自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~ -14ページ目

自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~

自分で決めて、自分で生きる。
自分を愛して、自分を生きる。

自分の中に、

哀しさ

が、あるのを知っている。

寂しさ

なのかもしれない。


それに対して、
様々な「解釈」をされ、
様々な「原因」を指摘され
様々な「解決法」を提示され、
まじめに一生懸命、取り組んできた(笑)
自分でもいろいろと考えたし、感じてみた。

そのたびに、なんらかの「気付き」のようなものはあったかもしれない。

でも、根本は何一つ変わらなかった。

心の奥にある「それ」は、何も変わらなかった。


それに対してもまた

ブロックがある
心を開いていない
頑固
依怙地
傲慢...

と、様々な「解釈」をされ、まじめに「反省」してきた(笑)



やっと、

なんにもわかっていなかった

ということが、わかりかけてきた。


私の「哀しさ」は、なんにも伝わっていなかった、ということ。
本当の意味を理解していた人はいなかった、ということ。

相手もわかっていなかったし、
私もわかっていなかった。


こんなふうに言いかければ、
それは「傲慢」だと言われ、
何も言えなくなっていた。



この哀しさ、寂しさがあるからこそ、私は

生きることは素晴らしい

と、思いたいし、それを伝えたい。


この世界にいることのどうしようもない寂しさ。

だからこそ、繋がりたいと思う。

分離したこの夢の中にいるからこそ。



本当の意味の愛を

本当の意味での「ひとつ」を

多分、知っている。


「多分」というのは、この「わたし」である限り、
この分離した世界にいる限り、
「それ」を完全に感じることは出来ないから。

そもそも、「わたし」が「感じる」ことの出来ないことだから。


だから、さびしい。

だからこそ、さびしいのだ。



完全な愛から、離れている。


この「わたし」でいる限り、「それ」は想像でしかない。

分離した「わたし」が感じることが出来るのは、
完全に「それ」であることは出来ない。



どれだけこの世界が美しくても

どれだけこの世界に愛を見ても

完全からは離れている。



だからこそ、愛おしく思う。

だからこそ、美しいと思う。



この絶対的な矛盾の中にいる、愛おしい「わたし」

このどうしようもない寂しさ。



だから私はずっと、「かみさま」と呼ばれるようなものが嫌いだった。

恨んでもいた。


どうして、そんな「完全」の記憶を、垣間見せるのか。

知らない方がしあわせだったのに。

決して、ここにいる限り戻れないそこ。

「わたし」では、たどりつけない場所。

感じられるけど、自分の中にあるけれど、

それでも、完全に「それ」にはなれない。


それならば、なぜ見せるのか。

なぜ、教えるのか。



なぜ、救わない?

なぜ、創った...?



それは、わたし。

わたしでもあるという、絶対的な矛盾。




「荷が重い」

この言葉も、ずっと自分の中にあり、
これもまた、きちんと理解してはもらえなかった。


私は、何も知らないただの人間でいたかった。
こんなことで、悩みたくはなかった。
こんなふうに、考え込みたくはなかった。

何も知らずに、夢を見続けていたかった。






もう、「解決」を望むことはやめようと思う。


私の中にある「寂しさ」も、

「荷が重い」という気持ちも、

この世界にいる限り、消えないものなのだろう。



それを抱いて生きていく。

だからこそ伝えられる。


生きることは素晴らしい。


この世界は美しい。



わたしも

あなたも

この世界ぜんぶ。


こんなにも

こんなにも

愛おしい。


箍(たが)が外れる

外側から締め付けて形を維持しているものがなくなり、それまでの秩序が失われること。
緊張を解いて羽目を外すこと。
もともと「箍」は桶の枠組みを固定していた輪を指す語。
(実用日本語表現辞典)




なぜかずっと、自分の中に

「たがが外れたら怖い」

という想いがあった。


何が、「箍(たが)」なのかわからないし、
自分が締め付けられている、という感覚もないのだけれど。


もしも、箍がはずれたら、
自分はどうなってしまうのだろう。


そういう恐怖がずっとあった。

今もある。



今までの自分が、全く無くなってしまう恐怖。

見ず知らずの自分になってしまう恐怖。

そうなったときの「わたし」って、いったい誰?という恐怖。



「そんなことは幻想でしかない」
「ありえない」

と思うと同時に、

どこかで、

「そういうこともあるかもしれない」
「たぶんそうなるだろう」

という漠然とした想いもある。



外れる箍
外すことになる箍
外さなければならない箍

なんてものは無い!

とも思う。

そんなことも全部、幻想だと。


「箍が外れた!」と思ったあとも、
なんにも変わらない毎日が続いていくのだろう。

そんなふうにも思う。



それでも思うのだ。


箍が外れそうで、怖い...








孤独なユニコーンが

孤独でなくなる時が

来る。



新しい世界。

始まっている。






あらためて思う。


私は、ACIMを「学ぶ」ことはやめた。

でも、ACIMを「生きる」ことはやめていない。捨てていない。


ACIMの言葉、通りの理解や、枠の中に囚われることはしないけれど、

ACIMの語る世界、「神の平安」の中に生きる。




そもそも、私たちは完璧な存在である。

それが、私が見たい世界。



私が望むことは、ただこれだけ。

『私は私の戦いを終わらせる。』



あらゆる矛盾も、あらゆる諍いも、

すべて含んだ上で、この世界は完璧に出来ている。


私を妨げる(ようにみえる)もの

私を引きとどめる(ようにみえる)もの

全ての存在を含めて、

それがあるからこそ、

この世界は完璧なのだ。




世界は美しい。



病室に付き添っている時、一度だけ母に、「あんたの手を、私のあたまにのせて」と言われたことがあった。
もう本当に最後のころだった。

母は私が会社員を辞めて、どうしているのかなど知らない。
なにしろ変わった家族だから(笑)、そういうことを尋ねない。
セラピストとして開業したことも知らないし、ましてや、クラニオをやっていることなど知ろうはずが無い。
(クラニオが何かなんて、母に説明のしようもない。)

だから、驚いた。
少し熱があったときだったので、冷たい手をおでこに乗せて欲しいのだろうとは思った。

でも、驚いた。
自分に何が出来るのかと、少しだけ狼狽した。ほんの少しだけ。

病院のベッドでは、きちんとしたクラニオなど出来ようはずが無いし、それをやろうとは思わないけれど。
それでも、身体に、頭に触れていけば、私はセラピストモードに変わる。


母にセラピストとして触れること
その機会を与えられること

それは私にとって、奇跡としか呼びようのないことだった。
存在と存在として、いのちといのちとして、ともにいること。
その機会をふいに与えられて、とてつもなく幸せだった。
私は、この世界からとても愛されて守られているのだと、わかった。


こんなふうに、世界はとんでもなくうまく、とんでもなく素晴らしく、
すべてのものごとが動いていくのだ。



何も望まなくても
何も考えなくても

世界はちゃんとこたえてくれる。