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音楽レビューのようなもの〜TECHNO、JAZZ、BREAKBEATS etc

STEALTH OF DAYS/JENSEN SPORTAG

 なんとも不思議な魅力を持ったデュオが現れた。ジャンセン・スポータグのファーストアルバム「STEALTH OF DAYS」は、近年まれに見る傑作アルバムだ。コズミック/バレアリックディスコにチルウェイヴの要素を足して、80年代エレポップ風味をまぶした感じといえば、そのニュアンスがお分かりいただけるだろうか。
 とにかく曲が良い。1曲目「RAIN CODE」のイントロを聴いただけで、オーガニックとエレクトロが融合した独特な世界観にグッと引き込まれてしまった。3曲目「LIGHT THROUGH LACE」のメロディや4曲目「FALLING DOVES」、7曲目「BELLS」のシンセサウンドも、レトロな印象が強く、どこかで聴いたことがあるようなメロディなのだが、単なる懐古趣味に堕することもなく、ありそうでなかった新鮮さを打ち出すことに成功している。近いテイストを感じさせるミュージシャンを強いて挙げるなら、ノルウェーのエレクトロデュオであるロクイソップだろうか。
 短絡すれば、80年代のエレポップをソフィスティケイトして、さらにメランコリックにすればジャンセン・スポータグの音楽になるのだが、そこはそれ、チルウェイヴを通過して表出してきた2010年代の音楽だけに、メランコリックなだけでなく甘酸っぱい雰囲気もあり、特定のジャンルに回収されることを良しとしない姿勢がもたらす重層的なサウンドがじつに心地よい。
 しかし、こうしたヨーロッパ的/北欧的な翳りを帯びた音楽がアメリカ南部テネシー州ナッシュビルから出現するという事態は極めて2010年代的であり、グローバリズムが進行する現代社会ならではの現象といえるのではないだろうか。実際、本作がスウェーデンのレーベル〈Service〉から独立して立ち上げられたニューヨークの〈Cascine〉からのリリースであるという事実ひとつとってみても、ボーダーレス化による音楽の無国籍化/多国籍化を実感せざるを得ない。
 ニューヨークのニコラス・ジャーやピート・スワンソンならまだしも、土臭いナッシュビルからヨーロピアンテイストを持ったアーティストが出現するとは、アメリカ南部といえばカントリーだった時代を念頭に置くと、隔世の感があることは否めない。
 残念なのは、かつてこうしたトランスボーダー的なセンスは日本のクラブミュージックシーンのお家芸であったはずなのだが、加速度的に進行するガラパゴス化により、そうした傾向はすっかり鳴りを潜めてしまっているということだ。アメリカンミュージックですら、ヨーロッパ的なセンスを自家薬籠中のものとしようとしている時代に、日本の音楽シーンだけ、いつまで背を向けているのだろうか。センスの塊のようなジャンセン・スポータグを何度も繰り返して聴きながら、ついそんなことを考えてしまった。















WATCHING DEAD EMPIRES IN DECAY/THE STRANGER

 元ローリングストーンズのブライアン・ジョーンズがモロッコで録音した現地音楽をカットアップ/コラージュした 「THE PIPES OF PAN AT JAJOUKA」(1971年)や、CANのホルガー・シューカイが東南アジアの民族音楽等をサンプリングしてつくりあげたソロ作「CANAXIS」(1968年)の例を挙げるまでもなく、コラージュ音楽とエキゾチシズムは切っても切れない関係にある。1981年に発表されたスロッビング・グリッスルのベストアルバムは、エキゾチック・サウンドの生みの親ともいえるマーティン・デニーに捧げられており、アートワークもマーティン・デニーのアルバムジャケットのパロディになっていた。インドネシアのガムランやインドのタブラなどの楽器は、ニューエイジやサイケデリックと相性が良く、1980年代初頭のインダストリアル・ミュージックにも、そうした流れは受け継がれている。それらの源流をビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド」(1967年)に見出すことも不可能ではないだろう。
 Andy StottやDemdike Stareなどの作品をリリースし、現在最も重要なレーベルのひとつとして注目される〈Modern Love〉からリリースされた本作「WATCHING DEAD EMPIRES IN DECAY」の収録曲「So Pale It Shone In The Night」や「We Scarcely See Sunlight」を耳にして思い浮かんだのは、23スキドーの「THE CULLING IS COMING」(1982年)であり、キャバレー・ボルテールの「THREE MANTRAS」(1980年)だ。両アルバムともに「CANAXIS」の80年代版といったサウンドで、密教的な世界を濃厚に漂わせている。両者での密教的世界は、あくまでもファッションであり、そこに宗教的な意味などは皆無であろう。しかしながら、意味を剥奪されたマントラ的世界は耽美で怪しい。お経のようなドローンが空間を埋める4曲目の「We Scarcely See Sunlight」などは、特にそうした色彩が強く、目をつむって聴いていると思わずバッドトリップしそうになる。こうした音楽をエレクトリック・ボディ・ミュージックに対して、いささか陳腐ではあるがエレクトリック・スピリチュアル・ミュージックと呼んでみたい。(前述した23スキドーは2000年に活動を再開し、サックス奏者としてスピリチュアルジャズの代名詞的存在であるファラオ・サンダースを招聘してアルバムをリリースしている。)
 尤も、「WATCHING DEAD EMPIRES IN DECAY」において、そうした印象を担っているのは一部のトラックに過ぎない。実際、マントラ的世界と感じられるものも、実際は中世ゴシックが持つダークな世界の影響下にあるサウンドであり、東洋とは関係がないのかも知れない。ウィキペディアによると、もともとゴシック様式とは、イタリアの知識人が、北方ゲルマンの種族であるゴート人の名を用いて、均整の取れていないものを「ゴート人の (gotico)」と形容した表現が転用され、「野蛮な種族によってつくられたかのような未完成の様式」であるゴシックをそう呼んだのが語源だという。つまり、ゴシックという様式そのものが異邦人的なのであり、本アルバムにおいて作者であるJames Leyland Kirbyがザ・ストレンジャーの名を名乗っているのも、決して偶然ではないだろう。西洋文化の地下世界で反響するゴシック、或いはマントラ。それは、ヨーロッパ都市の深層に巡らされたカタコンベ(地下墓地)とも共鳴し合うことで、私たちに異界の存在を想起せしめる。異界への道先案内人=ザ・ストレンジャー。旧東欧のアパートを思わせるジャケットのアートワークや「WATCHING DEAD EMPIRES IN DECAY」(崩壊の中で、死んだ帝国を観る‥‥?)といったタイトルは、深読みすればいくらでもできそうだが、これ以上の深読みは止めておこう。
 5曲目「Providence Or Fate」で聴けるサウンドトラック的な世界や軽快なリズムを刻む7曲目「Grey Day Drift」など、とにかく一筋縄ではいかず、聴く側の感受性が試されるようなアルバムだ。特に6曲目「Where Are Our Monsters Now,Where Are Our Friends?」で表現されるいびつで甘美な匂いを放つオーガニックテクノは何度聴いても素晴らしいとしかいいようがない。














FUCK BUTTONS/SLOW FOCUS

 英ブリストルのベンジャミン・ジョン・パワーとアンドリュー・ハンによるデュオ、ファック・ボタンズの3rdアルバム「SLOW FOCUS」を遅ればせながら聴いてみた。ロックなのかエレクトリックミュージックなのかジャンル分けには困るところだが、過去2作品に、モグワイのギタリストであるジョン・カミングスやアンドリュー・ウェザウォールといった人脈が絡んでいるところを見るとロック寄りのミュージシャンなのだろう。過去2作もかなり良いが、本作は頭ひとつ抜き出た感じだ。
 最近、エレクトリック・ミュージックの分野では、インダストリアル・ミュージックがリバイバルしているが、本作の1曲「BRAINFREEZE」のイントロは、80年代に活躍したインダストリアル・バンドSPKやアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンによるメタル・パーカッションサウンド等を連想させるものであり、まさに時代の空気とシンクロしたサウンドだといえるだろう。前作の「TAROT SPORT」が、「OLYMPIANS」に代表されるように、ノイズによってキラキラとした多幸感に満ちたドローンオーケストレーションをつくり出していたのとは対称的だ。
 今作ではビートを前面に出したソリッドな感触を持ったトラックが並ぶ。4曲目「SENTIENTS」などもキャバレー・ボルテール的というべきか、不穏でありながらもアッパーなナンバーだ。プログレッシブな5曲目「PRINCE'S PRIZE」を経て、フロント242やDAF、ニッツアー・エヴを彷彿とさせるエレクトリックボディミュージック的な出だしの6曲目「STALKER」へと続いていく展開は変化に富んでいて飽きさせない。
 「何でもかんでもインダストリアル・ミュージックに結びつけるな」と従来のファンからは叱責されそうだが、勢いのある音楽というものは、ユングの集合的無意識のように、意識的であろうと無意識的であろうと、ひとつの流れに収斂されることで、ムーブメントを形成していくものなのだ。アンドリュー・ウェザウォールがプロデュースを手がけたプライマルスクリームの「スクリーマデリカ」の現代版といえば言い過ぎだろうか。
 スミス&マイティ、マッシヴ・アタック、トリッキー、ポーティスヘッド、ピンチを輩出したUKにおけるダブの聖地、ブリストルが生んだ21世紀のロックスター、ファック・ボタンズ。下手をするとメジャー化というケミカル・ブラザースの轍を踏みかねないが、その動向からしばらくは目が離せそうもない。


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TRUST/NICOLAS JAAR PRESENTS V.A.
PUNK AUTHORITY/PETE SWANSON

 ニコラス・ジャーが主宰する新レーベル、OTHER PEOPLEのコンピレーションアルバム「TRUST」。そしてピート・スワンソンのEPと未発表曲で構成された日本独自編集盤「PUNK AUTHORITY」。テクノの静と動の両極を象徴するような、これら2枚のアルバムを聴くと、アメリカの先端音楽シーンが、いよいよ面白くなってきたなと思う。
 もちろん、00年代にビートミュージックのシーンでフライング・ロータスをはじめとするロサンゼルス勢が果たした役割は決して小さくはなかったし、デトロイトのディープコードなど、ミニマルダブのジャンル、或いはウィッチハウスなどのジャンルにおいてもアメリカは、注目すべきアーティストを送り出してきた。
 しかし、そうした00年代にあっても、アメリカの本丸ともいうべきニューヨークから、独自のムーブメントが立ち上がって来ることは終ぞなかった。最も、デトロイトテクノやシカゴハウスが登場した80年代後半においても、ニューヨークという街は音楽的には保守的であり、アメリカの文化的な中心はロサンゼルスやシカゴ周辺にあったといっても過言ではない。
 70年代にはテレビジョンやパティスミス等が主導したニューヨークパンクもあったが、ロンドンパンクと比較するとアート志向が強く、どこか文学的な匂いがつきまとうムーブメントだった。
 ニコラス・ジャーやピート・スワンソンのサウンドも、ペダンチックといえばその通りで、ジャケットのアートワークひとつとっても極めてアート志向が強く、UKのインディーズに比べてハイブロウなシーンを形成している。
 ピート・スワンソンのパンキッシュなインダストリアルハードコアテクノは、ノイズの嵐とも形容したくなるほどに暴力的な音楽だが、その凶悪な相貌の中にもインテリジェンスを感じさせるところが、ニューヨーク的といえばニューヨーク的だ。しかし、ピート・スワンソンのサウンドは、90年代のロッテルダムテクノがそうであったように、カタルシスの奔流=祝祭感が半端ではなく、お行儀がいいだけのニューヨーカーたちとは毛色を異にする。
 一方、ニコラス・ジャーがプロデュースするコンピレーションアルバムでは、スノッブを絵に描いたようなネオクラシカルテクノが聴ける。しかし、こちらもまた徹底したゴシック趣味というか、これまでのアメリカにはないヨーロッパナイズされた漆黒のサウンドが新鮮だ。
 「TRUST」には、クワイエット・ピストルなど、UKのネオゴシックバンドとして有名なバウハウスやニューウェイヴバンド、JAPANのインストゥルメンタル「テナント」などを彷彿とさせる曲もあったりと、アメリカも遂にここまで来たかと感慨に浸りたくなるほどにアンニュイな世界が繰り広げられていてある意味圧巻である。1曲目のウィル・エプスインによるネオクラシカルとジャズを融合させた楽曲も、どこまでもメランコリックで陰鬱だ。
 ニューヨークのシーンが、これほどまでにアメリカのイメージにそぐわない奇妙な祝祭感や暗さを持ちはじめてきているのは興味深い。恐らくは、9.11とイラク戦争、そしてサブプライムショックが影を落としているのだろうが、アメリカもここへ来てようやく成熟してきたというべきなのかも知れない。
 

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SECRET GARDEN/A PINK

 最近、K-POPがパターン化してすっかりつまらくなった。今にして思えば、ティアラが「T.T.L」を、アフタースクールが「Because of You」を、レインボーが「Gossip Girl」を、ブラウン・アイド・ガールズが「Sign」 を、KARAが「Honey」を、少女時代が「Gee」と「Genie」をそれぞれリリースした2009年がK-POPのピークだったような気がする。それ以降のK-POPといえば、どれも似たりよったりの大味なエレクトロポップばかりになってしまった。もちろん、細かく見ていけば例外もあるのだが、2009年を境にK-POPからオリジナリティや多様性が失われていったのはほぼ間違いがない。
 KARAと少女時代の日本デビューが2010年だから、政府のバックアップによる過剰な対外戦略がK-POPから個性を奪ってしまったと仮定することも可能だろう。しかし、日本での活動に限れば、KARAに見られるように本国よりもソフトな路線で売り込みを図っている例もあるから、必ずしも日本進出がK-POPをつまらなくしたというわけでもないだろう。むしろ、日本での活動によってK-POPの多様性はかろうじて担保されているとすらいえる(しかし、日本でリリースされる楽曲は、作曲が日本人というケースも多く、純粋にK-POPといえるかどうかは怪しい)。K-POPの没個性化は、きっとタイやベトナム、中国、シンガポールなどを意識した対東南アジアおよび中国戦略がもたらした弊害なのだろう。
 昨年、クアラルンプールと香港を訪れたが、どちらもCDショップではCDもDVDも韓国勢が日本勢を圧倒していた。とりわけクアラルンプール中心部のショッピングモールにあるCDショップでは、J-POPのCDはほとんど扱われていないのに対して、K-POPは特設コーナーがつくられ、30対1以上の割合でK-POPの方が多く陳列されていた。真偽のほどは定かではないが上海やタイ、ベトナムでのK-POPの人気はマレーシア以上だという。こうしたアジアのマーケットをターゲットにすれば、必然的に楽曲はノリ重視にならざるを得ない。そこでは魅力的なメロディーをつくることよりも、いかにシンプルなビートと中毒性の高いリフレインを打ち出すことができるかということに力が注がれる。
 もちろん、少女時代の「Gee」や「Genie」にもそうした傾向を見て取ることは可能だし、レインボーの「Gossip Girl」などもサビの繰り返しが印象的な楽曲だった。しかし、少なくともシークレットの「マドンナ」の頃までは、リフレイン重視の姿勢をとりながらも、現在のK-POPほどワンパターンな楽曲構成ではなかったはずだ。ティアラなどのグループがどれだけ中毒性の高いリフレインを取り入れても、レトロ趣味のスパイスを加えたそれは、2NE1や4ミニッツなどのヒップホップ/R&B路線とは明確に一線を画すものだったはずだ。ところが、近年デビューするグループといえば格好良さを全面に打ち出すあまり、ガールズ・デイや作曲家ユニットのスイートチューンが手がける9musesなど、一部の例外を除けば、結果的にどのグループも中途半端なエレクトリックダンスミュージックに堕してしまっている。レトロを意識したオレンジ・キャラメルなどのグループもあるが、サウンド自体は打ち込み主体でまったく面白くない。
 KARAと少女時代はさすがにクオリティが高いが、それでも少女時代の韓国での4thアルバム「I Got a Boy」は、キュートなポップスでもエレクトリックダンスミュージックでもない中途半端な出来の作品であり、迷走している感が拭えなかった。ビートルズのサージェント・ペパーズ風のトラックがあったりして多彩と言えば多彩だが、「Express 999」の1曲を除くと楽曲の魅力に乏しく“らしくない”出来だった。KARAも「パンドラ」や4thアルバムの「Full Bloom」収録の「RUNAWAY」など名曲は多いが、凡庸なダンスチューンも決して少なくはない。
 もっとも、K-POPに歌謡曲やフレンチポップス、ソフトロック的要素を求める姿勢自体が古いといわれればその通りで、J-POPにおいてもフレンチポップスやソフトロックの影響は少なくなっているのが現状だ(AKBにはかろうじてそうしたエッセンスが残っているといえる)。それでも、欧米の音楽ではなくK-POPをあえて聴く意義は、歌謡曲的なキラキラ感やヨーロッパ的な叙情性にあるのであり、アメリカンポップスの猿真似に過ぎないK-POPなら、わざわざ聴く必要がない。
 前置きが長くなったが、そんなK-POPにあって、いまだ良い意味での歌謡曲性を失っていない
ガールズグループがA PINKなのだ。1stEP、2ndEP、1stアルバムに続いてリリースされた3rdEP「シークレット・ガーデン」も過去3作に劣らず名曲揃いである。A PINKで特におすすめなのは、1stEP「SEVEN SPRINGS OF A PINK」収録の「I Don't Know」と「BOO」、2ndEP「SNOW PINK」収録の「Prince」、1stアルバム「UNE ANEE」収録の「4月19日」、「BUBIBU」。願わくば現在の路線で行けるところまでいって欲しい。



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