5/5

台湾探見〜Discover Taiwan Week 最終日は、なんと3講座連続で参加。まずひとつめ、「高英傑〜ツォウ族の歌声を聴く」。

片倉さんが激オシされていたのと、高さんのお父さんが、高一生というのを知って。高一生は、日本時代に生まれた台湾原住民のエリートで、日本語教育を受け、作曲家に。戦後は原住民の自治を主張したため、国民党に狙われて銃殺されました。

以前、ニニ八記念公園にいったとき、原住民の権利運動をやっていて、その看板の一つが高一生でした。日本語で、「畑でも 山でも 私の魂が 何時でもついてゐます 水田 賣らない様に」と書いてあった。

台湾映画「太陽の子」にも出てきたけれど、原住民にとって、土地というのは売買の対象ではなく、先祖代々受け継いできたもの。それを人間の都合で金儲けの道具にしてはいけない、というのが、なかなか合理的な漢民族とはわかりあえないところかもしれません。


さて、そんな高英傑さんのトークですが、高一生の話、もあったんですが、ツォウ族の話と、高一生が遺した日本語やツォウ語の歌についてがメインのような感じでした。


貴重な写真を紹介しながら、片倉さんの解説が入ります。


これ、年号見えますか?1901年って、日本統治が始まってほんの6年目なんです。

一般的には、映画「セデック・バレ」のモチーフになった霧社事件が1930年だったように、日本軍と原住民って対立が多かったんですよね。


台湾原住民といってもたくさん部族があるんですが、ツォウ族とだけは対立することなく、かなり早い時期から交流があったんですって。なぜか。

それはマーヤ(マハヤかな?)の言い伝えのおかげだという。もともと平野に住んでいたツォウ族は、西から来た民族(漢民族)に追いやられました。仲間のマーヤ族と一緒に山に逃げようとしたところ、彼らは「私達は北へ逃げる」と言ってバラバラに。それで、北からやってきた日本人をマーヤ族と考え、友好的に接した、というお話でした。

高一生は、1930年に台南の師範学校を卒業後、阿里山に帰って教師や警察官として勤務。この間に数数の童謡や唱歌を書いたそうです。


学校での集合写真


ここで、高一生の遺した日本語やツォウ語の歌を、ご令息の高英傑さんが披露してくれました。


カエルのかわいい歌とか、いろんな歌があったけど、私がいちばん心に残ったのは『杜鵑山』(つつじの山)。

高一生が国民党に捕らえられ、獄中で作った歌と聞いて、どんな悲しい歌かと思ったら、ふるさとの山への郷愁が、なんともきれいなメロディーで、そして高英傑さんの歌声がのびやかで、風にのってどこまでも飛んでいきそうで、その歌が作られた経緯も聞いてたもんだからやっぱり悲しくなった。

高英傑さん、お父さんによく似ていらしたなあ。最後、高さんがお書きになった、父・高一生についての本が紹介されましたが、これは中国語版しかないとのことで私は諦めました…。でもいつか読みたいな。

・・・・・・・・・・・・・・・

●拙著でてます