする行動様式を決めていくことの方が、その組織に対していい影響を与えるのではないだろうか。

 組織全体のまとまりをもたせる意味でもこうした積極的な行動が望まれるところである。

 

                                  以  上

2026年7月20日

延川和治

 

会社が倒産した。

突然、自分が行く場所が無くなった。 

給料が入らなくなる。 子供の学費も、生活費もどうするのか。 

 

まずは給料を得られる場所を探そう、どんな仕事でもいい。

まずは生活の維持が先決だ。

 

そんなとき

「自分のキャリアの目標、自分は何になりたいのか」、「何を成し遂げたいのか」などを

考えている余裕はないかもしれません。。

しかし、それでも私は思います、

「環境には柔軟に対応しても、キャリアの目標だけは、頑固に手放さない」でほしいと。

 

物事が常に流動的に変化する時代です。

AIの登場で、その変化のスピードはとても速くなっています。

変化する状況や環境に柔軟に対応しながら、目標にむかって進んでいく、その柔軟性は、キャリアの世界でも大きな強みになるはずです。 

 

ところが、ロルフ・ドベリ著世界的ベストセラー“Think clearly”には、この柔軟性を「不利・不適な対応」、「柔軟に対応し続けているうちに、いつのまにか、元々の目標を見失い、その結果気がついたときには、不平、不満、落胆のみが残る」との記載があります。

 

言われてみると、確かに私自身にも、「いつのまにか、元々の目標を見失っていた」という経験がある様に思います。

 

キャリアを歩んでいると、いろいろなことが起こります。

スタートアップしても失敗、挫折、会社に就職しても倒産、解雇、加えて経済的制約、家庭環境、年齢・加齢などなど。

自分ではどうしようもない環境変化に出会うこともあります。 

そんなとき、それまでと同じように進んでいくことはできません。

その変化に対応していかなければなりません。

いったん、自分の目標から離れざるを得ないこともありうるでしょう。

しかし、そこで大切なのは、「目標から離れることと、目標を失うことは違う」

ということではないでしょうか。

 

倒産した。

まずは生活のために、別の仕事に就く。

それは、キャリアの目標を諦めたこととは違います。

今は生活を守るために、別の道を歩いている、しかし、いつかまた目標に向って進む。

その意識だけは、どうか失わないでほしいと思います。

 

失敗をしたときと同じです。

自責の念にかられる。 

「この仕事は自分に向いていないのではないか」、「明日会社に行きたくない」、「もう退職しよう」、そんな負の感情スパイラルに入ってしまうことがあります。

そのようなときも、すぐに結論を出すのではなく、柔軟に取敢えずの対応を行い、

環境の変化の要因を広く理解し、今まで自分が積み重ねてきた実績を振り返り、自分の強みを再認識し、自信を取り戻す。

そして、ひとりで抱え込まず、周囲の方々にも相談する。

そのうえで、いろいろな選択肢のなかから、もう一度自分のキャリア目標に向える道を選択し、挑戦する。

 

環境には柔軟に対応する。しかし、目標は頑固に手放さない。

 

私は、これがキャリアを歩む上で、とても大切なことだと思います。

ビジネスエリートに共通する特徴として

“失敗から立ち直り、逆境を乗り越え、成長する。 そして長距離走を走るように、長い時間をかけてキャリアを築いていく“ということがいわれます。

キャリアは短距離走ではないと思います。

自分ではどうしようもない外的環境変化に出会ったりして

途中で道がかわることもあり、立ち止まることもあると思います。

それでも、「自分がどこに向いたいのかだけは、常に忘れない」。

 

環境変化には柔軟に対応しながら、「キャリアの目標は、頑固なくらいに手放さない」。

そんな姿勢で、御自身のキャリア目標の実現を目指していただきたいと思います。

 

応援します。

キャリアコンサルタントとして。

 

以上

簡単に頼みごとに応じるのはやめよう

 

2026年6月27日 鈴木 友之

 

 このテーマで一番に思いつくことは「オレオレ詐欺」だ。普段音沙汰のない孫から突然電話がかかってきて「お金を融通して欲しい」という相談。今は亡くなった母が一人住まいの時によく電話がかかってきたと言っていた。その時の返事は「おばあちゃんには良く分からないから、お母さんに相談してみたら」と返事して電話を切ったという。最近はこの手の詐欺は減ってきて、警察などからの脅しの電話が多くなってきているから、これまた用心が必要だ。では、お金ではなく、何かをして欲しいという頼みごとにはどうだろうか。会社での仕事の中での頼みごとの場合には、稟議という第三者の目が入るのでチェック機能が働くが、個人ベースだと第三者のチェックが入る機会がないままにことが進む危険がある。私自身の限られた経験では、例えば甥や姪、孫といった関係での入学・就職における保証人の依頼がある。これは、保証する対象と範囲が理解できているので躊躇なく引き受けている。

 

 では、信頼している人に短期間でもお金を融通して欲しいと頼まれた場合はどうだろううか。例えば、昨年評判になった映画「国宝」での歌舞伎「曽根崎心中」でのトラブルの発端は、主人公の平野屋の手代徳兵衛が叔父で平野屋の主人から縁談が持ち込まれたが、遊女お初との愛を貫くために縁談を断わった。既に継母に渡っていた結納金を取り戻して叔父に返えそうとしていた矢先に、親友と信じていた油屋九平次に3日間と相談されて、そのお金を貸してしまい、返されないままに追い込まれる話。実際の話、大金を持たない身が人に大金を貸すことは少なくても、保証人になった相手が破産してしまい保証人が借金が背負い込む話は小説ではよく登場する話。実際の話としても聞く。知人、友人、お金の関わらない交流が肝要に思う。

 

 なぜ、簡単に頼みごとを聞いてしまって泥沼に陥るのかと考えると、背景に3つの人間関係が考えられる。1つは先にも私事で紹介したように親戚関係や信頼できると思っていた友人・知人関係。2つ目は何らかの恩義や借りがあって断りにくい相手。3つ目は自分にも好都合と早飲み込みして合点する場合。

1つ目の親戚関係での甥や姪と言えども、当人や親をどこまで知っていて信頼に足る人物かどうかを確認することが重要だろう。遠い親戚や友人・知人となると人物だけでなく、なぜ自分に相談が?と疑問符をつけて確認することがいっそう重要になる。

 

 2つ目と3つ目の個々の例を挙げるよりも、一気に2つ目の恩義や借りと3つ目の自分にも好都合という2点が複合した場合を考えてみたい。偶さか、6月27日の日経新聞「私の履歴書」でケンタッキーフライドチキンを退職された大河原毅さんが新たに始めた会社が、北海道八雲町に持つ「ハーベスター八雲」の活用で協力を約束したのちに、再考して断った話が出ている。熟慮の末の結論だったと思うが、相当な勇気が必要だったろう。実際に断った直後は、地元の周りから強い批判を浴びたようだが、目指す自然保護の観点を大切にして事業に取り組んだ。その結果、いまでは地元自治体との友好的な協力関係を築いておられるそうだ。アドラー理論を岸見一郎さんの「嫌われる勇気」の大切さを感じる。

 

頼みごとに簡単に応じるのをやめるのは勿論だが、もし人間関係でつい応じてしまった後でも、よく考えて必要ならば断わる根拠を明確にして「嫌われる勇気」を持って断ることも大切に思う。そのあと誠意をもって取り組めば理解されるときが来るだろう。それこそ「雨降って地固まる」だ。

 

以上