Future Cafe -36ページ目

Future Cafe

音楽レビューのようなもの〜TECHNO、JAZZ、BREAKBEATS etc

A SMALLER DIVIDE/SENDAI

 それがダンスに従属しすぎたテクノに対するアンチテーゼであることは理解していても、アルヴァ・ノトやEmptyset等の音楽を聴くとき、そのあまりに記号的なサウンドに、頭では反応していても、体が反応してくれないもどかしさのようなものをつねに感じていた。もちろん、体が反応する音楽=すぐれた音楽ではないのはいうまでもない。
 サウンド概念の拡張に価値を見出す白人音楽と、フィジカルなグルーブの創出に価値を見出す黒人音楽。両者の地位の入れ替えは、これまでも度々繰り返されてきた。インダストリアル/テクノシーンも例外ではない。
 たとえばキャバレー・ボルテールなども、デビュー当初はダダイズムやウィリアムバロウズの影響を受けたエクスペリメンタルな作品を発表していたが、やがてファンクの影響を受けたダンスミュージックへと移行していく。黒人のファンクと比較するとぎこちないが、カットアップやコラージュ、音響処理によってでっちあげられた初期のアルバムと比べれば、体が素直に反応してくれるから聴いていて気持ちがいいのは否定できない。
 エクスペリメンタルからダンスミュージックへの接近は“サウンドの凡庸化”と隣り合わせであり、結局のところ、フィジカルな躍動感において本物のダンスミュージックを超えられず、中途半端なサウンドとなってしまうため、それは実験的なサウンドを売りにしているユニットにおいてはときに命とりとなる行為であるのだが‥‥。 
 ベルギー出身のPETER VAN HOESENとYVES DE MEYによるユニット、SENDAIのセカンドアルバム「A SMALLER DIVIDE」は、高度な実験性を保持したまま、トライバルなグルーブを獲得し得た画期的なアルバムだ(しかし、それはあくまでも白人的な硬質なグルーブであり、ハウスのような真性のグルーブを期待すると肩すかしを食らうから期待しすぎないように)。以前にとり上げたAKKORDよりも、さらにエクスペリメンタルなサウンドを探究しつつ、そこに作品としての展開の妙味やハードコアな刺激を加えた野心作である。ひずみつつ前進する、ひしゃげたようなガジェット感覚のビートは、オウテカやファンクストラングにも似ているのだが、SENDAIのトラックは著しくフリーキーであり、先の展開がまったく読めないところがじつに楽しい。また、ノイズを取り込んでいるにも関わらず、高解像度な音像はAKKORDとも共通するところで、ここにはかつてのノイズミュージックがそうであったような秘密結社的な秘儀性やポストパンク的なアンチポップ精神は微塵もなく、政治的パフォーマンスと切り離された次元で、ひたすら純粋に音楽として機能しているところが今日的といえなくもない。
 本作はARCHIVES INTERIEURESレーベルのカタログナンバー2となっているが、カタログナンバー1のYVES DE MEYによる「Frisson」もまた、インダストリアルへの先祖返りを指向しつつも、テクノの可能性を切り拓く意欲作だ。ベルギーといえば、フロント242やミートビートマニュフェストの作品をリリースしていたレーベル、〈プレイ・イット・アゲイン・サム〉や、80年代後半にEBM(エレクトリック・ボディ・ミュージック)を発展させたジャンルであるニュービートなどが思い浮かぶが、ここへ来てテクノのハードコア化というベルジャンテクノの伝統に復活の兆しが見えてきているようだ。









Kinetic Image/Conforce

 モーリッツ・フォン・オズワルドトリオが2009年頃に蒔いた種が、ここへ来てようやく育ちはじめているようだ。オランダのBoris Bunnikによるコンフォースのサードアルバム「Kinetic Image」も、そうした作品の一つといえるだろう。
 比較的ダンスフロアに近い場所に位置していた過去2作に比べて、本作では楽曲の抽象度が格段に増している。変拍子を取り入れた今様のサウンドデザインにより、単純な4つ打ちのグルーブは回避され、コンフォースの持ち味であったミニマル・ダブ的な高揚感は随分と薄められることとなった。その結果、「Kinetic Image」というアルバムは、地味ではあるが、じつに豊かな表情を獲得することに成功している。
 過去2作も十分に傑作ではあったのだが、本作の充実ぶりはどうしたことだろう。まさに「化けた」としかいいようがない。1曲目の「Excess Mortality」などは、最小限の要素を用いて、重層的で深みのあるサウンドスケープを構築しているし、6曲目の「Underwater Settlers」に象徴されるように、一見クールでストイックでありながらも、内なるエモーションを秘めたトラックが目白押しだ。
 アートワークも、これまでのオーガニックなデザインからは一転して幾何学的なデザインが採用されているのだが、ここにもスタイルの変化が現れているようだ。モーリッツ・フォン・オズワルドトリオに比べると、やや手数が少ないことは否定できないのだが、ここまでダンスフロア映えしないサウンドへと果敢に歩を進めたBoris Bunnikの姿勢に拍手を送りたい。
 踊れるテクノから、踊れないテクノへ。前回取り上げたakkordとは矛盾するようだが、90年代にミル・プラトーやメゴといった電子音響を中心とするレーベルが出現したように、ダンスフロアの誘惑から自由になったときに、エレクトリックサウンドの真の可能性は拓かれていくのだろう。
 




AKKORD/AKKORD

 グリッチやパルスで構成された音楽は、はたして音楽と呼べるのだろうか。ラスター・ノートン等のグリッチ/エレクトロニカ/ミクロサウンドを聴いているとき、音の細部に意識を集中させていると、ゲシュタルト崩壊を起こしそうになることがある。音楽って、どんなものだった?単なる音の連なりが音楽と呼べるのか?そもそもテクノとは音楽なのか?といった具合に音楽というものが分からなくなってくるのだ。
 マンチェスターのSynkroとIndigoによる2人組ユニット、アコードの音楽は、ジャケットの幾何学的なアートワークにも象徴されているように、演算によって導き出されたような精緻な音の配列が特徴的だが、それはゲシュタルト崩壊とは無縁の音楽だ。なぜなら、彼らの関心が、削ぎ落とされたミニマムな音の組み合わせによって、どれだけ多様なリズムパターンをつくり出せるとかいう一点に向けられているように思われるからだ。
 鋼のように強靱だがよくしなるベース音や、プチプチとはじけながら浮遊するグリッチノイズ、金属的なインダストリアルノイズのようなものを規則的、或いはランダムに配置し、組み合わせることで生み出される彼らの音楽には、その無機質でメタリックな触感とは反対に、祭り囃子のようにプリミティヴかつトライバルな印象すら漂う。
 それは、おそらく彼らの音楽が、ダンスミュージックとして機能することも念頭に置いてつくられているからだろう。たとえば、OLAF BENDER、FRANK BRETSCHNEIDER、CARSTEN NICOLAIのユニット、シグナルが2007年にラスター・ノートンからリリースした「ROBOTRON」と聴き比べてみるといい。「ROBOTRON」も同様に無機的な音の配列によって構築された音楽なのだが、アコードの後に聴くと随分ストイックな音楽に聴こえる。それは、そのままダンス成分の含有量の差といえるだろう。
 彼らの音楽は、原始的なリズムパターンを提示する一方で、無菌室のダンスとでもいうべき潔癖症的な性格も併せ持つサウンドである。画面のすみずみにまで焦点が合ったクリアなハイビジョン映像のように、そこにはひずみもなければ汚れもない。本来は異物であるはずのグリッチノイズですら、彼らの手にかかると精緻な音の戯れに聴こえてくるから不思議だ。
 ここで聴かれるのは、デトロイトテクノ以降、ソウルミュージックの変形として進化してきたテクノから、ソウルを完膚無きまでに排除することで、純粋に機能的なサウンドをめざしたある種のサイバネテックスミュージックといえるだろう。デトロイトハウスの第一人者であるムーディーマンが久々に新譜をリリースたが、ムーディーマンの音楽とは対極に位置する作品だ。
 ダンスミュージックとして体感するなら、多分、ムーディーマンのようにリバーブやディレイ、エフェクトを駆使した猥雑な音楽の方がはまれるし、それに比べれば無菌状態のダンスなど、アルコールやタバコ、ドラッグ抜きのクラブのようなもので、味気ないことこのうえない。
 しかし、彼らの音楽をピエール・アンリに代表されるミュージックコンクレートの進化形ととらえるなら、別の可能性が見えてこないだろうか。それは、コレオグラフィーを伴うダンスミュージックとしての可能性だ。バレエも、フィットネスダンスも、無菌状態のダンスに他ならないのだから。








HEX/HEX

 NUジャズ、クラブジャズのムーブメントが終息してしまった2010年代にあって、一体いかなるカタチの現在進行形ジャズが可能なのか。元U.F.O.(United Future Organization)の松浦俊夫による新プロジェクトHEXは、その問いに対するひとつの回答といえるだろう。
 松浦俊夫が新たなグループHEXを立ち上げると聞いたときに思ったのは、クラブジャズのミュージシャンやDJは現在の逆風をはたして乗り越えることができるのかということだ。例えば、元ファイヴ・コーナーズ・クインテットのトランペット奏者ユッカ・エスコラなどは、楽器の演奏にスキルを持つミュージシャンであるが故に、リアルジャズの畑に戻っていけばいい(2013年に須永辰緒のプロデュースでボサノヴァアルバムを出したりもしているが)。しかし、まともに演奏ができないクラブジャズのミュージシャンやDJは、戻るべき畑を持っていない。クラブジャズ系のDJである松浦俊夫もその一人だ。
 矢部直、ラファエル・セバーグ、そして松浦俊夫によってクラブジャズ系のDJユニットであるU.F.O.が結成されたのは1990年のこと。アシッドジャズが幅をきかせていた90年代前半において既にニュージャズの原点ともいうべき「LOUD MINORITY」(1992年)を発表していた。ニュージャズブームの嚆矢となったドイツ・コンポストレーベルのジャザノヴァやトゥルービートリオ、ビーンフィールド等に先がけること、じつに5年以上である。以来、U.F.O.はつねにクラブジャズの中心からは微妙に距離を置きながらも、ハイクオリティなサウンドを届けてきた。
 「LOUD MINORITY」という楽曲は、20年以上も前の作品であるにも関わらず、その輝きは現在でもまったく色褪せてはいない。ミッシェル・ルグラン「LA PASIONARIA」からイントロを、フランク・フォスター「The Loud Minority」からアジテーションを、モンゴ・サンタマリア「DIRTY WILLIE」(?)からパーカッションをサンプリングし、さらにアート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズ「チュニジアの夜」でのリー・モーガンによるトランペットソロをフィーチャーした「LOUD MINORITY」は、ジャズのスイングを感じさせる楽曲で、当時の流行であったジャジーなブレイクビーツとは一線を画し、独自の世界を構築していた。1995年から00年代にかけて、ジャザノヴァからクープ、ニコラ・コンテ、ファイヴ・コーナーズ・クインテットへと受け継がれていくことになるNUジャズの系譜において、まさにルーツに位置づけられる最重要曲といえるだろう。
 U.F.Oは個性の異なる3人によって構成されたユニットという意味では、イエローマジックオーケストラ(YMO)と似ているかも知れない。無頼派めいたジャーゴンを弄ぶ矢部直、ラテンのリズムを愛する楽天家のラファエル・セバーグに対して、松浦俊夫はU.F.Oのスタイリッシュな部分を担う存在だった。YMOでいえば、高橋幸宏だろうか‥‥。その松浦俊夫がプロデュースする「HEX」は、キーボードとプログラミングに佐野観、ドラムにみどりん(SOIL&"PIMP"SESSIONS)、ピアノに伊藤志宏、ベース&ギターに小泉P克人、レコーディング・エンジニアにzAkを迎えてつくられたジャズアルバムだ。ブルーノートからのリリースとなる本作は、意外にも松浦にとって初のソロ作品だという。
 現在進行形のジャズといえば、どうしてもロバート・グラスパーやホセ・ジェイムズ、グレッチェン・パーラト、デリック・ホッジ等のニューヨーク勢を意識したものになりがちだが、安易にそうした流れに与していないところは、流行のど真ん中からはつねに距離を取ってきたU.F.Oのメンバーらしいスタンスだ。派手さはないものの、たたみかけるようなスリリングな展開は元スタイリッシュ担当の面目躍如といえるものだろう。
 ミニマルなベースが律動する①「Jazzstep」は、ダブステップへのジャズ側からの回答か?脱構築されたラテンともいうべき②「Suite for the Visionary」は、ループするように繰り返すエレガントなピアノの音色がひたすら心地よいナンバーで、リラックスした雰囲気のエンディングがお洒落。続く③「Uncensored Love Transmission」はミディアムテンポのテクノからハウス、そしてコーラスへと展開するネオフュージョントラックで、本作中最もエレクトリックミュージック度数が高い楽曲だ。そして、ヴォーカリストとしてGrey Reverendをフィーチャーしたジャズハウス④「Hello to the Wind」を経て、エゴ・ラッピンの中納良恵が作詞を手がけ、唱うホレス・シルヴァーの「The Tokyo Blues」のカヴァー⑤「The Osaka Blues」へと至る中盤までの流れはテンポも良く、ジャズが向かうべきひとつのベクトルを示唆するアルバムといってもいいだろう。また、あくまでもダンスミュージックとしてのジャズという自らの原点を忘れていないところも評価すべきポイントだろう。
 ⑥「Dahsur Waltz」には、リバイバル中のドラムンベースが取り入れられているが、この展開はいらなかった気がする。加えて。Ed Mottaをフィーチャーしたラストの⑧「The Tokyo Blues」も、⑤「The Osaka Blues」と対を為してはいるのだが、いささか蛇足的な感じは否めない。とはいえ、ある意味、U.F.O.時代の作品よりも聴き応えのあるアルバムになっており、個人的にはロバート・グラスパーやホセ・ジェイムズのNYサウンドより、エッジが立っている印象を受ける。ここには、まだまだクラブジャズも捨てたものじゃないと思わせてくれる魅力と大人の色気のようなものがある。


















DOUBLE CUP/DJ RASHAD
RIVAL DEALER/BURIAL

 ダブステップの最重要レーベルとして、2004年からシーンを牽引してきたハイパーダブも今年で10周年。賞味期限は過ぎており、その勢いにも翳りが見えてきたようだ。2013年の夏にリリースされたアイコニカの「AEROTROPOLIS」で感じたハイパーダブ終焉の予感は、年末にリリースされたDJラシャドの「DOUBLE CUP」とブリアルの新作EP「RIVAL DEALER」を聴いて確信へと変わった。
 DJラシャドは、ジュークを出自とするミュージシャンであり、デビューアルバムとなる「DOUBLE CUP」は、これまでのハイパーダブのイメージを覆す作品だった。ジュークは、シカゴのゲットー・ハウスから派生したジャンルであり、BPM160前後のミニマルでトランシーなハウスビートに特徴がある。ジャングルやダブステップ、ヒップホップのハイブリッドともいえるジュークだが、実際はジャングル等を援用したダブステップにおけるパンクといえないこともなく、時系列で表せば、明らかにダブステップ以降に位置づけられるサウンドなのだが、ポストダブステップというよりはプレダブステップ的な色彩の強い音楽である。
 しかし、ジャジーなアレンジが効果的に導入された「DOUBLE CUP」は、本来のジュークとは幾分異なり、音楽的に、より洗練された形のサウンドを聴かせてくれる。また、⑪「ACID BIT」では、アイコニカの「AEROTROPOLIS」と共振するかのように、アシッドハウスを取り上げるなど、したたかな一面も垣間見せている。
 一方、ブリアルの「RIVAL DEALER」は、これまた加速するインダストリアル系のブレイクビーツが炸裂する問題作であり、ダブステップからの卒業を宣言するかのような衝撃のトラックだ。2011年の「STREET HALO」以降、たて続けにEPを連発してきたブリアルことウィリアム・ビヴァンだが、今作の分かりやすさは過去3作のEPと比べてみても尋常ではない。イントロやエンディング、そしてトラック全体にチリノイズの靄が立ちこめているため、いつものブリアルといった感じもしないのではないのだが、俯瞰でみるとビート自体は極めてシンプルになっている。
 ②「HIDERS」は、チープなエレクトロビートをノイズと絡めた小品だし、③「COME DOWN TO US」はブリアルの作品の中でも最もストレートな形でR&Bテイストが表出した作品といえるだろう。高速ビートが一転して4つ打ちになる①「RIVAL DEALER」や、天国から地獄に突き落とされるような「HIDERS」の薄気味悪いエンディングなど、リスナーの予測を裏切る展開は健在なのだが、アルバムを通じてどこか吹っ切れたようなブリアルらしからぬ投げやりさも感じられるのだ。
 DJラシャドのアルバム「DOUBLE CUP」とブリアルのEP「RIVAL DEALER」。どちらも決してつまらないアルバムではないし、十分に楽しめる内容であることも否定しない。ダブステップが既に過去のものになろうとしているいま、ハイパーダブがこうした方向に舵を切るのも必然的な流れだろうと思う。しかし、同時にハイパーダブも終わったなという気がしてならない。
 思い出すのは、コンポストレーベルにとどめを刺したアレックス・アティアスの「ALEX ATTIAS PRESENTS MUSTANG BACK HOME」(2004年)と、トーキングラウドにとどめを刺したロニサイズ・レプラゼントの「IN THE MODE」(2000年)だ。「DOUBLE CUP」と「RIVAL DEALER」は、その2作のあり方と驚くほど似ているのである。端的にいって、それは格好良さとダサさの境界線にあるサウンドだと言うことだ。そこから先へ進んでしまったら、間違いなくダサい。だから、後に続く者もいない。そうした臨界点ゆえの面白さはあるが、それは一回こっきり使用可能なの飛び道具であり、レーベルカラーを刷新する試みとはなり得ないのだ。