ACIMは本当に本当に、surrenderの道だなぁと思う今日この頃。
携帯に付属の辞書を引いてみたら、こう書いてあった。
(ジーニアス英和辞典第3版)
surrender
上に(sur)与える(render)
昨日はlesson 64
わたしの役割を忘れさせないでください。
Let me not forget my function.
その説明には、こんなことが書いてあった。
神によってあなたに与えられた役割を果たすことによってのみ、あなたは幸福でいられます。
(『奇跡のコース』のワークを学ぶ ガイドブック3 聖なる関係1 香咲弥須子)
これを歓び、とぱっと素直に感じられないところが、いわゆる「自我の抵抗」でしょうか。
ACIMのいう「役割」とは、ただ「赦す」ことで。
「赦す」とは、ただ間違いを正すこと。
何も起きていない、最初から既に全て赦されているということ、つまり、分離なんかおきていないってことを受け入れること。
自我を捨てて、全てを聖霊におまかせする。
「私」が消えることが、幸福。
まさに、surrender。
今まで知っていた、使っていた「幸福」という言葉とは、まったく違う「幸福」。
それだけが、realだということを受け入れる。
本当のわたし、はそれを知っているけれど、自我をまとった私はおびえて抵抗している。
1年後か、何年先かわからないけれど、ワークの2周目(3周目かもっと先か?)にこれを読んだら、きっと笑っちゃうんだろうな。
こんなふうに思っていたんだね。
こんなふうに怖かったんだね。
こんなふうに頑張ってたんだね。
そんな自分からの声に励まされています。
ぽつんと投げた石の波紋。
だんだんと弱まりながらも、消えることなく伝わっていく波紋。
自分がぼとりと投げた石の波紋が、この世界にゆっくりとひそかに伝わっていく。
自分の投げた石の波紋を見ている自分。
かつては、そんなふうに世界を見ていた。
今は
自分自身がそのぽとりと投げ入れられた石であり、
自分の存在という波紋が、この世界を揺らしている。
そして、誰かの波紋に揺れている自分。
いくつもの波紋が重なり合って、世界が揺れる。
揺れて、変わっていく刹那の世界を経験し続ける。
揺れる世界を感じ、
その中に漂う自分。
世界に溶け合って
一部でもあり、全部でもあり。
水面に浮かび
水中にもぐり、泳ぎ、
時に水底にとどまる。
溶けて溶けて溶け合って
世界の全部を、すみずみまでを
この全身で、この指の先の先までも
感じている。
だんだんと弱まりながらも、消えることなく伝わっていく波紋。
自分がぼとりと投げた石の波紋が、この世界にゆっくりとひそかに伝わっていく。
自分の投げた石の波紋を見ている自分。
かつては、そんなふうに世界を見ていた。
今は
自分自身がそのぽとりと投げ入れられた石であり、
自分の存在という波紋が、この世界を揺らしている。
そして、誰かの波紋に揺れている自分。
いくつもの波紋が重なり合って、世界が揺れる。
揺れて、変わっていく刹那の世界を経験し続ける。
揺れる世界を感じ、
その中に漂う自分。
世界に溶け合って
一部でもあり、全部でもあり。
水面に浮かび
水中にもぐり、泳ぎ、
時に水底にとどまる。
溶けて溶けて溶け合って
世界の全部を、すみずみまでを
この全身で、この指の先の先までも
感じている。
今日は「神様のカルテ」が届いたので、特典映像も含めてなんやかやと数時間、見てました。
(終わった頃には、テレビでヤッターマンが始まった(笑)。)
確かにひいき目で見てるかもしれないけれど、この映画、好きなんだなー、としみじみ思った。
映画館で見た時、号泣覚悟で行ったけど、そうではなくて、はらりはらりと涙が落ちるような感じで。
じっくりじっくり大事にまた見たくて、ブルーレイ注文しちゃってました。
またあらためて見て、やっぱり静かで地味だけどじんわりと涙があふれ、でも胸に希望がほわっと残るようなそんな感じ。
一に止まると書いて一止さん。
一と止まるで正しい。
立ち止まって、悩んで考えて迷って。
でも先に進むしかなくて。
でも、
「毎日迷ってるよ、これでいいのか。」
そういうのが、自分も好きなんだなぁと思う。
古いのかもしれないけれど。
効率悪いのかもしれないけれど。
それでも好きなんだよね。
結局、それしか出来ないのかもしれない。
私は「ワクワク」という言葉が苦手で。
それは、なんだかはしゃがなくちゃいけないようなイメージがあって。
明るい方が好かれる、みたいな。
悩まないめんどくさくない人の方が好まれる、みたいな。
考え込む人は遅れてる、みたいな。
楽しく悩まず盛り上がっているのがハッピー、みたいな。
だから、「ワクワクしなくちゃ。」とか言われるのがひどく嫌いだった。
でも。
静かに静かに、でも確かに。
そんなふうに、私の中の「わくわく」はあって。
はしゃがないけれど、静かな熱のようなもの。
悩んで迷うけれど、
でもゆるぎないもの。
静かな静かなものが、ある。
静かに、確かに、地に足をつけて生きていきたい。
(終わった頃には、テレビでヤッターマンが始まった(笑)。)
確かにひいき目で見てるかもしれないけれど、この映画、好きなんだなー、としみじみ思った。
映画館で見た時、号泣覚悟で行ったけど、そうではなくて、はらりはらりと涙が落ちるような感じで。
じっくりじっくり大事にまた見たくて、ブルーレイ注文しちゃってました。
またあらためて見て、やっぱり静かで地味だけどじんわりと涙があふれ、でも胸に希望がほわっと残るようなそんな感じ。
一に止まると書いて一止さん。
一と止まるで正しい。
立ち止まって、悩んで考えて迷って。
でも先に進むしかなくて。
でも、
「毎日迷ってるよ、これでいいのか。」
そういうのが、自分も好きなんだなぁと思う。
古いのかもしれないけれど。
効率悪いのかもしれないけれど。
それでも好きなんだよね。
結局、それしか出来ないのかもしれない。
私は「ワクワク」という言葉が苦手で。
それは、なんだかはしゃがなくちゃいけないようなイメージがあって。
明るい方が好かれる、みたいな。
悩まないめんどくさくない人の方が好まれる、みたいな。
考え込む人は遅れてる、みたいな。
楽しく悩まず盛り上がっているのがハッピー、みたいな。
だから、「ワクワクしなくちゃ。」とか言われるのがひどく嫌いだった。
でも。
静かに静かに、でも確かに。
そんなふうに、私の中の「わくわく」はあって。
はしゃがないけれど、静かな熱のようなもの。
悩んで迷うけれど、
でもゆるぎないもの。
静かな静かなものが、ある。
静かに、確かに、地に足をつけて生きていきたい。
いや~、面白いことに。
飽きた。
はやっ!
飽きた、というのは正確ではなくて、終わった、終わりにする、かな?
昨日はまだまだ全然飽きていなくて、もう「とことんシリーズ」になっちゃうんじゃないかと思うくらい、やる気満々だった。
まだまだ、考えたい欲求・書きたい欲求が渦巻いていた。
でも。
今朝、目が覚めて、ワークブックを読んでいたら。
(昨日から復習のパートに入っています。)
言いたいことは、よーくわかった。
で?
こんな感じだった(^_^;)
もうちょっとちゃんと翻訳してみれば。
あなたの言いたいことはよくわかっています。
今までよくやってきました。
でも、そこはもう終わり。
もうそれを卒業するときが来ましたね。
わたしは過去しか見ていないし、わたしは過去の思考で埋めつくされている。
わたしは正しい世界を見ていない。
今まで私は「見ている」と思っていたけれども、実は何も見てはいなかった。
「見える」と思っていたものは、本当の姿ではなく、全てまぼろしだった。
ああ、私は何も見てはいなかった。
ってことが、なんか体感でわかった。
ここにいる自分の体感が、昨日までと変わっていることに気がついた。
本当に「見る」ということに、これから開いていく。
今までの全部は捨てる。
捨てることは怖いことではない。
捨てることは失うことではない。
古いものを捨てなければ、新しいものは入って来ない、
というのも、あなたの思い込み。
捨てる、ということの意味が既に違うのだ。
今までの全てに意味がある。
だからこそ、手放せる。
私の中にある、考えたい、言葉で表したいという欲求の先には、伝えたいという欲求があった。
それは、わたしの言葉で語る、というエゴの想いだったんだろう。
聖霊を通して、神は語る。
それと同じ。
あなたの言葉を語るのではなく、あなたを通してわたしの言葉を語りなさい。
あなたが語るのではなく、わたしに語らせなさい。
そこを預けて欲しい。
・
「神の声は、一日中、わたしに話しかけています。」と、Lesson49にある。
神の声を聞くって言うと、いわゆるチャネリングみたいなことを想定しちゃったりするのだけれど、それこそ神さまは常に私と一緒なわけで、聞こえることが普通の状態なんだよね。
だって、神のビジョンでみているわけだし、神の愛の中に我々はいるわけだし、そもそも我々は神の拡張なわけだし。
特別なことじゃない、ごくごく普通のことなんだよね。
「信じる者は救われる」っていうのは、それを受け入れれば、そういうふうに世界をみることが当たり前だって受け入れたならば、もうすでに世界はそうなっている、つまり救われているんだよってことなんだよね。
それが普通になる。
神の声とか、神のビジョンとか言われると、身構えて(?)しまうけれど、そうじゃなくて、ごくごくふつ~のことだって、今はそう思う。
今までは、「すごいこと!」っていう思い込みがあったから、何かを体験する時はすごかったんだろう(笑)。
慣れていないってこともあるけれど、「そういうのはすごいことらしい」という思い込みや刷り込みがあった。
突然雷とか光とかがピッカー!!!ってきちゃうとか。
涙があふれてとまらなくなるとか。
世界が変わっちゃって、もう普通の生活には戻れないとか、会社辞めちゃうとか(爆)。
あげく、世間から「変わり者」どころか、「ヘンな人」って後ろ指さされるんじゃないかとか。
そんで、最終的には道端の溝で野たれ死んじゃうんじゃないかとか。
だから、あー、怖い怖い、近寄らないでー!!って。
確かにそういうのもある、かもしれない。
最初はよくわからないから、そういうこともある、かもしれない。
でも、本当はもっともっと穏やかで普通のものなんだね。
だからイエスは「私に尋ねて欲しい。」って言うんだろうし、「瑣末なことほど私に尋ねなさい。」って言うんだろう。
特別なことじゃない。センセーショナルなことじゃないんだよね。
これが普通、これがありのままの姿だって受け入れたら、穏やかでいられる。
声高に叫ぶ必要はなくなる。
「特別な私」「人とは違う私」という幻想から自由になれる。
ごく普通の、ありのままの、わたし。
・
やっぱり「棚卸し」の時期なんだなぁとつくづく思った。
今まで忙しすぎて感じきることが出来なかった想いが、あとからあとから出てくる。
過去の記憶も、あれこれあれこれ蘇ってくる。
重しが無くなって、ぎゅっと押さえられていたものがふわぁ~っとほぐれ出してきているような感じ。
今までのいろんなことが少しずつほぐれ、それぞれの関係性が見えて、そして統合されていく。
もうしばらく、春休みは続くようです(^^ゞ
飽きた。
はやっ!
飽きた、というのは正確ではなくて、終わった、終わりにする、かな?
昨日はまだまだ全然飽きていなくて、もう「とことんシリーズ」になっちゃうんじゃないかと思うくらい、やる気満々だった。
まだまだ、考えたい欲求・書きたい欲求が渦巻いていた。
でも。
今朝、目が覚めて、ワークブックを読んでいたら。
(昨日から復習のパートに入っています。)
言いたいことは、よーくわかった。
で?
こんな感じだった(^_^;)
もうちょっとちゃんと翻訳してみれば。
あなたの言いたいことはよくわかっています。
今までよくやってきました。
でも、そこはもう終わり。
もうそれを卒業するときが来ましたね。
わたしは過去しか見ていないし、わたしは過去の思考で埋めつくされている。
わたしは正しい世界を見ていない。
今まで私は「見ている」と思っていたけれども、実は何も見てはいなかった。
「見える」と思っていたものは、本当の姿ではなく、全てまぼろしだった。
ああ、私は何も見てはいなかった。
ってことが、なんか体感でわかった。
ここにいる自分の体感が、昨日までと変わっていることに気がついた。
本当に「見る」ということに、これから開いていく。
今までの全部は捨てる。
捨てることは怖いことではない。
捨てることは失うことではない。
古いものを捨てなければ、新しいものは入って来ない、
というのも、あなたの思い込み。
捨てる、ということの意味が既に違うのだ。
今までの全てに意味がある。
だからこそ、手放せる。
私の中にある、考えたい、言葉で表したいという欲求の先には、伝えたいという欲求があった。
それは、わたしの言葉で語る、というエゴの想いだったんだろう。
聖霊を通して、神は語る。
それと同じ。
あなたの言葉を語るのではなく、あなたを通してわたしの言葉を語りなさい。
あなたが語るのではなく、わたしに語らせなさい。
そこを預けて欲しい。
・
「神の声は、一日中、わたしに話しかけています。」と、Lesson49にある。
神の声を聞くって言うと、いわゆるチャネリングみたいなことを想定しちゃったりするのだけれど、それこそ神さまは常に私と一緒なわけで、聞こえることが普通の状態なんだよね。
だって、神のビジョンでみているわけだし、神の愛の中に我々はいるわけだし、そもそも我々は神の拡張なわけだし。
特別なことじゃない、ごくごく普通のことなんだよね。
「信じる者は救われる」っていうのは、それを受け入れれば、そういうふうに世界をみることが当たり前だって受け入れたならば、もうすでに世界はそうなっている、つまり救われているんだよってことなんだよね。
それが普通になる。
神の声とか、神のビジョンとか言われると、身構えて(?)しまうけれど、そうじゃなくて、ごくごくふつ~のことだって、今はそう思う。
今までは、「すごいこと!」っていう思い込みがあったから、何かを体験する時はすごかったんだろう(笑)。
慣れていないってこともあるけれど、「そういうのはすごいことらしい」という思い込みや刷り込みがあった。
突然雷とか光とかがピッカー!!!ってきちゃうとか。
涙があふれてとまらなくなるとか。
世界が変わっちゃって、もう普通の生活には戻れないとか、会社辞めちゃうとか(爆)。
あげく、世間から「変わり者」どころか、「ヘンな人」って後ろ指さされるんじゃないかとか。
そんで、最終的には道端の溝で野たれ死んじゃうんじゃないかとか。
だから、あー、怖い怖い、近寄らないでー!!って。
確かにそういうのもある、かもしれない。
最初はよくわからないから、そういうこともある、かもしれない。
でも、本当はもっともっと穏やかで普通のものなんだね。
だからイエスは「私に尋ねて欲しい。」って言うんだろうし、「瑣末なことほど私に尋ねなさい。」って言うんだろう。
特別なことじゃない。センセーショナルなことじゃないんだよね。
これが普通、これがありのままの姿だって受け入れたら、穏やかでいられる。
声高に叫ぶ必要はなくなる。
「特別な私」「人とは違う私」という幻想から自由になれる。
ごく普通の、ありのままの、わたし。
・
やっぱり「棚卸し」の時期なんだなぁとつくづく思った。
今まで忙しすぎて感じきることが出来なかった想いが、あとからあとから出てくる。
過去の記憶も、あれこれあれこれ蘇ってくる。
重しが無くなって、ぎゅっと押さえられていたものがふわぁ~っとほぐれ出してきているような感じ。
今までのいろんなことが少しずつほぐれ、それぞれの関係性が見えて、そして統合されていく。
もうしばらく、春休みは続くようです(^^ゞ
『欲はやりきる、飽きるまで。』
と、ある意味、腹をくくったら止まらなくなった。
朝、目が覚めた瞬間から(もしかしたら夢の中でも)、思考がめぐっている。
お気に入りblogを巡回していたら、タイムリーなことにこんな記事があった。
そうなんだよ、同じ単語を使っていても、同じ事を話しているとは限らないのだ。
「考えるな」という人が想定している「考える」は、私の「考える」とは違うのかもしれない。
もしかしたら、私の「考える」はどちらかというと「感じる」に含まれるのかもしれない。
いや、先に「感じる」があるんだよね。
その感じたものが何なのかを考えている。
私の場合、常に先に何かを感じている。
それについて考えている。
「感じる」は、既にやっている。
というか、既に起きたこと。
それをちゃんと理解するために、考える。
感じようと考えているわけではない。
感じるのが先。
常に、最初に体験がある。
それは予期したもの、望んだもの、意図したものではなく、唐突にやってくる。
それがなんなのかを理解するために、考えるのだ。
何かを感じたら、そのまま受け止めてそれでいい、という人もいるだろう。
私は、「何か」のままで終わりたくない。
それがなんなのかをちゃんと理解したい。味わい尽くしたい。
ぼんやりとした感覚だけでなく、自分の中にしっかりと取り込みたい。
そう、考えるということは、味わいつくすということ。
言葉で表現したい。
言葉で表せないことだとしても、それでもなんとかして言葉でも理解したい。表現したい。
そうすることで、私は、より深く自分に溶け込ませることが出来る。
何かを思うとき、わたしは頭の中でも言葉で考えている。
たとえば、空腹を覚えた時、その感覚だけでなく、「お腹減ったな。何か食べたいな。何を食べようかな。」という言葉になった思考がある。
他人の頭の中はわからないので、長いこと、これが普通だと思っていた。
思う、考える、ということは、こういうことだという定義。
考えるということは、頭の中でおしゃべりすることと、完璧に一致している。私の場合。
どうやらそうでない人もたくさんいるらしい、ということを知ったのはかなり最近のことだ。
逆に言えば、そうでない人は、こんなに頭の中に言葉が詰まっている人がいるということは想像できないだろう。
私はこんなふうに、完璧に言葉の人だから、だから考えずにはいられない。
言語化したい、という欲求も捨てられない。
そして、私の中には常に私を見ている「私」がいた。
『我思う。ゆえに我あり』と言うときに、それに気がついた我、つまり思う我を見ているもうひとりの我、がいるというのと同じ。
常に私を見ているもうひとつの視点が、自分の中にある。
客観的に、起こっていることを見ている人。
観察者として見ている人がいる。
これまたごく普通に、物心ついたときから既にそうだったから、あまり意識もしていなかった。
悩んでいる自分、それは自我の自分。
本質としての自分は、それとは違う。
自分の本質は、悩んでぐちぐちしているものと同一ではない。
いろんなことを学んでいくうちに、こういう「理論」も手に入れて、観察者としての視点、がますますはっきりとしていった。加速していった。
自我に張り付いている本質の自分を引き離す、本質としての自分を感じることも容易に理解出来た。
どんなときでも、観察者としての自分がいる。
だから、明晰夢というのも、当たり前の感覚だった。
夢の中でも、夢を見ているということを知っている自分がいるし、だから、夢の内容をコントロールすることも出来る。
あ、これは結構体力がいるのだ。なぜだか知らないが。そういうことをすると、起きるとぐったり疲れている。今、気がついた。
でも、どういう夢を見るかをコントロールすることは出来ない。
見ようと思って夢をみることに成功したことはない。
話がそれた(^^ゞ
それじゃあ、四六時中、頭の中は思考でいっぱいかといえば、思考が止まる時、というのももちろんあるし、理解している。
もちろん、何かに熱中していて我を忘れているとき、ということだけでなく。
たとえば、瞑想中や、ある種、トランス状態になったときでも。
思考は静まるが、思考し続けているときもある。
完全に思考が止まる時もある。
ただ、いずれにせよ、観察者の視点は常にある。
感じている・体験している本体とは別の視点、とでもいおうか。
それが、黙って見ている。
そんな感覚が、確かに、ある。
深い深いところにおりていくときでも、まるで実況中継をしているかのように思考は動いている。
その先、すべてとまるところ、にいる瞬間も、多分、それ、はいる。
ただ黙っている。
黙って見ている。
時々、実況中継を始めそうになって、「いかんいかん、止まれ」と思うこともある。
その瞬間に言語化しようとすることは無理なのだ。
それ、つまり言語化しようとする機能、が動き出した瞬間、体験は逃げていく。
それがつまり、感じると考えるは、同時には存在しえないということ。
ただ、その体験が終わったあと(必ず、終わった感覚は訪れる)、思考が動き出す。
私は考え始める。
もちろん、すぐには機能しないこともある。
「今日は無理です~。アタマ働きません~。」とか(笑)。
ちゃんと思考がまとまるまで、時間を要することも多々ある。
それは、数時間だったり、数日だったり、ときには数カ月、数年...。
私は理解できるまで考え続けている。
考える。
私はこんなふうに考えている。
あらためて、自分でちゃんと文章にして書いてみて、面白い。
頭の中で言葉で考えているとはいえ、それと「文章にする」ということもまた、やっぱり違う。
やっぱり、面白い。
まだ飽きない^^ゞ
と、ある意味、腹をくくったら止まらなくなった。
朝、目が覚めた瞬間から(もしかしたら夢の中でも)、思考がめぐっている。
お気に入りblogを巡回していたら、タイムリーなことにこんな記事があった。
そうなんだよ、同じ単語を使っていても、同じ事を話しているとは限らないのだ。
「考えるな」という人が想定している「考える」は、私の「考える」とは違うのかもしれない。
もしかしたら、私の「考える」はどちらかというと「感じる」に含まれるのかもしれない。
いや、先に「感じる」があるんだよね。
その感じたものが何なのかを考えている。
私の場合、常に先に何かを感じている。
それについて考えている。
「感じる」は、既にやっている。
というか、既に起きたこと。
それをちゃんと理解するために、考える。
感じようと考えているわけではない。
感じるのが先。
常に、最初に体験がある。
それは予期したもの、望んだもの、意図したものではなく、唐突にやってくる。
それがなんなのかを理解するために、考えるのだ。
何かを感じたら、そのまま受け止めてそれでいい、という人もいるだろう。
私は、「何か」のままで終わりたくない。
それがなんなのかをちゃんと理解したい。味わい尽くしたい。
ぼんやりとした感覚だけでなく、自分の中にしっかりと取り込みたい。
そう、考えるということは、味わいつくすということ。
言葉で表現したい。
言葉で表せないことだとしても、それでもなんとかして言葉でも理解したい。表現したい。
そうすることで、私は、より深く自分に溶け込ませることが出来る。
何かを思うとき、わたしは頭の中でも言葉で考えている。
たとえば、空腹を覚えた時、その感覚だけでなく、「お腹減ったな。何か食べたいな。何を食べようかな。」という言葉になった思考がある。
他人の頭の中はわからないので、長いこと、これが普通だと思っていた。
思う、考える、ということは、こういうことだという定義。
考えるということは、頭の中でおしゃべりすることと、完璧に一致している。私の場合。
どうやらそうでない人もたくさんいるらしい、ということを知ったのはかなり最近のことだ。
逆に言えば、そうでない人は、こんなに頭の中に言葉が詰まっている人がいるということは想像できないだろう。
私はこんなふうに、完璧に言葉の人だから、だから考えずにはいられない。
言語化したい、という欲求も捨てられない。
そして、私の中には常に私を見ている「私」がいた。
『我思う。ゆえに我あり』と言うときに、それに気がついた我、つまり思う我を見ているもうひとりの我、がいるというのと同じ。
常に私を見ているもうひとつの視点が、自分の中にある。
客観的に、起こっていることを見ている人。
観察者として見ている人がいる。
これまたごく普通に、物心ついたときから既にそうだったから、あまり意識もしていなかった。
悩んでいる自分、それは自我の自分。
本質としての自分は、それとは違う。
自分の本質は、悩んでぐちぐちしているものと同一ではない。
いろんなことを学んでいくうちに、こういう「理論」も手に入れて、観察者としての視点、がますますはっきりとしていった。加速していった。
自我に張り付いている本質の自分を引き離す、本質としての自分を感じることも容易に理解出来た。
どんなときでも、観察者としての自分がいる。
だから、明晰夢というのも、当たり前の感覚だった。
夢の中でも、夢を見ているということを知っている自分がいるし、だから、夢の内容をコントロールすることも出来る。
あ、これは結構体力がいるのだ。なぜだか知らないが。そういうことをすると、起きるとぐったり疲れている。今、気がついた。
でも、どういう夢を見るかをコントロールすることは出来ない。
見ようと思って夢をみることに成功したことはない。
話がそれた(^^ゞ
それじゃあ、四六時中、頭の中は思考でいっぱいかといえば、思考が止まる時、というのももちろんあるし、理解している。
もちろん、何かに熱中していて我を忘れているとき、ということだけでなく。
たとえば、瞑想中や、ある種、トランス状態になったときでも。
思考は静まるが、思考し続けているときもある。
完全に思考が止まる時もある。
ただ、いずれにせよ、観察者の視点は常にある。
感じている・体験している本体とは別の視点、とでもいおうか。
それが、黙って見ている。
そんな感覚が、確かに、ある。
深い深いところにおりていくときでも、まるで実況中継をしているかのように思考は動いている。
その先、すべてとまるところ、にいる瞬間も、多分、それ、はいる。
ただ黙っている。
黙って見ている。
時々、実況中継を始めそうになって、「いかんいかん、止まれ」と思うこともある。
その瞬間に言語化しようとすることは無理なのだ。
それ、つまり言語化しようとする機能、が動き出した瞬間、体験は逃げていく。
それがつまり、感じると考えるは、同時には存在しえないということ。
ただ、その体験が終わったあと(必ず、終わった感覚は訪れる)、思考が動き出す。
私は考え始める。
もちろん、すぐには機能しないこともある。
「今日は無理です~。アタマ働きません~。」とか(笑)。
ちゃんと思考がまとまるまで、時間を要することも多々ある。
それは、数時間だったり、数日だったり、ときには数カ月、数年...。
私は理解できるまで考え続けている。
考える。
私はこんなふうに考えている。
あらためて、自分でちゃんと文章にして書いてみて、面白い。
頭の中で言葉で考えているとはいえ、それと「文章にする」ということもまた、やっぱり違う。
やっぱり、面白い。
まだ飽きない^^ゞ