『欲はやりきる、飽きるまで。』
ヒーラーたかだがそう言っていたのを思い出し、このさい「考えるな」ということについて、とことん考えてみた。
とことん、とことん、うざいほどに。
(行間ではもっと考えているし。)
我ながらうざいと思ったので、以下、自己責任でお読みください(~_~;)
-------------
「ひとりでやらない」というのが、目下の私の課題であるのだが、それは「考えすぎない」ということとセットになっている。
考えるということは、つまり私が何とか出来ると思っているということで、それはつまりひとりで出来る、ひとりでやろうとしているということ。
でも、何をどうしても考えてしまう。
現に今もこうやって考え続けている。
考えれば考えるほど、私は考えることが大好きと思えてくる。
好きでやっている。苦しくない。つらくない。むしろ楽しい。
わかっちゃいるけどやめられない。
しかしながら、よくよく考えてみれば、わかっちゃいないのだ。
それがよくない、ということが本当の本当にわかっていたら、やめるだろう。やめられるだろう。
やめない、ということは、わかっていないのだ。
なんで悪いのか、本当のところはわかっていないからやめないのだ。
そういえば、考えることは何が悪いんだろうか?
なんで、特にこのスピ業界(笑)では、考えるということが悪いこと、になっているのか?
なんでそんなに目の敵のように、半ば呆れ気味に、「まあ好きなだけやってれば」となるのだろうか?
考えるとどういう悪いことが起きるのか。どういう弊害が起こるのか?
その「理由」は誰もちゃんと説明しないよね。
だって、「考えない」のが前提だから。
考えずに、感じろ、なわけだ。
その理由を説明し始めたら、既に考えちゃってるわけだから矛盾になる。
いや、つまり「これ」だよ、ってことになるんだろうな。
今、私がこうしてやっているようなことが、「ほらほらそれだよ、それが困ったもんだよね。」ってことなのか。
でも困って無いし。
ある意味、特技だし。
「考える」ことの弊害を考えてみる。
「考えるな」と言うとき、セットで出てくるのが、「感じろ」だったりする。
つまり、頭で考えているうちは、感じられない、気付けない、わからない、ということか。
でも、何、を感じることが出来ないのか?
何、という言葉で説明できないこと?
しかしながら、考えて考えて考え抜いた先に、ふっとわかる。
そんな経験は何度もした。
思考と思考の隙間、思考の果てにやってくる、瞬間。
何も考えないでいたら、それは私にはやってこなかっただろう。
感じることが苦手か?といったら、私はもしかしたら得意かもしれない。
あまり気が付いていなかったけれど、決して、鈍感というわけではないみたい。
わからないことをわからない、とそのまんま言ってしまうから、自分は鈍感だと思い込んでいたみたい。
わからないということに気がつけるくらいは、鈍感ではないということ。
考えなければもっと早く、もっと簡単にわかるよ、的なこともよく聞くわけだが。
それは「その人の場合」なのだ。
その人はそういう体質、というだけの話。
どこかの誰かの成功法則であって、わたしのではない。
考えると感じるは両立できないのか?
いや、出来る。
出来ないという思考体系にいる人は出来ない。
出来るという思考体系にいれば出来る。
同時に存在するということと、両立出来るということは意味が違う。
同時には(瞬間としては)存在しえないが、両立は出来ると私は思っているから、だから出来る。
そうか。
ということは、私は考えれば考えるほど感じることが出来る、という思い込みの中にいるから、考えることをやめられないのだ、とも言える。
でも、どっちが得意かって話じゃないのか?
でも、じゃなくて、結局、だ。
結局、どっちが好きか、だけの話か?
もうちょっと違う切り口で考えてみる。
どうしよう、という「手段」を頭で考えることをやめろってことか。
あれこれ算段してみたところで、しょせん小さな私の頭、では大したことは思いつけない。
そういう「考える」をやめろということ?
多分、そんな気がする。
「考える」という言葉があらわすものが、そもそも違うんじゃないか、という気もする。
その「考える」と、この「考える」と。
まったく説明になっていないけれど、自分の中では違いを感じる。
そう、こんなふうに、私は「感じる」ことも出来る。
もう少し説明することにトライしよう。
「わかる」ための「考える」と、「やる」ための「考える」は違うのではないか。
何かをやるための手段とか方法とか、そういうことをあれこれ頭で考えること。
それは私もやらない、やりたくない。
昔は、ここでぐるぐる「考えて」どつぼにはまっていたけれど、今はもうやらない。
やりかけると、気がついてやめる。少なくとも、やめようと努力する。
何かを理解するため、自分の中で感じる違和感だったり、今までわからなかったことがもう少しでわかりそうな予感だったり、何か今までと違う新しいアイデアの芽のようなものだったり、そういうかすかな感触を理解するため、はっきりとわかるために考えること。
それはやめられない。
こっちの「考える」は、やめない、やめたくない、やめたら生きてる意味がないと思うくらい大好きだ。
ははは、すごいな自分(笑)
そんなに情熱的に好きなんだ。結局。
ならば、これでいいなぁ。
今はここまでしかわからない。
今はこんなところにいる。
好きだから、やめられない。
だから、好きなだけ、考える。
結局、「考える宣言」になっちゃったなヽ(^o^)丿
Lesson 46
God is the Love in which I forgive.
神の愛の中に入っていくと
赦すのは、わたし、しかいなくなる。
God is the Love in which I forgive myself.
○○さんも、□□さんも、△△さんも、いなくなり
すべて、わたし。
わたししかいなくなり
そして
神の愛
だけがある。
God is.
God is the Love in which I forgive.
神の愛の中に入っていくと
赦すのは、わたし、しかいなくなる。
God is the Love in which I forgive myself.
○○さんも、□□さんも、△△さんも、いなくなり
すべて、わたし。
わたししかいなくなり
そして
神の愛
だけがある。
God is.
今日は、lesson 42。
あいかわらず淡々とワークブックは進んでいます。
lesson 40だけは、2日間やりましたが。
10分ごとに思い出す、という日だったけれど、あまりに忘れてほとんどやらなかったので、次の日も取り組むことにした。
でもやっぱり、忘れる。
思い出してまたやるけど、また忘れる。
で、次に進むことにした。
ここで完璧さを求めるよりも先に進んだ方がいいような気がしたので。
ワークブックは香咲さん版でやっているのだけれど、しばらく前から英語版も見るようになった。
謙遜でもなんでもなく、私の英語力は中学生レベル。もしかしたらそれ以下。
英語で話しかけられると石になるタイプです。
ACIMに触れるようになって戸惑ったのが、「そんな日本語、人生で初めて口にします。」というような単語に出会うこと。
日本語だし、単語としての意味はわかっているけれど、今まで使ったことが無い、つまり、使うような場面に出くわしたことがないわけで、どうにもこうにもぴんとこないもどかしさを感じていた。
わたしの聖性が、世界を清めています。(lesson37)
ここでもうはがゆさは頂点に達した(笑)。
で、「聖性」って、「清める」って、元々はなんて言ってたの?と思って、ほこりをかぶっていた英語版を引っ張り出した。
My holiness blesses the world.
なんだ、わかるじゃん(笑)。
英語がそもそもわからないがゆえに、わかりやすい???
「聖性」とまったくなじみの無い日本語で言われるより、「holiness」という英語で言われた方がなぜかすんなり入ってくる。
使ったことが無い単語なら、いっそ英語の方がそのまんまでわかった気になるという不思議。
(あくまでも、私の場合は、ってことです。)
というわけで、ずいぶん前に買ったまま、ほぼ開いたことの無かった英語版がなんと役立つときが来た!
でも英語で読んでいるのは、lessonのアイデアの部分だけですよ(^^ゞ
説明文は英語ではまったくわかりません。日本語で読んでます。
で、今日のレッスン。
神がわたしの強さです。ビジョンは神の贈り物です。
これも、英語の方がわかりやすかった。
そして、このアイデアが自分の中に入ってきたら、一気に今までのレッスンのあまりピンと来ていなかった部分がクリアになっていった。
私の強さは、破壊する強さでもないし、対抗する強さ、戦う強さでも無い。
おそらく、前へ進むというような強さとも違う。
全部を受け入れて、いまこの瞬間にいること。
最初からすべて赦されてなにも起こっていない、ということを受け入れる。
そういう強さ。
神のビジョンで世界をみる私の視線。
それゆえ、わたしの見るもの全てに神がいるし、わたしが見ているこの世界は清められる。
瞬時に。
だからこそ、わたしが見ているこの世界はわたしが創り出したもの。
この新しい世界の見方。
これが神からの贈り物。
わたしはひとりではない。
神と聖霊とイエスと、三位一体。
その一体の中にわたしもいる。
だからこそ、わたしはあなたであり、わたしは世界になる。
境界線が消えて、分離という夢から覚める。
あいかわらず淡々とワークブックは進んでいます。
lesson 40だけは、2日間やりましたが。
10分ごとに思い出す、という日だったけれど、あまりに忘れてほとんどやらなかったので、次の日も取り組むことにした。
でもやっぱり、忘れる。
思い出してまたやるけど、また忘れる。
で、次に進むことにした。
ここで完璧さを求めるよりも先に進んだ方がいいような気がしたので。
ワークブックは香咲さん版でやっているのだけれど、しばらく前から英語版も見るようになった。
謙遜でもなんでもなく、私の英語力は中学生レベル。もしかしたらそれ以下。
英語で話しかけられると石になるタイプです。
ACIMに触れるようになって戸惑ったのが、「そんな日本語、人生で初めて口にします。」というような単語に出会うこと。
日本語だし、単語としての意味はわかっているけれど、今まで使ったことが無い、つまり、使うような場面に出くわしたことがないわけで、どうにもこうにもぴんとこないもどかしさを感じていた。
わたしの聖性が、世界を清めています。(lesson37)
ここでもうはがゆさは頂点に達した(笑)。
で、「聖性」って、「清める」って、元々はなんて言ってたの?と思って、ほこりをかぶっていた英語版を引っ張り出した。
My holiness blesses the world.
なんだ、わかるじゃん(笑)。
英語がそもそもわからないがゆえに、わかりやすい???
「聖性」とまったくなじみの無い日本語で言われるより、「holiness」という英語で言われた方がなぜかすんなり入ってくる。
使ったことが無い単語なら、いっそ英語の方がそのまんまでわかった気になるという不思議。
(あくまでも、私の場合は、ってことです。)
というわけで、ずいぶん前に買ったまま、ほぼ開いたことの無かった英語版がなんと役立つときが来た!
でも英語で読んでいるのは、lessonのアイデアの部分だけですよ(^^ゞ
説明文は英語ではまったくわかりません。日本語で読んでます。
で、今日のレッスン。
神がわたしの強さです。ビジョンは神の贈り物です。
これも、英語の方がわかりやすかった。
そして、このアイデアが自分の中に入ってきたら、一気に今までのレッスンのあまりピンと来ていなかった部分がクリアになっていった。
私の強さは、破壊する強さでもないし、対抗する強さ、戦う強さでも無い。
おそらく、前へ進むというような強さとも違う。
全部を受け入れて、いまこの瞬間にいること。
最初からすべて赦されてなにも起こっていない、ということを受け入れる。
そういう強さ。
神のビジョンで世界をみる私の視線。
それゆえ、わたしの見るもの全てに神がいるし、わたしが見ているこの世界は清められる。
瞬時に。
だからこそ、わたしが見ているこの世界はわたしが創り出したもの。
この新しい世界の見方。
これが神からの贈り物。
わたしはひとりではない。
神と聖霊とイエスと、三位一体。
その一体の中にわたしもいる。
だからこそ、わたしはあなたであり、わたしは世界になる。
境界線が消えて、分離という夢から覚める。
自分の中で、立春というのは、元旦よりもあらたまった、大きな区切りのような感じがある。
毎年、日照時間が短い時期は気が滅入りがちで、冬至から少しずつ日が長くなり、立春を迎えてやっと、「よし!」という気力がわいてくる。
今年はもう会社というストレスが無くなったので、それほど気が滅入った感はなかったのだけれど、やはり立春はひとつの節目として感じていた。
そういえば今朝、おかしな夢をみた。
久しぶりに夢らしい夢だった。
自分は高校生くらいの年齢で、国会か何かで演説しているのだ!
まっすぐでくそまじめな学級委員長というキャラクター。
この世界を変えていくのに、古い考え方、古いしくみで出来るのでしょうか?
私たち若い世代に、これからのこの国を託してください。まかせてください。
いのちをたくしてください。
新しいやり方で、新しい価値観で、明日のある私たちにやらせてください!
こんな感じで、全身にみなぎるまっすぐなエネルギーで演説している。
細かな言葉は忘れてしまったが、延々と理想を思想を希望を語っていた。
最初は苦虫をかみつぶしたような長老の議員たちも、引き込まれていくくらいのパワー。
同時に、きちんと現実的に地に足のついたやり方で世界を変えていっている将来のビジョンも見えている。既に起こったこととして。
確信に満ちたパワー。
全身に力が入って、両手を握りしめたような状態のまま目が覚めた。
夢から覚めて、
なんで、若い力?
なんで、これからの世代?
と苦笑しつつ、日常の世界に戻った。
立春。
図らずも、この日にちゃんと、また導かれたとしか思えないような新しい出会いと展開が用意されていました。
伝えられたメッセージは、またしても
「私が、を捨ててください。」
ひとりでやるのはもうやめにしましょう。
ひとりじゃないですよ。
と、笑っちゃうくらい同じメッセージを受け取りました(^^ゞ
今までの自分の人生に起こった様々なこと。
その意味がわかった、というよりも、
それらを全てOKと受け入れる新しい見方が私の中に育っていた
という感じがする。
それまでネガティブにとらえてきた出来事も、感謝を持って受け入れる、自分の中に迎え入れることが出来るようになっていた。
どんなことも全部、必要なことだった。
ありがたいことだった。
そしてそれはいつも、聖霊に導かれていたのだということ。
それが、わかった。
毎年、日照時間が短い時期は気が滅入りがちで、冬至から少しずつ日が長くなり、立春を迎えてやっと、「よし!」という気力がわいてくる。
今年はもう会社というストレスが無くなったので、それほど気が滅入った感はなかったのだけれど、やはり立春はひとつの節目として感じていた。
そういえば今朝、おかしな夢をみた。
久しぶりに夢らしい夢だった。
自分は高校生くらいの年齢で、国会か何かで演説しているのだ!
まっすぐでくそまじめな学級委員長というキャラクター。
この世界を変えていくのに、古い考え方、古いしくみで出来るのでしょうか?
私たち若い世代に、これからのこの国を託してください。まかせてください。
いのちをたくしてください。
新しいやり方で、新しい価値観で、明日のある私たちにやらせてください!
こんな感じで、全身にみなぎるまっすぐなエネルギーで演説している。
細かな言葉は忘れてしまったが、延々と理想を思想を希望を語っていた。
最初は苦虫をかみつぶしたような長老の議員たちも、引き込まれていくくらいのパワー。
同時に、きちんと現実的に地に足のついたやり方で世界を変えていっている将来のビジョンも見えている。既に起こったこととして。
確信に満ちたパワー。
全身に力が入って、両手を握りしめたような状態のまま目が覚めた。
夢から覚めて、
なんで、若い力?
なんで、これからの世代?
と苦笑しつつ、日常の世界に戻った。
立春。
図らずも、この日にちゃんと、また導かれたとしか思えないような新しい出会いと展開が用意されていました。
伝えられたメッセージは、またしても
「私が、を捨ててください。」
ひとりでやるのはもうやめにしましょう。
ひとりじゃないですよ。
と、笑っちゃうくらい同じメッセージを受け取りました(^^ゞ
今までの自分の人生に起こった様々なこと。
その意味がわかった、というよりも、
それらを全てOKと受け入れる新しい見方が私の中に育っていた
という感じがする。
それまでネガティブにとらえてきた出来事も、感謝を持って受け入れる、自分の中に迎え入れることが出来るようになっていた。
どんなことも全部、必要なことだった。
ありがたいことだった。
そしてそれはいつも、聖霊に導かれていたのだということ。
それが、わかった。
昨日は、やすらぎの部屋のヒーリングクラスの同級生が久しぶりに集まって、鍋パーティ。
シェアリングっていいよね、重要だよねと、楽しい時間を過ごしました。

<ボルシチ鍋だよ~。手前はサラダ♪>
ひとり暮らしの気軽さで、うちに友達が集まることが多い。
でも、昔は、自宅に人が来るなんて考えられなかった。
そういうことは自分は好きじゃない、苦手だと思っていたのだけれど、今はまったく気にならない。
むしろ好きだし、外で会うよりラク。
とはいえ最初のころは、張り切りすぎて、結果、いやになってしまった時期もある。
楽しいとはいえ張り切ってもてなしすぎて、やりすぎて疲れて楽しくなくなった。
それでしばらく人を自宅に招くのはお休みした。
誰にも頼まれていないのに、勝手に自分が頑張っちゃってただけなんだと気がついて、もうそういうことはしない、大変だと思ったらやらない・手を抜くと決めた。
料理を作るのも好きだし楽しいけれど、やりすぎないことにした。
そもそも、うちに来てくれるのはそれが目的でもなく、別に披露するほどの料理の腕前でも無い(~_~;)。
お腹減るから、なんかちょっと用意しとくかな、ってとこが始まりなわけだし。
もう気軽に適当にすれば良かったんだ、って気がついた。
そしたらまた人を招いて、ゆっくりお茶しながらご飯を食べながら話をするのが楽しくなった。
それでもやっぱり、料理を作るのも後片付けするのも、ついつい全部自分でやってしまっていた。
台所がそんなに広くないということもあって、それほど大したことをやるわけでもないから、ひとりでやる方が早いしラクかなと思っていた。
「手伝うよ。」と言ってくれても、「せまいから、いいよ~。」ってつい自分で全部やってしまっていた。
でも、昨日はなんとなく一緒にやってもらいたい気がして、手伝う気満々の人もいたので(笑)お願いした。
そしたら、な~んだ、すご~く楽しい♪
一緒に料理して、楽しかった~ \(^o^)/
私も楽しいし、手伝う方も楽しいのね。
ひとりで頑張らない方が、みんな楽しい、嬉しい。
なんでこんな簡単なこと、わからなかったんだろうか、わたし。
なんでもかんでも自分ひとりでやってしまう癖。
こんなところにしっかり出てる。
出来ちゃうから、ついやっちゃう。
でも、なんか違うんだな。
なんでこんなことわざわざ書いているかと言うと。
「ひとりじゃないですよね?」
「ひとりでやるんじゃないですよね?」
数ヶ月前から、繰り返し繰り返し出てくるこのテーマ(笑)。
でも、骨身に沁みてないっていうか。
本当の意味での理解に至っていないっていうか。
ちゃんと納得していないっていうか。
それが、
なんだ、こんなこと?
こんなちっちゃなところにも?
と思った次第(~_~;)
奇跡に大小は無いわけで。
ああ、こんな日々の暮らしの中にも、キラッと嬉しいことは用意されているんだな。
と忘れずにいよう。
「忘れないように」ついでに。
鍋の後は、タロットやってもらいました。
いろいろこっそり考えていたことを、見事アバカレ、ガツンと辛口(爆)。
忘れないように、ここに貼っておく!
いろいろどうもありがとうございましたm(__)m

シェアリングっていいよね、重要だよねと、楽しい時間を過ごしました。

<ボルシチ鍋だよ~。手前はサラダ♪>
ひとり暮らしの気軽さで、うちに友達が集まることが多い。
でも、昔は、自宅に人が来るなんて考えられなかった。
そういうことは自分は好きじゃない、苦手だと思っていたのだけれど、今はまったく気にならない。
むしろ好きだし、外で会うよりラク。
とはいえ最初のころは、張り切りすぎて、結果、いやになってしまった時期もある。
楽しいとはいえ張り切ってもてなしすぎて、やりすぎて疲れて楽しくなくなった。
それでしばらく人を自宅に招くのはお休みした。
誰にも頼まれていないのに、勝手に自分が頑張っちゃってただけなんだと気がついて、もうそういうことはしない、大変だと思ったらやらない・手を抜くと決めた。
料理を作るのも好きだし楽しいけれど、やりすぎないことにした。
そもそも、うちに来てくれるのはそれが目的でもなく、別に披露するほどの料理の腕前でも無い(~_~;)。
お腹減るから、なんかちょっと用意しとくかな、ってとこが始まりなわけだし。
もう気軽に適当にすれば良かったんだ、って気がついた。
そしたらまた人を招いて、ゆっくりお茶しながらご飯を食べながら話をするのが楽しくなった。
それでもやっぱり、料理を作るのも後片付けするのも、ついつい全部自分でやってしまっていた。
台所がそんなに広くないということもあって、それほど大したことをやるわけでもないから、ひとりでやる方が早いしラクかなと思っていた。
「手伝うよ。」と言ってくれても、「せまいから、いいよ~。」ってつい自分で全部やってしまっていた。
でも、昨日はなんとなく一緒にやってもらいたい気がして、手伝う気満々の人もいたので(笑)お願いした。
そしたら、な~んだ、すご~く楽しい♪
一緒に料理して、楽しかった~ \(^o^)/
私も楽しいし、手伝う方も楽しいのね。
ひとりで頑張らない方が、みんな楽しい、嬉しい。
なんでこんな簡単なこと、わからなかったんだろうか、わたし。
なんでもかんでも自分ひとりでやってしまう癖。
こんなところにしっかり出てる。
出来ちゃうから、ついやっちゃう。
でも、なんか違うんだな。
なんでこんなことわざわざ書いているかと言うと。
「ひとりじゃないですよね?」
「ひとりでやるんじゃないですよね?」
数ヶ月前から、繰り返し繰り返し出てくるこのテーマ(笑)。
でも、骨身に沁みてないっていうか。
本当の意味での理解に至っていないっていうか。
ちゃんと納得していないっていうか。
それが、
なんだ、こんなこと?
こんなちっちゃなところにも?
と思った次第(~_~;)
奇跡に大小は無いわけで。
ああ、こんな日々の暮らしの中にも、キラッと嬉しいことは用意されているんだな。
と忘れずにいよう。
「忘れないように」ついでに。
鍋の後は、タロットやってもらいました。
いろいろこっそり考えていたことを、見事アバカレ、ガツンと辛口(爆)。
忘れないように、ここに貼っておく!
いろいろどうもありがとうございましたm(__)m
