【オレ様が勝手に選ぶ】戦国ご長寿ランキング
昔の人は寿命が短かったなどとよく言われるが、中にはとんでもなくご長寿な人がいたりする。
そんな中でも、今回は戦国時代(1500年前後~1600年前後まで)辺りを中心に、とんでもないご長寿武将をランキング形式でご紹介しようと思う。
あまりに候補者が多くなるとアレなので、今回は大名クラスの実力者であることを条件に3+1名を挙げて、その生涯の内容の濃さでランキングを決定した。
・戦国ご長寿ランキング第三位
北条幻庵(1493~1589)
北条氏康の娘が越し入れする際に、心得や作法を教えるために書いたという「幻庵おほへ書」で有名。戦での手柄はあまり残ってないので、文人気質な文化人だったのだろう。
幻庵は下克上の代名詞である北条早雲の息子として生まれ、氏綱→氏康→氏政→氏直と、北条5代のすべてに仕えるというミラクルな記録を打ち立てている。
秀吉の小田原攻めより前に亡くなっているので滅亡を見ることはなかったが、それにしてもキャリアが凄すぎる。戦国時代の最初から最後までを見届けた唯一の人と呼んでいい。
立場的にはずっと北条家の家臣ではあったが、この戦国時代の生き証人っぷりに敬意を表してノミネートさせていただいた。
惜しむらくは武将としての功績があまり残ってないことである。何かこれだ!という活躍があればだんとつの一位でもおかしくなかったんだが…。
・戦国ご長寿ランキング第二位
真田信之(1566~1658)
真田家は徳川家に逆らった父昌幸と弟幸村が有名で、この信之は「真田家を残すため」と徳川家に仕えたところしかフューチャーされない可哀想な人である。
しかしこの人はこの人で凄い。その長命もさる事ながら、晩年まで活躍したという点が凄い。
武田家の家臣(というか人質)というポジションから戦国デビューをし、そこから父昌幸に従って武功を積み、父と袂を分かってからも関が原→大阪の陣と時代の流れを読み間違えずに生き抜いて松代藩の初代藩主に。
藩主になったらなったで後を継がせようと思った長男に先立たれ、仕方なく家督を次男に継がせたらまた先立たれ、おまけに家中に分裂騒動が巻き起こって幕府に目を付けられ、それを乗り切って孫を当主に据えて真田家の存続に成功。そして大往生。
もし信之がこれほど長命でなかったら、真田家はとっくに取り潰されていただろう。
幸隆→昌幸→幸村と続く「真田家の派手な人たち」に比べると地味ではあるが、政治力や時勢を見る目は真田一族の中でも随一だったと言って差し支えないだろう。さすが真田の一族である。
・戦国ご長寿ランキング第一位
龍造寺家兼(1454~1546)
個人的に大好きな不幸極まりないご長寿武将がこの人。若い頃から武勇や知略に優れ、北九州でも有数の出来物だった。
しかし91歳の時に、主家である少弐家の危機に働かなかったという理由で、少弐家の家臣によって一族郎党のほとんどを皆殺しにされてしまう。(子供や孫がこの時にほぼ全滅)
普通はこれで龍造寺家が途絶えておかしくないのだが、この人はちょっと普通じゃない。
「やれるのは自分しかいない!」とばかりに、家兼お爺ちゃんは老体に鞭打って挙兵して、遂には一族の仇を討ち滅ぼし、かろうじて残った曾孫を世継ぎとして龍造寺家を再興してしまうのである。(その曾孫の隆信が龍造寺家を滅ぼすわけだがw)
90歳を越えた時点でどん底まで落ち、そこから見事に盛り返してみせたこの人こそ、キングオブご長寿戦国武将と呼べるだろう。
フィクション抜きでこの爺さんを越える人物がいたらぜひ教えて頂きたい。まさにレジェンドである。
<ファンタジー枠>
南光坊天海(1536~1643)
明智光秀もしくは明智秀満のこと。
とか言うとクレームが来てしまうから止めておくけど、徳川家康の腹心であり、怪僧と呼ぶにふさわしい人物である。
しかしその生涯は謎に満ちており、特に徳川家康に仕える前の話がほとんど伝わっていない。正しい生年も分かっていないので、今回はファンタジー枠という事で名前を挙げさせて頂いた。
ちなみに東京はこの人が作ったといっても過言ではなく、陰陽道や風水の知識をフル動員して江戸の街の基礎を作り上げた。
という訳で、戦国ご長寿ランキングは3位北条幻庵、2位真田信之、1位龍造寺家兼と決定いたしました。
知名度で言うなら松平忠輝なんかも候補に挙がったんだけど、この人は改易→流人にされて活躍がまったく無かった期間が長すぎるため除外とさせて頂きました。
それと北条早雲、島津義弘、尼子経久なんていう文句なしのご長寿かつ戦国時代を代表する名将もいたんだけど、残念なことに80代で亡くなっているんだなあ。
生没年の怪しい早雲はともかく、島津義弘や尼子経久なんかが90代まで生きていてくれたら、間違いなく龍造寺家兼とため張ってただろうに。
しかしアレだね、いくら身内に不幸があって仕方が無かったといっても、現代に家兼みたいなお爺ちゃんがいたら怪物扱いだろうねえ。
それと信之みたいなお爺ちゃんがもし政治家だったら、どんなに優秀でも「老い先短いくせに保身に走りやがって!」なんて叩かれていたに違いない。
しかしこれから日本はますます老人大国になると言うし、もしかしたらこんな厄介な爺さん達が大勢現れるかもしれん。
もしオレがご長寿爺さんになれたなら、ぜひとも幻庵のようになりたい。
「初夜の過ごし方」とかを書いて若い女の子に押し付けるような人になりたい。
そしてセクハラで逮捕されて90歳にして牢獄にぶち込まれ、そこから家兼のようにシャバに舞い戻って復活を遂げたい。
うん、なかなか悪くない人生だ。
日本文化の特性とその理由 その2 「日本人特有の宗教観」
前回は日本人特有の文化がどうやって誕生したのか語ろうとして、ついうっかりヤマト建国の簡単な流れを説明しただけで終わってしまった。
■参考リンク
http://ameblo.jp/oharan/entry-10046361321.html
まだ書きかけで申し訳ないんだが、コレをネットゲリラさんで取り上げてもらってしまったので、急いで補足するとともに日本人特有の文化、そして宗教観がどうして誕生したのかについて妄想文を書き散らしてみる。
■参考リンク
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2007/09/post_f8ad.html
縄文と弥生の違いについて、前回の記事では単純に 「弥生文化とは稲作文化だと思って差し支えない」 と言った。まずはこの辺から詳しく説明していく。
弥生文化を稲作文化とすると、縄文文化はそれに対して狩猟文化と呼ぶしかなくなってしまうのだが、厳密に言えば縄文人の全てが狩猟のみで生活していた訳じゃなくて、技術が無くても比較的簡単に栽培ができる農作物は作って食べていたと思う。
それに一言で縄文人と言っても、それ自体が元々は人種も文化も違う渡来人の集まりだった可能性も高いわけで、たまたまその時期に日本に住んでいたから一口に縄文人と呼んでいるだけだ。であるから、同じ縄文人という括りではあるけれども、その土地土地によって生活習慣も食べる物も違っていておかしくはない。
厳密に言えば、弥生人と呼ばれている人種もこれら 「それ以前の人種」 と何ら変わらず、縄文人からしてみたら 「また見たこと無い連中が流れてきた」 程度にしか思わなかっただろう(珍しくはあるけど日常の光景みたいな)。よって、弥生人が日本に入り込んできた事だけをもって弥生時代の始まりと取るのは大間違いなのだ。
ではなぜ縄文と弥生という分け方ができるのかというと、明らかに時代の転機と考えられる重要な出来事があったからだ。縄文時代と弥生時代の境目辺りで起こった劇的な変化は何かと言うと、稲作文化という当時の最新技術の定着と伝播、そしてそうした技術を持った弥生人が縄文人勢力の力を上回ったという事なのだ。
稲作という技術を導入する事で、その共同体は毎年決まった時期に安定した食料を得る事が可能になり、結果として 【人口増加=勢力拡大】 に繋がっていく。それまでの狩猟や小規模な農作だけで生きている状況では、人間はあくまで 「自然の恩恵によって生かされているだけ」 であり、食料がどれだけ獲れるかによって、その時々で生活レベルがアップダウンするという不安定さがつきまとう。これでは家族・集団を安定して養えず、となると大規模な組織化はまず不可能である。
余談になるが、そんな縄文人の視点で考えれば、まず "自然様" のご機嫌を取ることが第一となり、そうした感情から生きる糧を与えてくださる自然を敬う気持ち、いわゆる 「山岳信仰」 が発生したのだと考えられる。山の中には危険も恵もいっぱいだから、とにかく 「お山の神様~!」 と祀り上げるわけだ。もし熊にでも襲われて死人が出たらそりゃ 「山の神様へのお祈りが足りない」 と。熊はお山の神様の化身だと。川で溺れ死んだヤツがいたら 「川の神様へのお祈りが足りない」 と。
で、そんな 【自然=神様】 に支配(もしくは共存)する事でしか生きられない集団では、稲作という技術のお陰で自然の形を自分達に都合よく変え、安定して日に日に人口を増加させていく弥生人には勝てない。こうした理由から縄文人の中にも稲作文化を取り入れ、弥生人に迎合する集団が続出し、結果として縄文文化を守り続ける純粋な縄文人が減っていったのだろう。縄文人から弥生人へのバトンタッチは、このようにして行われたのだと考える。
遺跡からの出土品を元に考えても、縄文時代の出土品には仮面をつけた人間型の像や、動物の姿をした像などが多くある(土偶なんかがその例)のだが、弥生時代の遺跡になるとこうした神像的な出土品が極端に少なくなり、代わりに勾玉だったり細工を施した石や銅鏡といった祭具と思われる物が多数見られるようになる。これによって、この時期に縄文人の直接神様の姿を拝むという風習に代わって、神様が宿りそうな物を拝むという新しい風習が広まって行ったとわかるのだ。
こうした縄文時代と弥生時代の出土品の変化などと、その後の日本各地に作られた古墳の分布とその形式、埋葬品などを照らし合わせて考えていくと、日本という国家がどのように形作られて行ったのかが把握できる。
と、ここでいつもの悪い癖が出てしまって話を大きくすっ飛ばしてしまう訳だが、早い話が日本には旧石器時代~縄文時代~弥生時代と歴史が進んで行く中で、様々な文化を持つ集団が点在していたと。北にはアイヌ民族がいて、南の果てには琉球民族がいて、日本海側には大陸から渡って来た連中がいて、とにかくごちゃ混ぜに暮らしていたと。
そして集団ごとに漁が得意だったり、稲作の技術を持っていたり、製鉄技術を持っていたり、翡翠・水晶といった宝石を採取する連中がいたりと様々だったと。常識的に考えれば、こうした違う文化を持つ集団同士で交易なんかをしたりして、それなりに交流もあっただろう。それに縄文時代の遺跡から当時は中国にしかないはずの品が出たりしているので、大陸とも交易をしていただろうと思われる。
そうこうしている内に稲作文化のお陰で段々と人口も増えてきて、土地を巡る争いなんかが多発するようになって、国家としてまとまる必要性が出てきたと。"国家として" という言い方は後付けだけど、言い換えると大きな連合体として複数の集団が寄り集まって、未然に争いを防ぐ必要が出てきたという事だ。
なんかやっつけっぽいけど、こうした連合体がいくつも合わさって、その長に収まったのが当時最も勢力(=人口)の多かったであろう 「弥生人勢力の代表である天皇」で、その周囲にそれぞれの部族(集団)の代表者が集まって政治の中枢を成し、権力闘争なんかが発生するようになって行ったのだろう。その天皇の周囲の勢力の中には、当然縄文人の流れの人間もいただろうし、それがいわゆる出雲系と呼ばれる人々(物部・蘇我なんかが該当)なんだろうとも思う。
また朝廷に従わない縄文文化を持つ勢力もいて、そういった集団は主に今の青森~北海道のあたりとか、南九州に存在していただろうと考えられている。(古墳の分布や文化の違いから判断)
天皇という存在が誕生しても、このように日本にはまだまだ多民族国家の色合いが残っていたのだ。
うん、我ながらあまりに強引なマトメだ。
アレだね、オレには丁寧に文章を書き続ける持久力が必要だねw
それはともかく、こうして成立したのが日本という国家(大和朝廷) だと考えると、天皇(この天皇って呼び方も後付けなんだが長くなるので割愛) とは独裁者などではなく、調停者だったんだろうと思われる。文化の違う集団の間に入って、あっちを立ててこっちも立ててと和を保つのが主なお仕事ってとこだろう。それが出来てこその天皇で、逆に言うとそれが出来ないと判断されれば、いつすげ替えられてもおかしくない "意外と立場の危うい存在" だったんじゃないだろうか?
で、日本人とはこうやって多民族が寄り集まって誕生したんだから、人々に道徳観を植え付ける目的を持つ宗教も、当然のごとくそれに合わせた形になる。そうして出来た日本独自の宗教観というのが、「世界には八百万の神様がいる」 という考え方なのである。(やっと本題に近づいてきたぞ!)
「山にも川にも海にも農作物にも至る所に神様が宿っていて~~」 というこの宗教観こそ、日本人が外来文化も宗教も何でもかんでも取り込んでしまう原動力になっている。逆に言うと縄文時代やそれ以前の旧石器時代の昔から、そうして取り込んだ新しい技術や文化が恩恵を与えてくれると知っていたからこそ、こうした宗教観が生まれたのかもしれない。
宗教が先か実体験が先かという話になるが、たぶん他集団と交わる事で新しい技術を知って、それによって生活が快適になったというような実体験がまずあって、その記憶から山岳信仰やシャーマニズムやアニミズムなどが混然となって八百万の神様信仰が生まれたんだろう。
それにただでさえ多民族の集合体なんだから、自分達の生活スタイルとちょっと違うってだけで一々因縁つけたり戦争してたりしたらキリがないと。(こういうのも前例があって学んだんだろうね)
となると、「日本にはもうとにかく大勢神様がいるんだよ!」 という話にしてしまって、お前らを認めるからあっちもそっちも認めろと言うしか手段がないわな。(それが嫌なら誰かが勝ち残るまでジェノサイド)
そんな理由で古代の日本人は 「世のあらゆる物に八百万の神様が宿っているんだから、コッチが神様ならアッチも神様なんだ」 という教えを受け入れるしかなかったんじゃないかね?
こうした宗教観は時間が経つにつれて 「身の周りにある全ての存在に神様が宿ってるんだから大事にしましょう」 という世界でも珍しいエコロジーな教義になっていって、技術も宗教も民族もなんでもかんでも受け入れるという民族性に繋がっていったんだと思われる。それが聖徳太子の時代になるともっと明文化されて、「和を保つ事が一番大事」 という教えになって本格的に日本人のDNAに刻み込まれたんだろう。
と、あまりに説明不足ですっ飛ばしすぎた気もするけど、日本特有の八百万の神信仰ってのは、おそらくこういう感じで形作られて行ったんだろうと思う。
とりあえず気が向いたらまた続きを書くかも。(最後までやっつけっぽくてスマン!)
日本文化の特性とその理由 その1 「ヤマト建国」
ネットゲリラが移転したそうな。
その理由というのが、今まで使っていたブログサービス(ロリポブログ) からクレームが来たからなんだが、ロリポ側の言い訳が凄い。これで有料サービスだというんだから、いったい何年前の時点で時間が止まってるんだろうw
■ロリポブログの信じられない貧弱さ
でもこれってアレじゃないか?ネットゲリラさんの書いてる記事が怖くて、裁判抱えるのが面倒だから出て行ってくれって事なんじゃないのか?
で、そんなこんなでネットゲリラは緊急避難所を作る事になったのだが、よりによって2箇所も作る事ないだろうと思った。
ネットゲリラ避難所1
http://shadowcity.blog.shinobi.jp/
ネットゲリラ避難所2
http://shadow-city.blogzine.jp/net/
オレもオレでアメブロに不満ばかり感じているので、早いとこ自鯖でやらないとと思っているんだが、誰か手伝ってくれw
特に 「続きを読む~」 にできなくなってしまったのが痛いんだよなあ。全文表示しかできないんじゃ読みづらいって。
それはともかく、ネットゲリラ避難所の記事の中にこんなのを見つけたのでちょっとオレもアレコレ書いてみようと思い至った次第である。
「日本語は極東アジアの共通語」
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2007/09/post_def0.html
日本語というか、日本文化の特性なんだが、外部から入ってきたものを自分たちの言葉と文化でアレンジして自分のモノにしてしまうという、文化の柔軟性というのがあるわけだ。つうか、そもそも日本という国、日本人という民族そのものが、黒潮に乗って流れて来たアジアの吹き溜まりなので、なんでもチャンポンにして食ってしまうわけだ。
縄文時代から伝わる大和言葉が平仮名で、そこに中国から輸入された漢字が乗っかり、さらに明治以降は英語がカタカナで入り込むという巧妙な構造によって、あらゆる情報を等価に記述する事が可能になった。
これは、日本人が知的好奇心が旺盛で、外部から攻め込まれた事がほとんどなかったからでもある。島国で適度に不便な場所に位置しているため、なんとか貿易は可能でも攻め込むのは不可能だったのだ。
ネットゲリラではこういう説明がなされているんだが、オレはこの件を語るには古代の日本人の宗教観と併せて解説していかないといけないような気がする。
日本の歴史は独裁志向の強い渡来人藤原氏によって、"日本書紀" という 「正史のフリをした藤原にとって都合の良い捏造書」 によって捻じ曲げられてしまった。特にヤマト建国の経緯などは藤原氏にとって最も隠さねばならない案件らしく、全て真偽不明の神話という形でうやむやにされてしまっている。
しかし最近になって技術の進歩から発掘調査が進み、歴史学ではなく考古学の見地から "最も事実に近いと思われる流れ" が分かってきている。
それによると、今までは縄文人というのがそもそも日本土着の民族で、それを弥生人と呼ばれる外来勢力が武力によって制圧し、今の日本人が誕生したのではないかと言われてきた。神話で言うとこれが国津神(縄文人) の天津神(弥生人) に対する国譲りであると。
しかし発掘調査の結果によって、「縄文人と弥生人は同じ地域に仲良く共存していたんじゃない?」 という可能性が浮上してきた。なんでも縄文文化圏と弥生文化圏が、同じ共同体としか思えないような場所にあるそうなのだ。もし戦争してた間柄なんだったらコレは有り得なくね?という話になると。
ここでネットゲリラさんの言う 「なんでもちゃんぽんにして食ってしまう日本人」 の特性が現れるのである。
あくまで仮説になってしまうが、縄文人が暮らしていた日本に、ある時弥生文化を持つ集団が紛れ込んできて、文化の融合をしながらゆるやかに歴史が動いていったんじゃないかと思えてくるのだ。弥生文化とは稲作文化の事と言って差し支えなく、恐らくそれは大陸から政変などによって逃れて来た人間なのではないかと思う。
というのも、いくら日本が大陸と比べて狭いといっても、九州から東北地方まで制圧できるような侵略軍となるとそれなりの規模が必要になるだろう。武力制圧が本当だとしたら、流石に中国などの書物に日本に出兵した記録が残っているだろうし、それが無いという事は大規模な軍事行動は無かったと考えて良いと思う。
それにもし何らかの軍事行動によって縄文人が弥生人によって征服されたのであれば、もっと大規模かつ劇的な文化の変化があって然るべきなのである。しかし発掘調査ではそういった形跡は見られない。オレは専門家じゃないので詳しくは分からないが、縄文人の文化圏の中に、弥生人の文化が "まるで間借りするように存在していた" 形跡があるんだとか。
という事は、やはり弥生人の元になった人間達は、何らかの理由で今まで住んでいた土地に居られなくなって、小規模の集団でパラパラと日本に逃れて来たんじゃないかと考えられるのだ。昔の戦争なんて今より遥かに "数こそ力" だから、それでは武力制圧などできるはずもない。
という事は発掘調査の結果の通り、日本に逃げてきた渡来人(=弥生人) が縄文人と折り合いを付けながら暮らすようになり、狩猟民族である縄文人に稲作文化を教えたりして、そうこうしている内にヤマトという国家が建国されたのではなかろうか?
この辺を語るには 「天皇ってそもそもなに?」 という説明をしなければならないのでちょっと省く。
しかし説明しないと後の話が通じないのでざっくり掻い摘んで話すと、結果として狩猟民族としての文化よりも農耕民族としての文化の方がより多く残っているわけだから、当時の人々は稲作という新しい技術を 「便利」 だと判断したんだろうねと。
で、当然の事ながらそういう新技術を持っている集団の事を敬っただろうねと。
で、古代の天皇というのは連合体の長という立場だったという考え方があって、それは絶大な武力によるものではなく、話し合い(=和) によって据えられた可能性が高いと。
これらを総合して考えると、古代の天皇というのは縄文人に稲作文化を伝えた弥生人の集団の代表で、ヤマト建国にあたって神輿に担がれる形で "日本の代表" という立場に収まったのではなかろうか?もしそうであれば、こちらの方がより 「国津神の天津神への国譲り」 に流れが近くなると思う。
政治の主導権が移るわけだから、そこには反対勢力もいただろうし、天皇を推す勢力とそれまでの体制を維持しようとする勢力との間に武力衝突はあったと思う。神話の話で言うと、タケミナカタ(オオモノヌシ=オオクニヌシ=オオナムチの息子で国津神) がタケミカヅチ(天津神) との力比べに負けて、出雲から東北に逃げたという話なんかがそれを指しているのかもしれない。
こうして建国されたのがヤマト=日本だとすると、日本人の 「なんでもちゃんぽんにして食ってしまう」 という特性がどうして生まれたのか理解できるんじゃないかと。
と、本当はここから日本人の宗教観について説明しようと思ったんだけど、長くなりすぎて心が折れたので続く。
Bistro Clair(フレンチ・大山) ※紹介2回目
前回はランチコースしか紹介していなかったので、今回はビストロ・クレールのディナーコースをご紹介。
■前回
http://ameblo.jp/oharan/entry-10026169834.html
・平日限定コース 2,980円(アミューズ代別、肉料理か魚料理を選択)
・スタンダードコース3,980円(アミューズ代別)
オードブル ノルウェーサーモンと帆立のスモークのタルタル
スープ 落花生の冷製ポタージュ
魚料理 新潟県産天然真鯛のグリエ クレームダイユとバルサミコソース
肉料理 牛ほほ肉とあめ色たまねぎの煮込み
デザート(日替わりメニューから)
+パン、食後の飲み物
・シェフお勧めコース5,500円(アミューズ代別)
オードブル コチのカルパッチョ ウニ添え
2ndオードブル フォアグラのソテー
魚料理 魚介のブイヤベース風
グラニテ トマト
肉料理 沖縄県産アグー豚のグリエ
デザート(日替わりメニューから)
+パン、食後の飲み物
スタンダートかお勧めかで激しく悩んだが、真鯛のグリエと落花生のポタージュが気になったのでスタンダードコースをチョイス。
で、意外と小食な彼女さんはアラカルトでアレコレ頼むことに。
今日のアミューズは、秋刀魚のマリネ・シェリービネガー。秋刀魚は肉厚で、ほどよく脂が乗ってて食べやすい。酸味と旨味のバランスが良く、まだアミューズだというのにテンション上がりまくりなボクら。気付けば食前酒に頼んだビールが半分ほどどこかへ消える。
洋風〆サバとか言うと怒られそうなので止めておく。
この店の何が好きって、熱々カリカリのパンが美味しくてなあ。家ではあまりパンを食べないので、ここに来るとどうしてもエンドレスでパンをお代わりし続けてしまう。(この日もパンとバターだけで白ワインをガバガバ呑んでたのは内緒)
サーモンと帆立スモークのタルタル。大き目の甘エビが添えてあった。
まずタルタルが美味い。ホタテとサーモンの風味と食感にお腹を刺激されまくり。味はまったりまろやかで、かといって少しもくどくなく、あまりに美味しいからチビチビチビチビ大事に舐めながら酒呑んでた。で、添えてあるエビもプリプリでお味噌までしっかり食べられて美味かった。
いやー、テンションうなぎのぼりである。
気になっていた落花生の冷製ポタージュ。なめらかなんだけど少しシャリシャリした食感が残っていて、それが 「あ~確かに落花生だ~」 と思わせてくれる。落花生の香りもしつこ過ぎず薄すぎず飲み易い。思わずテーブルに置かれてから10秒くらいで飲み干してしまいました。勿体無い事をした…。
真鯛のグリエ。それほど念入りに焼いている訳ではなさそうなのに、皮目がもの凄く香ばしい。ソースはニンニクのクリームソースとバルサミコ酢で、このソース自体が死ぬほど美味い。添えてある野菜にも合うし、真鯛にも合うし、パンにも合うし、フレンチのソースってすげ~!と思わせてくれる逸品である。
牛ほほ肉とあめ色たまねぎの煮込み。ほほ肉も箸で簡単に食べられるほど柔らかくて美味しいんだけど、それよりなによりこれもやっぱりたまねぎのソースが美味い。もう 「あめ色たまねぎ」 って単語だけでドキドキしちゃう。丁寧に下ごしらえしたたまねぎの自然な甘さが他の食材の味と合わさって深みを増しているというかなんというか。付け合せのキノコやマッシュポテトも美味しいし、食べれば食べるほど腹が減っていく。おかしい。
彼女さんがアラカルトで頼んだグリーンサラダ。ドレッシングが色々と選べるんだけど、今回はアンチョビにしてみた。で、これもアンチョビの自然な塩気と風味が最高。アンチョビって下手な人が使うと魚臭いわ塩辛いわで嫌味な味になりやすいんだけど、これは程よくまとまっててベストな味だった。
変に酒飲み仕様の味になってないのも内臓が弱ったオレには嬉しいw
ペンネのゴルゴンゾーラ。ペンネはほんの少し硬い食感が残るくらいの茹で加減。ソースはもうとにかくチーズ三昧。かといって、香りの強いチーズが苦手な人でも食べられるんじゃないの?と思える味わいだから不思議。ペンネとチーズだけでもここまで味が深くなるんだなあとシミジミ酒を呑むオレ。
彼女さんが頼んだ骨付き子羊のソテー。お肉は柔らかさと肉感を兼ね備えてて、骨を持ってかぶりつくと幸せになれる。ほのかに甘味と酸味を感じるソースが食欲増進。で、「お好みでマスタードをどうぞ」 と言われたので試しにつけてみたんだが、それがまたヤバイ。マスタード自体が美味しくてそれだけ舐めてたオレがいるw
こちらは日替わりデザートから選んだアーモンドブランマンジュと巨峰。食後の紅茶と一緒にステキなデザートタイムを満喫するオレ。やっぱドルチェも美味しいなあ…。フレンチって凄いなあ…。と、うわ言のように繰り返してみる。
こっちはいちじくのコンポートとゼリーwithバニラアイス。甘いのが苦手な彼女さんが 「これは大人味だ!美味い!」 と美味しそうに食べていた。試しにちょっとゼリー部分だけ食べさせてもらったんだが、甘味はそれほど強くなく、どことなくお酒の風味がしたりして、確かに "大人味" と表現したくなった。いちじくを食べたら甘味が増すんだろうけど、オレはこのゼリーだけでも好きだなあ。
ビストロクレール外観。オレは3年くらい前にこの店が出来たとき、ずっと美容院だと思ってた。で、彼女さんが 「サダオちゃん!あそこフレンチだよ!美容院チガウヨ!」 と言い始め、「大山には美味しいフレンチがないから行ってみたい」 と言い出し、ダメ元で行ってみたら想像を遥かに越えて美味しかったという馴れ初めが。
お店のお姉さんに聞いてみたら、最初の内は店の存在自体に気付いてもらえなかったそうだ。「駅も近いし、駅前の通りだし、なんででしょうね?」 と言われてしまったが、たぶん大山の貧民はフレンチなんて文化を知らないんだと思うよ。例えるなら 「外食といえば大衆居酒屋」 って街だし。
出来れば大山ならではのDQNな客層には知られないままでいて欲しいんですが!
■総評
大山というコストパフォーマンスに優れ過ぎている街にあって、クレールの価格帯は確かに高い。しかし出てくる料理のクオリティを考えたら、フレンチとしてはかなり安い。ちなみにこの日のお会計は、スタンダードコースと、彼女さんがアラカルトで頼んだ何品かと、ワインボトルとビールなどで1人7,500円くらいだった。(アミューズ代は300円くらいだったはず)
金額だけ見たら確かにお高めだけど、これと同じ物を都心で食べようと思ったら、この1.5倍くらいは覚悟しないといけないんじゃなかろうか?
という訳で、ここは電車を乗り継いででも来る価値があります。下手に池袋でフレンチを探すくらいなら、ここに来た方が絶対に幸せになれる。池袋で外食の拠点を探そうとして散々失敗したオレが言うんだから間違いない。
点数を付けるなら、100点満点で95点くらいじゃないかな?それくらい失いたくない大事な店である。騙されたと思って行ってみれ。
■ Bistro Clair (ビストロ クレール・フレンチ)
TEL:03-5917-0515
営業時間:ランチ=11:30~14:00(LO) ディナー=17:30~22:00(LO)
定休日=月曜日
アクセス=東武東上線大山駅下車。南口改札を出て左へ。アーケードを出てすぐの右手にあるサンクスの目の前。
URL=http://www.itabashiku-town.com/review/it019845
価格帯:ランチ=1,500円~約2,000円 ディナー=2,900円~
※アラカルトの場合は1品800円前後~2,000円くらい。
「昭和怪人列伝!」
先日の両国の震災慰霊堂の出店がすごいよ~という記事のコメント欄に、「傷病兵(エセ)」 というステキすぎる単語が書き込まれており、昭和世代のオレ様は胸がドキドキしちゃって一日中頭の中で 「エセ傷病兵…エセ傷病兵…」 と繰り返していた。
だってオレ様の生まれ育った板橋区でも、子供の頃にそういう変な人をしょっちゅう見かけたんだもの。
という訳で。
こっから先は30代以上の人間だけでお楽しみください。
あのさ、せっかくだから皆の土地にいた 「昭和の怪人」 について語らないか?
「怪人」 ってのはアレだ。分かりやすく言うと、子供を騙して食ってたり、何が目的なのか分からない奇人なんだけど、何故か憎めない人のことだ。
ただし、エセ傷病兵とか障害者になるとちょっとヘビー過ぎるので却下。オレの書く例を読んで、その辺のさじ加減をご理解ください。(こち亀に出てくる子供を騙す変なオヤジを思い浮かべると近い)
・怪人リスト1
「公園で見かけた軍服姿でギターを持った反戦運動家」
オレが幼稚園に通いだした頃に見かけた怪人。すすけた汚い軍服姿で、なぜかアコースティックギターを持っており、傍らには赤と黒の墨汁で書いたと思われる 「戦争反対!」 とか 「世界に平和を!」 といったボロボロの旗が立てかけてあった。
で、この怪人はギターを持っているのに弾き語りで歌うわけではない。記憶が曖昧なのが悔しいが、基本的には主義主張を叫ぶだけで、盛り上がりにあわせて合いの手のような感じでギターをジャラン!と響かせるのだ。ちなみにコードもクソもなく、常に同じ音をジャランジャランやっていたような気がする。
あやふやな記憶で再現してみるが
「日本わぁ~」 ジャラン!「戦争に負け~」 ジャラン!「平和に目覚めた~」 ジャラン!「戦争わぁ~おっかない~」(←ここだけ凄く正確に覚えてる) ジャララン!
ってな感じで、興味深そうに距離を置いて眺めている子供達の視線を浴びながら叫び続けるわけだ。ちょっとした尾崎豊である。(ちがう)
足元にお金を入れる缶があったけど、金が入ってた記憶はないし、この怪人はいったいどうやって生活していたんだろうか?
年上の子供の中にはこの怪人に話しかける蛮勇の持ち主もいたが、オレ様は生まれつきヘタレであり、遠くからビクビクしながら眺めるだけだった。
ちなみにこの怪人は、近隣住民が警察に訴えでもしたのかすぐに姿を消し、二度と会えなくなってしまった。もしまた会えたらあの時の事を色々と聞いてみたいところだ。(主に生活の糧について)
・怪人リスト2
「学校の通学路に出没した謎のゲーム名人」
どこの町にもゲーム名人と呼ばれる人がいなかった?そういう 「オラが町のゲーム名人」 って、大体が浪人中の大学生だったりするんだけど、今回紹介する怪人は40過ぎのオヤジである。そんなオヤジが学校の帰り道にいきなり話しかけてきて、「キミたちは今どんなゲームが好き?」 と聞いてくるのだ。
当時オレは小学校の低学年くらいで、確かまだファミコンは発売されてなかったように思う。その当時からTVゲームは大好きだったが、いつも玩具屋とか駄菓子屋の前の筐体で遊んでいた。ゲーセンに行く事もあったが、ゲーセンは1プレイ50円と高く、それに比べて駄菓子屋などは1プレイ20円くらいだったため、お小遣いの少ない子供はどうしても駄菓子屋や玩具屋のゲームで遊ぶしかなかったのである。(ゲーセンには不良のお兄さんが一杯いたし)
で、この怪人が何をするのかと言うと、「ゲームの攻略法を教えてやる」 と言って、子供から金を巻き上げるのである。金を巻き上げて逃げるならまだしも、ちゃんとゲームをプレイしてみせるのがこの怪人のチャームポイント。
流れを説明するとこのようになる。
「キミらは好きなゲームあるかい?」
魔界村(仮) が好き~!
「魔界村かあ。この辺に魔界村がある駄菓子屋さんあるかい?」
そこの角の駄菓子屋にあるよ!20円だよ!
「じゃあオジさんが誰も知らない魔界村の攻略法を教えてあげようか?」
ホント~?
「ただこれはゲーム屋さんの秘密情報だからタダじゃ教えられないんだ。50円持ってるかい?」
ウン、あるよ!
「じゃあそれをオジさんにくれたら実際にやってみせてあげるよ。」
じゃああげる~!(50円渡す)
「よし、じゃあ魔界村をやりに行こう!」
(怪人と子供が駄菓子屋に向かう)
と、こんな流れで駄菓子屋に向かうわけだが、この怪人は何故かゲームセンターには近寄ろうとしない。「そのゲームはゲーセンにあるよ?」 と言っても、「あんな場所は子供が行っちゃダメだ!駄菓子屋さんとか玩具屋さんにあるゲームにしなさい!」 と怒り出すのである。その理由はあとで話す。
で、そんなこんなで駄菓子屋に着くと、怪人はまず子供にゲームを遊ばせてそれを後ろから見る。そして所々で 「もうちょっとタイムを気にしないとね」 とか 「レバーの持ち方を変えた方がいい」 とかもっともらしい言葉を吐くのだ。
しばらくして子供がゲームオーバーになると、その怪人が 「うん、キミの問題点はわかったよ。」 とか言いつつ、子供から巻き上げた50円の内の20円を使って、実際にゲームを遊び始める。今にして思えば、前もって子供に遊ばせる事でゲームの内容を確認していたのである。
こうして怪人がゲームを始めるのだが、最初はいつも簡単に死ぬ。なんでもない所であっさり死ぬ。何のゲームをやったか覚えてなかったので、上の例では仮に魔界村としたが、魔界村で言うなら一面の青い服のゾンビにぶつかって死ぬ。
しかし怪人は自機がヤラれる際に、絶妙なタイミングで 「今からこれ殺すからね」 とか何とか言い、さもわざと死んだかのような演出を施すのである。その言い訳がまた 「今回はプログラムの流れが悪かったから」 とか、もうナニがアレな子供騙しのオンパレードなのだ。
そしてそうこうしている内に、やっぱり大人だから同じ失敗はしないし、よほどの事がない限り一面くらいはクリアできるじゃん?で、怪人は一面をクリアした段階で 「今のわかったかい?技を使ったんだよ?」 とかなんとか言いやがり、2面から子供に遊ばせるのである。
そして子供が遊ぶ後ろからず~っともっともらしいウンチクを語り続け、気が付くといなくなっているのである。子供から巻き上げた金が50円で、ゲームに使った金が20円だから、差し引き30円の儲けと。10回もやればタバコ代くらいにはなる計算だ。
しかしこのゲーム怪人は誰かが親にチクったらしく、ある時から見かけなくなってしまった。なんとも惜しい人材を失ったもんである。
ところで、この怪人が決してゲーセンに入ろうとしなかった理由はおわかりだろうか?
先にも言ったがゲーセンのゲームは基本的に1プレイ50円で、それだと怪人の儲けが出ないのである。子供に100円出せと迫れば解決するような気がしないでもないが、当時の子供(オレは昭和50年生まれ) にとって100円は大金である。小学校低学年時に、一日のお小遣いは大体50円とか、少ない子だと30円程度だったような覚えがある。(1ヶ月1,000円~1,500円って感じ)
そんな経済事情から、怪人が子供から巻き上げられる金額の上限は必然的に50円になるのであり、そこから儲けを出そうとすると1プレイ20円程度の駄菓子屋に行くしかないのだ。しかもゲーセンには不良のお兄さんたちがいるから、怪人が変な事をしてたら即座にボコられる可能性もある。
こういった理由から、この怪人は決してゲーセンには立ち入らないようにしていたに違いない。この年になるとよくわかるが、当時のオレはあまりにアホだった。
なんでこんなのに引っ掛かったんだろう…orz。
・怪人リスト3
「早すぎたゲームレンタルオヤジ」
昭和50年生まれ(75年生まれ) のオレ様は、まさにゲーム業界の歩みと共に成長したと言っても過言ではない。スペースインベーダー(ゲーセンのゲーム) だのLSIゲームだのゲームウォッチだの、ファミコン以前のゲーム機で遊んでいた世代なのだ。
そんなオレ様が小学校の3年生くらいの時に、"やっと" ファミコンが発売された。当時それはもう大変なブームであり、男の子はみんなファミコンに夢中という感じだったように思う。(女の子向けのゲームがなかったからか、意外と女の子の方が外で遊んでた記憶が)
そんな時に、一日中雀荘に入り浸っているテキ屋なんだかヤクザなんだかチンピラなんだかわからない、「とにかくマトモに働かない」 と町内で有名だったオヤジが怪人と化した。
この怪人が目を付けたのがファミコンブームであり、自分の住むアパートの部屋をゲームレンタルショップにしてしまったのである。
気になるそのシステムは、買ってきたファミコンソフトの箱を玄関の壁にベタベタ貼り付けて子供に選ばせ、2泊3日1本300円で貸し出すというシンプルなもの。当時のゲームソフトの定価は4千円くらいだったから、15回も貸し出せば儲けが出る計算になる。
セキュリティ面はどうしていたかというと、子供に対して名前と住所と学校名とクラスをノートに書かせ、さらに証人になる別の子供を連れてこさせて嘘をついてない事を確認し、最後に 「オレはヤクザだからな。返さなかったら殺すぞ。」 と脅かすというステキすぎる手法を採用していた。ついでに 「友達も連れて来い」 と顧客の新規開拓も忘れない。
そんな怪人は、しばらくして新しいサービスを始めた。
「ツインファミコン30分100円」
これは何かと言うと、ツインファミコン(ディスクシステムとファミコンが一体化したハード) が発売された時にいち早くそれを購入し、「うちに来ればツインファミコン遊べるぞ」 と町で子供に声をかけるという、人さらいに間違えられても言い訳できない心温まるビジネスである。
それ以降、この怪人のアパートは常に鍵が開けっ放しで、中では子供たちがツインファミコンで遊び倒すという、訳のわからない育児施設のような状態になった。
玄関脇には貯金箱が置かれ、それには怪人のメッセージがいくつも貼り付けられていた。
「金を入れないで遊んでるヤツを見つけたら殺すぞ」
「ちゃんと人数を数えてるからな」
「カメラでヤクザが見張ってるからな」
怪人がここまで念を入れたにもかかわらず、ある時事件が起きてしまった。怪人の家にあったファミコンソフトやツインファミコンが、全て何者かに盗まれたのである。
怪人は慌てて常連の子供たちを問い詰めたが、誰も知らないの一点張りで犯人が見つからない。焦った怪人は子供たちの家を回って犯人探しをするという暴挙に出てしまい、それがキッカケでPTAが騒ぎ出し、ナニがアレな事態になってしまった。
ちなみにオレ様の家にもその怪人が訪ねてきたらしいんだが、ウチは代々酒屋であり、その怪人が頭の上がらない本物のヤクザのオジちゃんたちがウチのお得意さんだったため、何も出来ず世間話だけして帰って行ったという。(ちなみに親には 「あのオジさんに話しかけちゃいけません!」 と怒られた)
大事な商品を失った怪人には同情しないでもないが、アパートの玄関に 「オレはヤクザだ。殺すぞ。」 とか書いてたらダメだろ。そりゃお前、警察もまずは怪人を疑うわ。
それに商売相手の子供が出入りするからといって、鍵もかけずに出かけちゃダメだろ。そんなの弟とかから話を聞いた中学生がやって来たら、何もかも根こそぎ持って行かれるって。子供騙しが通じるのは小学校低学年までなんだし。
という訳で、「これから大流行するであろうファミコンソフトを子供に貸し出す」 という発想だけは良かったものの、他がまったくダメダメだった怪人は、何年か後に檻の中に入る事となった。何をやらかしたのかは知らんが、きっと詐欺とか恐喝だろう。
さて、オレ様が幼い頃に出会った怪人達はいかがだったでしょう?
近頃はこういう変な人を見かける事も少なくなってしまったので、もしかしたら今の若い世代は怪人と接した事もなく生きているのかもしれません。
だからこそオレ様は 「昭和ってのは怪人がいる時代だったんだよ!」 と、声を大にして叫びたい。むしろオレもこういう怪人になってみたい。
という訳で、こんな感じで皆さんの町にいた 「昭和の怪人」 について教えて頂ければと思います。近頃の若いもんに 「昭和の凄さ」 を見せ付けてやれればこれ幸い。
■追記
書いてて思ったんだけど、オレが子供の頃の 「子供を騙す大人」 って、こういう可愛げのある変人ばっかだったような気がするんだよね。やってる事は犯罪行為なんだけどさ。それが今じゃ子供に対して殺すだの犯すだのって目的(欲望) を持つ大人が多いように思う。
なんか上手にマトメられないがそんな考えが浮かんできた。
昭和って平和だったよなあ。



