Future Cafe -38ページ目

Future Cafe

音楽レビューのようなもの〜TECHNO、JAZZ、BREAKBEATS etc

EXCAVATION/THE HAXAN CLOAK
OBSCUR/SVRECA

 首吊り縄のようなロープが描かれたザ・ハクサン・クロークの「EXCAVATION」。逆さ吊り男が怪しげな雰囲気を放つスヴレカの「OBSCUR」。漆黒のジャケットが不吉なイメージを喚起させる2枚のアルバムは、それぞれポストインダストリアルの〈静〉と〈動〉の側面を象徴する傑作といえるだろう。
 まず、ロンドンを拠点とするザ・ハクサン・クロークの「EXCAVATION」。こちらは、遊園地のホラー3Dサウンドアトラクションを思わせる作品だ。サウンドを聴くというよりは、ひとつの空間を体験しているような不思議な魅力にあふれている。壁を叩くように突如暴力的なサウンドが表れたり、ドローンが周囲の空気をふるわせたり、音によって空間の輪郭を浮かび上がらせるような試みが成されているのが特徴だ。穴掘りや洞穴を意味する「EXCAVATION」のタイトルもまた、そうしたイメージを表しているのかも知れない。「EXCAVATION」を聴くという行為は、音を聴くことを通じて、空間を体感する行為であるといえるだろう。
 一方、スヴレカの「OBSCUR」はオリジナルアルバムでなく、既発曲とリミックスを寄せ集めた日本編集盤なのだが、ノンビートのアンビエントトラックである表題曲「OBSCUR」を除けば、グルーヴ感のあるインダストリアルテクノで構成されており、この手のサウンドとしては、かなりアゲアゲの内容となっている。ザ・ハクサン・クロークの「EXCAVATION」とは対照的に、サウンドのマテリアルを楽しむ作品といってもいいだろう。
 スヴレカは、〈Semantica Records〉を率いるスペイン・マドリード出身のエンリケ・メナによるソロプロジェクト。本作を聴く限りはエクスペリメンタルな側面とポピュラーな側面の双方がバランス良く共存するエイフェックス・ツインなどに近い資質を持った人物のようである。DISC 2は、REGISやMARCEL DETTMANN、CLARO INTELECT、GRISCHA LICHTENBERGER、SILENT SERVANT等、ミニマルダブやグリッチを代表する面子によるリミックスワーク集となっており、中でもディープなセンスが際立つMARCEL DETTMANNのリミックスやグリッチノイズが炸裂するGRISCHA LICHTENBERGERのリミックスは必聴だ。
 「EXCAVATION」も、「OBSCUR」も、音響系にありがちな退屈さとは無縁であり、40分そこそこという長さも集中して聴くにはちょうどいい。しかし、インダストリアルやノイズ、ハードコアといえばモノクロ、屍体写真(SPK、RAMLEH、NOCTURAL EMISSIONS、PAINKILLER/JOHN ZONE)、鞭(WHIGHT HOUSE、NAKED CITY/JOHN ZONE)といったステレオタイプなアートワークはなんとかならないものだろうか?

 

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LIVE TODAY/DERRICK HODGE

 ロバート・グラスパー・エクスペリメントの「BLACK RADIO」、ホセ・ジェイムズの「no beginning no end」、そしてデリック・ホッジの「LIVE TODAY」。昨年から今年にかけてブルーノートからリリースされた3枚のアルバムは、いずれもピアニストとしてロバート・グラスパーが参加しているという共通項を持つ。
 これら3枚のアルバムは、その配合の度合いは違っても、いずれもヒップホップ、ラップ、ロック、R&B、フォークなどの要素を取り入れながらも、そうした要素を極めて知的で洗練されたジャズのフォーマットへと順化させることに成功している。とりわけ、ロバート・グラスパー・エクスペリメントのベーシストとして活躍するデリック・ホッジの初リーダー作である本作「LIVE TODAY」は、フュージョンサウンドにさまざまな音楽をクロスオーバーさせたコンテンポラリージャズとして、ひとつの成熟したスタイルに到達しているといえるだろう。
 まず、ホーンを導入したオープニングの「THE REAL」が素晴らしい。そしてカンタベリーロックやUKジャズ、プログレッシブロックのテイストを感じさせる「BORO MARCH」、叙情的なメロディにアグレッシブなドラムが絡む「ANTHEM IN 7」、フォーキーな歌をフィーチャーした「HOLDING ONTO YOU」、メランコリックでノスタルジックな「SOLITUDE」など、バラエティに富んでいて聴く者を飽きさせない。個人的にはロバート・グラスパーの諸作やホセ・ジェイムズの「no beginning no end」よりも、本作の方が気に入っている。
 しかし、不満もなくはない。たとえば、表題曲の「LIVE TODAY」はどうだろう。ラッパーとしてコモンを起用しながらも、コモン自身のアルバムには存在していたクールネスの裏側に潜む狂気の欠片のようなものが、ここでは去勢されてしまっているのだ。それは、ロバート・グラスパーのサウンドにもいえることなのだが、ドラムが淡泊すぎてヒップホップのノリやグルーブを感じないのだ。生演奏ヒップホップという意味では、THE ROOTSの「do you want more?!!!??!」(1994年)あたりに似ているが、THE ROOTSに比べてみても、デリック・ホッジやロバート・グラスパーのサウンドには、ヒップホップの持つストリート感覚が希薄だ。
 そこで思い出されるのが、80年代後半にウィントン・マルサリスの新伝承派に対抗して、スティーブ・コールマンやグレッグ・オズビー、ジェリ・アレン、カサンドラ・ウィルソンなどが中心となって推し進めたM-BASEだ。ジャズにヒップホップなどのストリートミュージックの要素を融合させたM-BASE派の流れは、おそらく今日のロバート・グラスパー達ともどこかでつながっている。M-BASEには優等生的な生真面目さがつきまとっていたが、ポストM-BASE派といえるロバート・グラスパー達も彼らと同様、お行儀が良すぎる印象は否めない。ヒップホップとジャズの融合をテーマのひとつとしながらも、ヒップホップの本質がどこかに置き去られてしまっている、そんな印象が拭えないのだ。だからロバート・グラスパーのアルバムを聴いても、そこにヒップホップのエナジーを感じることはない。
 仮にクラブミュージックにまったく興味のない純粋なジャズファンであっても、ロバート・グラスパーのアルバムなら、ごく普通のピアノトリオとしてサラリと聴けてしまうのではないか。それはそれで、真夜中にウイスキーでも飲みながら聴くには悪くないのだが、クラブジャズ畑の人たちが、ことさら“グラスパー推し”になる理由が正直よく分からない。
 ストリート感覚をストリート然としたステレオタイプのアプローチで表現しないというのが彼らの戦略なら、グルーヴ感の欠如は意図的なものであり、そこを批判されるのはお門違いということになるだろう。むしろ、体臭を排除したデオドラントな感性こそが、“ポストM-BASE派”が意図する新しさなのかも知れないし、その可能性も多分にある。ただ、ヒップホップとジャズを融合した新世代ジャズともてはやされているわりには、オーソドックス過ぎるのが、いかにもニューヨーク的というか、面白みに欠ける気がしてならない。少なくとも、ヒップホップをジャズに取り入れた先駆者の一人であるハービー・ハンコックの音楽は、スタイリッシュな枠組みにはすんなりとは収まらないけれん味にあふれていたはずである。
 もちろん、新しさだけが音楽のすべてではないし、ヒップホップを演奏する際にはストリート感覚までも表現しなければならないというルールがあるわけでもない。従って、そのことでロバート・グラスパーやデリック・ホッジの音楽の価値が著しく下がることもない。特に本作においてはヒップホップ的なアプローチが最小限に抑えられているため、トータルでは熱量の低さはさほど気にならない。真新しいサウンドではなくとも、成熟したフュージョンの香りが堪能できる作品であり、そのクオリティは極めて高いといえるだろう。


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PARACOSM/WASHED OUT

 チル・ウェイヴのオリジネーターの一人でもあるアーネスト・グリーンによるプロジェクト、ウォッシュト・アウト。その最新作となる「PARACOSM」がリリースされた。
 比較的シンプルなロックアルバムであった前作「Within And Without」に比べると、今作はメロトロンの導入、そしてハープやヴィブラフォンのサンプリングなど、かなり作り込まれた密度の高いアルバムとなっているのが特徴だ。
 メロトロンを導入した牧歌的かつファンタジックなサウンドは、ビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」のようであり、マッド・チェスター全盛期の90年代初頭に、その「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」をカバーしたキャンディ・フリップを思い出させるのだが、今にして思えばチル・ウェイヴのドリーミーな甘酸っぱさの源流はキャンディ・フリップあたりにあったのかも知れない。ウォッシュト・アウトに比べるとキャンディフリップの方が段違いにポップではあるのだが‥‥。
 チル・ウェイヴは社会と向かい合うことを拒否した現実逃避型のベッドルームミュージックともいわれているが、6曲目のタイトルが、そのまんま「Great Escape」ときた。しかし、この曲がまた、デビューミニアルバム収録の名曲「Feel It All Around」を超える名曲で、この夏のマイ・ヘビロテ曲となること間違いなしのキラートラックだ。また、2曲目「It All Feels Right」、5曲目「All I Know」、8曲目の「Falling Back」もいい。耳を凝らせばしたたかなセンスとスキルが随所に透けて見えるアルバムとなっており、チル・ウェイヴの看板を下ろしても十分に通用する実力派であることを証明している。
 全編を通して感じられるのはコンセプトアルバム的な統一性であり、多重録音による厚みを持たせたサウンドも含めてウォッシュト・アウト版の「ペットサウンズ」と表現することも可能だ。先述したようにチル・ウェイヴを現実逃避の音楽として蔑む動きも一部にはあるようだが、ポップミュージックの多くは昔から現実逃避ためのツールであり、そのことが音楽としての価値を下げる理由にはならないだろう。
 ジーザス&メリーチェインの「サイコ・キャンディ」(キャンディ・フリップといい、どうやらキャンディはチルにつながるキーワードのひとつといえそうだ)を筆頭に、マイ・ブラディ・ヴァレンタインに代表されるクリエイションレーベルの面々など、現代のシューゲイザーにつながるアーチストはいずれも現実逃避型だった。いわば、白日夢系。もっとも、それはLSD時代のビートルズから連なる系譜であり、そもそも「ペットサウンズ」を生み出したビーチボーイズの音楽でさえ、金槌のブライアンウィルソンが見た夢、つまり現実逃避であったといえないこともないのだ。チル・ウェイヴにつきものの宅録のイメージがひきこもりのオタクという印象につながっているのだろうが、「PARACOSM」はファンタジーであり、むしろディズニーランドなどの世界観に近い。
 靄のようなリバーブがかかっているから、いまひとつ分かりづらいかも知れないが、Washed Outは相当のメロディメイカーであり、捨て曲が少ない。そのムラのなさこそが、数多いフォロアーとは一線を画しているところであるといっても過言ではないだろう。


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SURFBANK SOCIAL CLUB/一十三十一
HEARTBREALIN'/土岐麻子

 ここ数年、密かにシティ・ポップスが再燃しているという。しかし、80年代のシティ・ポップスと現在のシティ・ポップスは、その受容のされ方が決定的に異なっているようだ。80年代のシティ・ポップスが描く世界が、多くのリスナーにとって憧れであったのに対し、現在のシティ・ポップスは、作り手の側も、リスナーの側も、それがまがい物であることを知りつつ、確信犯的にシティ・ポップスの気分と戯れている。シティ・ポップスが描く虚構の都会を、記号として、或いはフィクションとして楽しんでいるというわけだ。新しい音楽に魅力を感じることができない旧世代にとっては、失われてしまった「なんとなく、クリスタル」な気分へのノスタルジーの受け皿として機能しているのだろう。
 おそらく現在のシティ・ポップスは30代からアラフォーの世代のミュージシャンによって支えられているのだが、中にはあっぷるぱいのようにバブル時代をまったく知らない世代のバンドもいる。「シュガーベイブが演奏しそうな楽曲」をコンセプトに結成されたあっぷるぱいは、現役の大学生バンドであり、親のレコードライブラリーにあったシュガーベイブに影響を受けたという。
 そもそもシティ・ポップスとはなんなのか。いくら考えてみてたところで、答えなど出ることはないだろう。リスナーの数だけシティ・ポップスが存在するといっても恐らく過言ではない。あえて独断で定義付けをするなら、移動の感覚こそがシティ・ポップスをシティ・ポップスたらしめている最大の要素だ。移動の感覚といっても、ランニングや自転車はそこには含まれない。あくまでも自動車や飛行機、エクスプレスによる移動でなければならない。前回のブログでテクノとモータリゼーションの関係に触れたが、シティ・ポップスもまたモータリゼーションとは切っても切れない関係にあるのだ。マイカー時代の到来とともに隆盛を極めたのがシティ・ポップスであり、その代表的な作品が松任谷由実の「中央フリーウェイ」といえるだろう。だから、先にあげたあっぷるぱいなどは、どれだけシュガーベイブに似ていたとしても、純粋な意味でのシティ・ポップスとはいえない。彼らの世界は自転車のスピード感覚であり、そこには車窓を風景が流れていくような速度感が欠けている。それは、若者の車離れを反映しているのかも知れないが、シティ・ポップスにおいては致命的な欠如となる。シティ・ポップスは、リスナーを四畳半(?)から連れ出すヴィークルでなければならないのだ。
 さらに付け足すなら、都心から郊外へと移動していく感覚こそがシティ・ポップス的なるものを象徴しているといえるだろう。現在のシティ・ポップを代表するグループのひとつである流線形のクニモンド瀧口は、「中央フリーウェイ」のようなドライブミュージックが作りたくて「3号線」という曲を作ったと語っている。3号線とは首都高速3号渋谷線であり、港区谷町ジャンクションで都心環状線と分岐し、用賀へと至る路線である。「中央フリーウェイ」に描かれている中央自動車道と同様、都心から郊外へと移動する感覚は、極めてシティ・ポップス的であるといってもいいだろう。
 用賀には、環八のロードサイドに通常のファミレスよりも高級仕様であるイエスタデイ、デニーズ、プレストンウッズが建ち並び、アメリカ村と呼ばれていた時期もある。おそらく、クニモンド瀧口の思い描くシティ・ポップスとは、六本木、銀座、渋谷的なものではなく、アメリカ村を起源とした世田谷的な要素を多分に含んでいるのではないだろうか。流線形のジャケット写真には駒沢オリンピック公園が使われているが、中心ではなくサバービアこそが逆にシティ・ポップスを換気させるというのは、やはり移動の感覚がそこに表出しているからに他ならない。湘南や葉山、鎌倉といった地名も、同様の感覚で多用されているといってもいいだろう。(もっとも、現在のシティ・ポップスはノスタルジーであり、ノスタルジーを換気させる風景は、東京ではもはや郊外にしか残ってないという理由に拠るのかもしれないが‥‥)
 ドライブ。カーラジオ。ハイウェイ。エアポート。海。エキスプレス。移動の感覚を備えたこれらの言葉は、シティ・ポップスの重要なキーワードだ。さらに、フライデー、週末、トワイライト、雨、夏、バカンスなどの曜日や時間、季節、天候を表す言葉も定番だ。実際この夏に発売された現在のシティ・ポップスを代表する2枚のアルバム、一十三十一(ひとみとい)の「SURFBANK SOCIAL CLUB」と土岐麻子の「HEARTBREALIN'」において、これらの言葉が頻出している。流線形のクニモンド瀧口も参加した一十三十一の「SURFBANK SOCIAL CLUB」には、〈フライデー〉、〈オーシャン〉、〈湘南〉、〈雨〉、〈ドライヴィン〉、〈海〉、〈車窓に浮かぶ夜〉、〈タクシー飛ばして外苑抜けて〉、〈8月は迷宮〉、〈埠頭〉、〈夏が巡る〉、〈週末〉、〈ロンサムエアポート〉、〈ビルの谷間を滑らせてリムジン〉、〈通り雨〉、〈江ノ島〉、〈急行〉、〈エンドレスサマーホリデー〉という言葉がでてくる。ここまでくるとパロディというほかない。このデジタル時代にあえて「フイルム」という言葉を使ってみたり、シティポップスという名のタイムスリップミュージックである。
 一方で、土岐麻子の「HEARTBREALIN'」にも、〈天気雨〉、〈ドライブ〉、〈金曜日の喧噪〉、〈動き出した明治通り〉、〈東京は雨〉といった言葉が出てくるが、「SURFBANK SOCIAL CLUB」ほどではない。「トーキョー・ドライブ」という曲で歌われているのは天現寺橋の交差点から明治通りを通ってラフォーレへ至るルートであり、山手線の外へは出ていない。もっとも「トーキョー・ドライブ」というタイトルである以上、湘南や江ノ島へ行くことはないのは当然であり、郊外へ向かう中央フリーウェイを走る必要もないのだが‥‥。また、「Rendez-vous in'58」というラストの曲には“85年のイビザでデュランと乾杯”という歌詞も出てくるのだが、イビザがクラブピープル/パーティーピープルの楽園などという感覚は80年代の日本人には無く、80年代のシティ・ポップスなら絶対にあり得ないフレーズである。
 つまり、土岐麻子のシティ・ポップスはパロディではなく、メタ・シティ・ポップスなのである。移動や曜日、季節、天候に関する共通のキーワードをちりばめることで、懐かしのシティ・ポップスを装ってはいるものの、一十三十一や流線形ほどベタではない。そこは、さすがにポスト渋谷系バンド、シンバルズの元ヴォーカルである。とはいえ、後ろ向きの音楽であることには変わりがない。しかし、邦楽が邦楽をオールドスクールとして発掘する時代が到来したと捉えるなら、こうした後ろ向きな音楽にも、ノスタルジーと一蹴することができない意味があるといえるだろう。ただし、それは内向きであることと紙一重であり、シティ・ポップスがAORやフュージョンなど外へ目を向けることで生まれた音楽であることだけは忘れないで欲しいと思ってしまうのは老婆心だろうか。


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BORDERLAND/JUAN ATKINS & MORITZ VON OSWALD

 先日、デトロイト市が連邦破産法9条の適用を申請して財政破綻した。1950年代には200万人いたというデトロイトの人口が、70万人まで落ち込んでいたという事実には驚きを禁じ得ないのだが、デトロイトの衰退はなにも今にはじまったことではない。日米自動車摩擦が問題となった1970年代には、相次ぐ工場閉鎖を受けて治安が悪化し、白人が市街地から流出するというドーナツ化現象がすでに問題となっていた。デトロイトテクノが誕生した1980年代半ばには、デトロイトの自動車産業は衰退しており、デトロイトテクノは廃墟とデッドテックの中から産声をあげたというわけだ。
 デトロイトテクノは、オリジネーターであるホアン・アトキンス、デリック・メイ、ケヴィン・サンダーソンたちが、ブラックミュージックの歴史を受け継ぐシカゴハウスをクラフトワークの影響下で再解釈した音楽といわれているが、アナログシンセサイザーとドラムマシンさえあればできてしまうデトロイトテクノは、ヒップホップと同様にアメリカのゲットー文化を象徴する音楽だ。
 デトロイトクラシックの名曲といえばデリック・メイの「ストリングス・オブ・ライフ」が有名だが、筆者はあえて本作の主役のひとりであるホアン・アトキンスによるMODEL500名義での「The Chase」を挙げたい。デトロイトテクノの存在を世に知らしめた記念碑的なオムニバスアルバムである「TECHNO!The New Dance Sound Of Detroit」(1988年)にも収録されていたそのトラックは、最小限のシンセ音のみで構成されており、チープかつシンプルであるが故に、どんなテクノにも真似することのできない強烈な個性を放っている。「The Chase」というタイトルはカーチェイスを連想させるが、ホアン・アトキンスはサイボトロン名義でも「Cosmic Cars」というタイトルの作品を出しており、崩壊するデトロイトの自動車産業に対するレトロスペクティブなこだわりを感じさせる。ユートピアを幻視するのではなく、ディストピアに目を向けること。そのリアルなまなざしこそが、デトロイトテクノに真の活力をもたらしているといえるだろう。
 一方、デトロイトテクノに決定的な影響を与えたクラフトワークだが、彼らのサウンドもまた、モータリゼーションと無関係ではない。彼らの名を一躍有名にしたのは、ドイツの高速道路をモチーフにした「アウトバーン」(1974年)というアルバムだった。クラフトワークが結成されたデュッセルドルフは、ヨーロッパ有数の工業都市で、ドイツを代表する自動車産業の中心地でもある。
 さて、デトロイトテクノの創始者の一人であるホアン・アトキンスと並ぶ本作のもうひとりの主役であるモーリッツ・フォン・オズワルドは、ベルリン在住だ。ドイツを代表する自動車メーカーであるメルセデスも、BMWも、フォルクスワーゲンも本社を首都ベルリンには置いていない。しかし、ベルリンの中央駅であるツォー駅に降り立ってみると、そこには第二次世界大戦の傷跡が生々しいカイザー・ヴィルヘルム記念教会とともに、電気で回転するベンツのマークが目印のオイローパ・センターが聳え立っており、ドイツがヨーロッパにおけるモータリゼーションの中心地であることを強烈に感じさせるのである。
モーリッツ・フォン・オズワルドは、1993年にマーク・エルネストゥスとともにベーシック・チャンネルを立ち上げ、デトロイトテクノからの影響をダブの手法で深化させたミニマル・ダブを確立し、数多くのフォロアーを生み出したダブテクノの父である。最近では、ウラディスラヴ・ディレイや
マックス・ローダーバウアーとともにモーリッツ・フォン・オズワルド・トリオを結成し、雨後の竹の子の如くに乱立するフォロワーを尻目に、ミニマルダブを次の次元へと推し進めることに成功している。
 本作「BORDERLAND」は、ベルリンを代表するテクノレーベル〈TRESOR〉からベスト盤が再発されたばかりのホアン・アトキンスと、モーリッツ・フォン・オズワルドの共作盤であり、ホアン・アトキンスのベスト盤と同様に〈TRESOR〉からのリリースとなる。かつて、トーマス・フェルマンとのユニットである3MBでも、ホアン・アトキンスとコラボレーションした経験があるモーリッツだが、本格的な共作盤は今回が初となる。ホアン・アトキンスとモーリッツ・フォン・オズワルド。自動車産業の「衰退」と「隆盛」を象徴する2つの都市を代表するテクノ・クリエーターのコラボとなると、嫌が応にも期待は高まらざるをえないのだが、現在も第一線で活躍するモーリッツと比べると、テクノのオリジネーターとはいえホアン・アトキンスは過去の人である。モーリッツがリスペクトするホアン・アトキンスをたてた内容になることは最初から予測がついている。そもそもモーリッツ・フォン・オズワルド・トリオを超えるような前衛的なテクノなど、端から期待すべくもない。むしろ、期待するとすれば、それは、モーリッツの“新しさ”とホアン・アトキンスの“旧さ”をかけ合わせることで、アシッドハウスやインテリジェントテクノが再興している現在のシーンに一石を投じるようなダンスミュージックが生まれる可能性にこそある。
 さて、「BORDERLAND」と題された本作だが、森林が描かれた静謐なトーンのジャケットはECMレコードのテクノ版といった趣だ。ECMといえばリカルド・ヴィラロボスとマックス・ローダー・バウアー(モーリッツ・フォン・オズワルド・トリオのメンバー)がECMのジャズ作品を素材としたリミックス集をリリースしており、本作の1曲目「Electric Garden」にDeep Jazz In The Garden Mixという副題が付けられていることからも、シリアスにECMレコードを意識しているような気がする。ECMが拠点を置くミュンヘンの郊外には、本作のアートワークさながらに鬱蒼としたバイエルンの森が広がっている。自動車産業の「衰退」と「隆盛」を象徴する2人のテクノクリエーターが、バイエルンの森で出会う。そうしたイメージに、時空を超越した神秘を感じるのは筆者だけだろうか。
 「Electric Garden」、「Treehouse」、「Digital Forest」といったエコロジーを連想させる曲名を見ただけで、遅れてきたニューエイジといったネガティブな印象を持つ人も多いかも知れない。しかし、フラクタル図形等を象徴的に用いていたような90年代初頭のセカンドニューエイジとは異なり、ホアン・アトキンスとモーリッツ・フォン・オズワルドのサウンドは、自然を人工的に再現するバーチャルリアリティの手法ではなく、自然から得たインスピレーションをテクノロジーで表現するという抽象的な手法が取られているため、古さはまったく感じさせない。
 「BORDERLAND」とは、デトロイトとベルリンのあいだ、ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸のあいだ、人工と自然のあいだ、現実と夢のあいだ、冷静と情熱のあいだなど、さまざまな含みを持たせたタイトルだが、その内容はホアン・アトキンスの作品にしては深遠な、モーリッツの作品にしては軽快なものとなっており、そうした意味では表層と深層のあいだといった意味も含まれるのだろう。
 果たして本作が、現在のシーンに一石を投じるようなダンスミュージックたり得ているかといえば、正直なところ物足りなさを覚える部分もなくはない。しかし、ホアン・アトキンスとモーリッツ・フォン・オズワルドが手を携えて、これほどまでにクールでエモーショナルなテクノアルバムを届けてくれたということに感動を覚えてしまう。ドイツのアウトバーンに触発される形で誕生したデトロイトテクノは、ベルリンを経由することで自動車が体現する疾走感からはかなり遠いところまで来てしまったようだが、ディストピアの絶望を乗り越えた果てに、安息の森に辿り着いたようだ。




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