教育者・漆 昌巌(うるし・しょうがん) | オ~イパンダのブログ

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先日(6/1)、このブログにて品川女子学院の校歌について触れましたが、その学院の実質の創業者ともいえる「漆 昌巌」(うるし・しょうがん)について記しておきたいと思います。
 
といいますのは、漆昌巌は歴史上の人物としての知名度はあまりありませんが、真の教育者と感じるからです。その話を、ときおり聞くたびに凄い人物だったんだなとつくづく感じます。
 
 
品川女子学院ホームページの「学校案内・沿革」の最後に、こんなリンクボタンがあります。
 
  [平成18年5月29日 日経新聞の夕刊より]
 
漆 昌巌(うるし・しょうがん)の教育者としてのエピソードが日経新聞夕刊に掲載されたものです。
このボタンをクリックするとPDFファイルが開き、漆昌巌の生きざま、教育者としての考え方などを知ることができます。以下、その掲載されたおおよその内容です。
なお、PDFファイルは新聞の原文とイラスト等も入っていますので、そちらの方もお勧めします。
 
■品川女子学園「学校案内・沿革」 http://www.shinagawajoshigakuin.jp/01guide/03h.html 
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((( 先見、壮志、無私 ))) 
 
大正時代、今の品川区にあたる品川町の町立小学校には1台のピアノもなかったそうです。そこに1人の若い音楽教師が赴任し、ピアノ購入のための寄付を募りました。しかし、うまくいきませんでした。
そこで町長に直訴しましたが、「いずれその内に考えておこう」という答えでした。
 
ところが三月ほど経った頃、町立の5小学校すべてに1,000円以上もするドイツ製のピアノが届けられました。それは、町長が独断で支出して贈ったものでした。
不満を鳴らす町会議員らを前に町長は、「6,000人の子供たちに喜んで課業を受けさせるためならば、今回の金額など何でもない」と諭したそうです。このピアノ代は現在のお金にして2,000万円はくだらない金額です。
 
この町長は漆 昌巌(うるし・しょうがん)という人です。
昌巌は嘉永3年、木曽川中流の大江村で生を受け、家は自作農でしたが11歳にして仏門に帰依し、明治元年の19歳のとき東京増上寺の学寮に学びます。25歳の時に法禅寺住持に任ぜられたのを機縁として以後品川の人となります。
 
しかし、時代はこの逸材を放ってはおかず、馬車鉄道会社の設立、機械製氷会社の創設、さらには品川電灯会社、品川白煉瓦合資会社など実業界で活躍します。同時に政治に参与し、品川町会議員を振り出しに明治35年には衆議院議員に当選、大正6年には品川町長を兼務します。冒頭のピアノの美談は、その町長時代の逸話です。
 
大正9年、昌巌は代議士を辞して町政に専心。特に教育に力を注ぎます。最先端の設備を導入するなど先見的な教育理念を以って事にあたり、かの関東大震災に際しては陣頭に立って町民を飢餓混乱から救います。一方、娘の雅子をして荏原婦人会を創設せしめ、新時代の有為高徳なる女性の育成を志します。これが後の品川女子学院です。
 
昭和9年、昌巌は85歳の寿をもって他界しますが、その生涯は財は惜しげもなく教育等のために散じて身は質素を極め、恬淡とした晩年を送ったそうです。
 
いかがですか。
当パソコン教室(川実インターネット教室)の受講者の中にも、品川女子学院の卒業生の方が何名かいらっしゃいます。ただそれだけで、なんだか嬉しくなります。