それがダンスに従属しすぎたテクノに対するアンチテーゼであることは理解していても、アルヴァ・ノトやEmptyset等の音楽を聴くとき、そのあまりに記号的なサウンドに、頭では反応していても、体が反応してくれないもどかしさのようなものをつねに感じていた。もちろん、体が反応する音楽=すぐれた音楽ではないのはいうまでもない。
サウンド概念の拡張に価値を見出す白人音楽と、フィジカルなグルーブの創出に価値を見出す黒人音楽。両者の地位の入れ替えは、これまでも度々繰り返されてきた。インダストリアル/テクノシーンも例外ではない。
たとえばキャバレー・ボルテールなども、デビュー当初はダダイズムやウィリアムバロウズの影響を受けたエクスペリメンタルな作品を発表していたが、やがてファンクの影響を受けたダンスミュージックへと移行していく。黒人のファンクと比較するとぎこちないが、カットアップやコラージュ、音響処理によってでっちあげられた初期のアルバムと比べれば、体が素直に反応してくれるから聴いていて気持ちがいいのは否定できない。
エクスペリメンタルからダンスミュージックへの接近は“サウンドの凡庸化”と隣り合わせであり、結局のところ、フィジカルな躍動感において本物のダンスミュージックを超えられず、中途半端なサウンドとなってしまうため、それは実験的なサウンドを売りにしているユニットにおいてはときに命とりとなる行為であるのだが‥‥。
ベルギー出身のPETER VAN HOESENとYVES DE MEYによるユニット、SENDAIのセカンドアルバム「A SMALLER DIVIDE」は、高度な実験性を保持したまま、トライバルなグルーブを獲得し得た画期的なアルバムだ(しかし、それはあくまでも白人的な硬質なグルーブであり、ハウスのような真性のグルーブを期待すると肩すかしを食らうから期待しすぎないように)。以前にとり上げたAKKORDよりも、さらにエクスペリメンタルなサウンドを探究しつつ、そこに作品としての展開の妙味やハードコアな刺激を加えた野心作である。ひずみつつ前進する、ひしゃげたようなガジェット感覚のビートは、オウテカやファンクストラングにも似ているのだが、SENDAIのトラックは著しくフリーキーであり、先の展開がまったく読めないところがじつに楽しい。また、ノイズを取り込んでいるにも関わらず、高解像度な音像はAKKORDとも共通するところで、ここにはかつてのノイズミュージックがそうであったような秘密結社的な秘儀性やポストパンク的なアンチポップ精神は微塵もなく、政治的パフォーマンスと切り離された次元で、ひたすら純粋に音楽として機能しているところが今日的といえなくもない。
本作はARCHIVES INTERIEURESレーベルのカタログナンバー2となっているが、カタログナンバー1のYVES DE MEYによる「Frisson」もまた、インダストリアルへの先祖返りを指向しつつも、テクノの可能性を切り拓く意欲作だ。ベルギーといえば、フロント242やミートビートマニュフェストの作品をリリースしていたレーベル、〈プレイ・イット・アゲイン・サム〉や、80年代後半にEBM(エレクトリック・ボディ・ミュージック)を発展させたジャンルであるニュービートなどが思い浮かぶが、ここへ来てテクノのハードコア化というベルジャンテクノの伝統に復活の兆しが見えてきているようだ。






