鈴ヶ森刑場 | オ~イパンダのブログ

オ~イパンダのブログ

日頃、感じたことや知ったことを気ままに綴ります。

南に向かって20分少し歩いたところに「鈴ヶ森遺跡」があります。時代劇などにもよく出てきますので、
 
ご存知の方も多いでしょうが、ここは北の「小塚原刑場」と並んで江戸2大刑場といわれた鈴ヶ森刑場が
 
あった場所です。なお、この2つに、八王子の「大和田刑場」(または板橋刑場)を加えて、江戸3大刑場と
 
呼ぶこともあるようです。
 
 
イメージ 2            イメージ 3
                    入口看板                          供養塔
 
遺跡内にある案内にはこうあります。
 
イメージ 4
 
     都旧跡 鈴ヶ森遺跡
 
            所在 品川区南大井2丁目5番6号 大経寺内
            指定 昭和29年11月3日
 
          寛永11年(1799)の大井村「村方明細書上」の写によると
      慶安4年(1651)に開設された御仕置場で、東海道に面して
     おり、規模は元禄8年(1695)に実施された検地では、間口
     40間(74メートル)、奥行9間(16.2メートル)であったという。
 
     歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ石碑は、元禄
     6年(1693)池上本門寺日顗の記した題目供養碑で、大経寺
     境内には、火あぶりや、はりつけに使用したという岩石が
     残っている。
 
     ここで処刑された者のうち、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、
     八百屋お七、白木屋お駒などは演劇などによってよく
     知られている。
 
     江戸刑制史上、小塚原とともに重要な遺跡である。
 
       昭和44年10月1日  建設
                             東京都教育委員会
 

現在は、建物群に囲まれた第一京浜沿いという感じになっていますが、当時は東京湾沿いにあり、
 
東海道の江戸入口であったことから、江戸に入る人達、特に犯罪増加の原因となった浪人たちに警告を
 
与える意味でこの場所に設置したのだと考えられています。
 
また、元々この付近は海岸線の近くにあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたそうですが、
 
近くにある鈴ヶ森八幡(=現磐井神社)の社に鈴石があったことから、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれ
 
るようになったといいます。
 
現在の刑場跡には、「磔台」(はりつけ台)、「火炙台」(ひあぶり台)、「首洗いの井戸」、「受刑者の墓」など
 
生々しさを感じさせる遺跡がいくつも残されています。
 
イメージ 5     イメージ 6
            磔台/火炙台                           首洗いの井戸

  
イメージ 1
受刑者の墓
 
当時は海岸沿いだったことから、海で水磔による処刑も行われたとの記録も残されているそうです。はっきり
 
した記録は残っていないそうですが、閉鎖される明治4年までの220年間に10万人から20万人もの罪人が
 
処刑されたと言われています。なお、小塚原刑場でも20万人以上の罪人が刑を執行されたといいます。
 
 
当時の広さはありませんが刑場跡は自由に見学できます。
 
政治や戦さの世界が表の歴史なら、犯罪者の世界は裏の歴史ともいえます。人間のことを知ろうとする
 
なら、裏や陰の歴史を感じておくことは決して無駄ではないような気がします。
 
 
刑場より旧東海道を7~8分北に行くと「泪橋」(現浜川橋)があります。罪人が鈴ヶ森刑場に送られる際、
 
ここで家族や知り合いと涙ながらに別れたことから、こう呼ばれるようになったといわれています。
 
刑場と一緒に訪れてみるといいでしょうね。