生麦事件の碑 | オ~イパンダのブログ

オ~イパンダのブログ

日頃、感じたことや知ったことを気ままに綴ります。

京浜急行「生麦駅」を出て第一京浜沿いに南下すると、「生麦事件の碑」があります。駅から徒歩7~8分くらいでしょうか。ここは幕末の文久2年(1862年)の8月21日(現在の9月14日)、生麦事件が起きた場所です。
 
 
イメージ 2
 
 
現在の住所は鶴見区生麦1-16となっており、海岸までは近いところで1km、東京湾までは3kmくらいあるようですが、当時は東海道の海沿いの地で、神奈川、川崎の二宿の間にある生麦村でした。神奈川宿へ一里、川崎宿へは一里半、江戸日本橋から六里の距離にありました。
 
生麦事件は、薩摩藩・島津久光の大名行列に馬で乗り入れた(あるいは乱入?)騎馬のイギリス人4人を供回りの藩士が殺傷した事件で、これをきっかけに薩摩とイギリスの戦争「薩英戦争」が起こります。結果としてこの戦争は薩摩藩とイギリスが相互理解を深めるきっかけとなり、それを背景とした薩摩藩の軍事力の強化、そして倒幕へと続きます。その意味ではこの生麦事件は、その後の日本を占う上で大きな意味を持つものと思われます。

 
この日、イギリス人の4人(男3名、女1名)は東海道で乗馬を楽しんでいたといいます。あるいは川崎大師へ見物に行こうとしていたともいいます。
 
最初、行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したようです。しかし、イギリス人たちは「わきを通れ」と言われただけだと思い、「わき」といったところで行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていることから、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んでしまいます。
鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、4人は供回りの藩士たちの無礼を咎める声に、さすがにどうもまずいとは気づきます。けれども、あくまでも下馬して敬意を表するという発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動きます。
 
 
イメージ 3
    
 
その時、数人の藩士が抜刀して斬りかかります。4人は驚いて逃げようとしますが、時すでに遅し。リチャードソン
は肩から腹へ斬り下げられて重傷を負い、200メートルほど逃げた所で落馬、追いかけてきた藩士にとどめを刺されます。このとき、とどめをさしたのは後日、大村益次郎とことごとく対立した海江田信義で、「もはや助からないであろう」と介錯のつもりだったようです。
 
ちなみに、殺害されたリチャードソンは上海から日本に来たばかりで、日本人は中国人同様に鞭を上げれば逃げ散ると思っていたようです。また、彼らは大名行列の前を馬に乗ったまま横切ることが極めて無礼な行為であるということを知らなかったようです。

実は、彼らより先にバンリードというアメリカ人がこの行列に出会っています。彼はすぐに馬から降り、道端に馬を押さえて膝をつき、脱帽して礼を示しました。バンリードは後に事件を知って、「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である」と言ったそうです。
薩摩藩士たちはバンリードの礼にかなった行為を見た後だったので、礼儀をわきまえないイギリス人4人に対してよけいに腹が立ったのかもしれませんね。
 
 
事件の夜、島津久光は予定を変更して程ヶ谷宿に宿泊しますが、事件を担当した神奈川奉行に対して、「浪人3~4人が突然出てきて、外国人1人を討ち果たしてどこかへ消えたもので、薩摩藩とは関係ない」と人を食ったような届出書を提出、さらに神奈川奉行が引き止めるのを無視してそのまま急いで京へ向かってしまいます。
 
神奈川奉行からの報告を受けた幕府は、薩摩藩江戸留守居役に対して事件の説明を求めたところ、数日経って「足軽の岡野新助が、行列に馬で乗り込んできた異人を斬って逃げた。探索に努めているが依然行方不明である」と、これまたでたらめな届出を提出します。事件の詳細な報告を受けていた幕府は、このでたらめな届出に憤り、薩摩藩江戸留守居役に出頭を求め糾弾しますが、薩摩藩側はしらを切り通します。
当時、薩摩藩は幕府を軽視しており、この時「イギリスが文句があるのならば直接相手をする」という意志を固めていたという見方もあるそうです。
 
イメージ 1
 
事件の結果として、イギリスは幕府と薩摩藩に謝罪と犯人の引き渡しと賠償金の支払いを要求します。幕府は何とか穏便にと賠償金を支払いますが、薩摩藩は犯人は不明であるとして要求を拒否します。このため、イギリスは薩摩藩に報復すべく軍艦を派遣、翌年7月2日、薩摩湾でイギリス艦隊と薩摩藩船との激しい戦闘が起きます。「薩英戦争」です。
 
映画やTVドラマではイギリス軍の一方的な大勝利ということになっていますが、実際は少し違ったようです。大勢としてはイギリスの勝利であったものの、死者の数はイギリス63名に対し薩摩藩は17名といいます。
この結果、イギリスも「薩摩は良くやる」と敵を評価し、両者は急速に仲がよくなって、維新への流れが加速することになります。
わんわん
 
生麦事件の碑は旧東海道と第一京浜国道の交差点にあり、斬られたイギリス人「リチャードソン」の遺体発見現場(落馬地点)と見られています。しかし、斬られた後、200メートルほど馬で逃げたといいますから、殺傷自体は現在の生麦駅近くで発生したようです。
隣りにキリンビールの工場があります。車の往来は多いものの華を感じさせるものは殆んどなく、どちらかというと殺伐とした寂しい感じのする街です。
 
 
イメージ 4   イメージ 5
 
事件当事、時代は尊皇攘夷に沸き立つ幕末です。しかし同時に開国派もいます。佐幕派と攘夷派のせめぎあい、日本を侵略しようと企てる欧米列強、立場と思想が異なる複数の存在・・・。
入り混じる思惑、勝手な勘ぐりと思い込み、そうした時代のおいて発生した生麦事件。
単なる偶然ではないような気がします。

さまざまな顕在化した思想、あるいは潜在的な思いがここでぶつかり発火、そして炎上。
それが倒幕、維新へとつながります。その最初の導火線の炎となったひとつが、ここ、生麦かもしれませんね。