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Future Cafe

音楽レビューのようなもの〜TECHNO、JAZZ、BREAKBEATS etc

「DRUNK」サンダーキャット

 


 カマシ・ワシントンの「The Epic」や「ケンドリック・ラマーの「To Pimp a Butterfly」への参加をはじめ、新世代ジャズのキーマンとして引っ張りだこのサンダーキャットだが、過去にブレインフィーダーからリリースされた2枚のアルバムは、やや物足りなさを感じる内容だった。どちらもそれなりに良くできたアルバムではあるのだが、サンダーキャットがゲストとして参加していたフライングロータスの「Cosmogramma」(2010年)のようなエッジの効いたビートミュージックを期待する耳には、そのサウンドは軽すぎて肩すかしを食らったような気になってしまった。しかし、物足りなさを感じたのはサウンドだけではない。収録時間の短さもサウンドの軽さをさらに際立たせる要因となっていたように思う。1st「THE GOLDEN AGE OF APOCALYPSE」も、2nd「APOCALYPSE」も、1曲1曲の収録時間が短く、トータルでも40分に満たないボリュームであり、淡泊な印象を受けずにはいられなかったのだ。もっとも近年では、ジャズやエレクトリックミュージックにおいて、アルバム収録時間は短くなる傾向にあり、特にサンダーキャットに限ったことではないのだが・・・。

 さて、3rdアルバムとなる本作だが、全23曲、短めの楽曲が現れては消えていくという相変わらずの展開ではあるものの、トータルで50分の尺が与えられているため、不完全燃焼だった前2作と比べるとサンダーキャットワールドを十二分に堪能することができる。テクノやヒップホップ、R&Bの影響は変わらないのだが、そうしたクラブミュージック的な要素は後退し、フュージョンテイストが増しているのが本作の特徴といえるだろう。マイケル・マクドナルドとケニー・ロギンスの参加に象徴されるようにその射程はフュージョンのみならずAORにも及んでいる。ほとんどの楽曲にサンダーキャット自身による歌声がフィーチャーされており、純粋なヴォーカルアルバムとして楽しむことも可能だ。メロディメーカーとしてサンダーキャットが発揮する意外なセンスも本作の聴き所といえるだろう。

“軽さ”ということでいえば、本作で聴かれるサウンドは過去2枚のアルバムを上まわっているのではないか。パーカッションの音をソフトにすることで、楽曲に独特の浮遊感を生み出しているのだが、そのライトなサウンドがサンダーキャット自身による繊細なヴォーカルと絶妙にマッチしているのだ。そのぶん、ジャコパストリアスからの影響を伺わせる奔放で饒舌なベースプレイは抑えられているのだが、超絶技巧を盛り込みながらもさらりと聴けるといった点で、本作はポールウィリアムスをヴォーカルに迎えたアラン・ホールズワースの「i.o.u」(1982年)を彷彿とさせる。ロバート・グラスパー周辺のジャズプレイヤーは個々のテクニックよりもコンテクストを重視する流れにあるが、サンダーキャットもご多分に漏れず、新たなスタンダードの構築に向かいはじめたようだ。

音楽シーンの新しい動向や超絶技巧を取り入れながらも、あえてマニアックに走らず、ドライブやカクテルタイムのBGMとしても機能しうる音楽をつくるということ。歌を重視し、聴きやすさを追求するということ。はたして、それはマーケットの要請によるものなのかも知れないけど、そうした制約が、曲がりなりにも一般に向けて新しい音楽を開放しているとしたら、そのこと自体は決して悪いことではないと思う。むしろ、ダウンロード時代の音楽のあり方としての大きな可能性を感じる。もちろん、かつてのフュージョンがそうであったように、マンネリズムと凡庸が蔓延してしまう可能性だって十分にあり得るだろう。マイケル・マクドナルドとケニー・ロギンスという大御所まで引っ張り出してきて、フュージョンAORをやるという展開を面白いと見るか、新世代ジャズの末期的症状と見るかでその評価も分かれるところだろう。しかし、メジャーもマイナーも、アバンギャルドも商業主義も、白人も黒人も、若手もベテランも、ジャズもロックもヒップホップもなく、すべてを臆面もなく平準化し、貪欲に飲み込んでいくダウンロード時代ならではのジャズが体現する節操のなさは、音楽に対する固定概念へのアンチテーゼとして十分に刺激的だ。いましばらくはモダン・フュージョンともいうべき、この新たなムーブメントを見守っていきたいと思う。

 

追記

サンダーキャットのファーストアルバムのタイトルは「THE GOLDEN AGE OF APOCALYPSE」、セカンドアルバムのタイトルは「APOCALYPSE」。APOCALYPSEとは黙示録のことだが、本作のタイトルにはAPOCALYPSEの文字が使われていない。しかし、ジャケットの写真が映画「地獄の黙示録(原題:APOCALYPSE NOW)」のパロディである。サンダーキャットの黙示録へのこだわりはいつまで続くのだろう。

 

 

 

 

「流動体について」小沢健二

 


 小沢健二が新曲を携えて19年ぶりに帰ってきた。小沢健二と言えば、世間的には1994年にリリースされたセカンドアルバム「LIFE」のイメージが強いのではないだろうか。長身で甘いルックス、小澤征爾の甥っ子であるというサラブレッドの血統に加え、東大卒という肩書きも相まって、当時は渋谷系の王子様としてもてはやされた。そして、“フリッパーズ・ギターの小沢健二”のイメージを捨てきれない者たちにとっては、まさかの紅白出場も果たした。筆者もまさかと思った一人なのだが、ブレイクを果たした「LIFE」以降の小沢健二の需要のされ方に対しては、複雑な思いを抱かずにはいられなかった。テレビ番組に出演して、「ラブリー」をおどけた身振りで熱唱する“オザケン”に、何か違和感のようなものを感じたのだ。

 

「LIFE」のおよそ1年前。1993年にリリースされたソロデビューアルバム「犬は吠えるがキャラバンは進む」は、フリッパーズ・ギター時代にコンビを組んでいた小山田圭吾が「尾崎豊みたい」と揶揄したみずみずしくも硬派な歌声と想像以上に骨太でロックな曲調に驚かされた。それでもペダンチックな歌詞や転調の多いコード進行にフリッパーズ・ギターの面影を見出すことは可能だった。ところが「LIFE」ときたらどうだろう。ストレートに恋愛をうたった歌詞やはじけるような歌唱法には、斜に構えていたフリッパーズ・ギターの小沢健二の面影はみじんもない。とはいえ、「LIFE」というタイトルロゴからしてスライ&ファミリーストーンの剽窃だし、ジャクソン5などのモータウンサウンドやフィリーソウル、ブラジリアンサウンドからインスパイアされている曲も多い。小沢健二の本質は何ら変わらず、レコードコレクターならではの引用体質の向かう矛先が一般性を獲得しやすい方向へとシフトしただけという見方もできるだろう。しかし、「LIFE」の醸し出すはっちゃけた空気は「犬は吠えるがキャラバンは進む」とはまったく違う。パスティーシュを基調としたポストモダン的な諧謔性から完全に解き放たれたその世界は、元ネタ探しに奔走する音楽スノッブたちの口を黙らせるようなポジティブさと多幸感にあふれていたのだ。

 

 1980年後半から90年代半ばにかけて、数多くのレコード店が集まっていた渋谷・宇田川町界隈。世界有数の音楽アーカイブとして地球上のどの場所よりも豊かな場所として機能していた東京/渋谷という環境を背景に、さまざまな時代や国、ジャンルの音楽を引用、シャッフルしてオシャレな曲を作り上げる手法は、まだまだ過渡期だった日本のロック・ポップスシーンに豊かな実りをもたらした。「LIFE」もまたレコードおたくの濃密なリスニング体験の産物にほかならないのだが、そのようなバックグラウンドを不思議なくらいに感じさせない。時代背景から切り離された素直な耳で今改めて聴いてみると、「LIFE」というアルバムの持つ普遍性がよく分かる。

 

 小沢健二は「LIFE」のヒットによって“オザケン”になった。2017年現在、グーグ

ルで「小沢健二」を検索してみると約460万件ヒットする。「オザケン」なら約151万件だ。一方、「小山田圭吾」は約33万件、「コーネリアス」は約48万件で、「小沢健二」とは桁が違う。ちなみに「フリッパーズ・ギター」は約25万件だ。“オザケン”とは、渋谷系の範疇ではくくれないJポップのブランドのひとつであり、実際、当時のファンの多くはフリッパーズ・ギターのことをほとんど知らなかったのではないだろうか。オザケン自身もフリッパーズ・ギター時代のことを口にしたがらないため、ブランドとしてのオザケンが一人歩きすればするほど、フリッパーズギターの記憶は忘却の彼方へ葬られてしまうという皮肉な結果をもたらした。

 

 新曲「流動体について」は、私小説のようなストーリーを持つ楽曲だ。ニューヨークに拠点を移していたオザケンが家族と共に羽田空港に到着するところからはじまるのだが、「もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?並行する世界の僕はどこらへんで暮らしているのかな」とずいぶん思わせぶりだ。(家族と平行世界という視点は、「存在論的、郵便的」でコミュニケーションにおける誤配の可能性を論じ、処女小説の「クォンタム・ファミリーズ」で平行世界を題材にした東浩紀を思い出す)興味深いのはそのジャケットだが、1996年にリリースされたサードアルバム「球体を奏でる音楽」とそっくりな写真が使われている。違うところは波打ち際で水遊びをする小沢健二の姿が自身の息子の姿に変わっているところ。このことは本作が「球体を奏でる音楽」の延長線上にあることを示唆しているといえるだろう。「球体を奏でる音楽」はジャズをモチーフにした趣味性の強いアルバムで、「LIFE」でファンになった人たちの期待をあっさりと裏切るような内容だった。チェット・ベイカーやマーチン・デニーからの引用と思われるフレーズも散見され、渋谷系の曲づくりを放棄したわけではないのだが、「LIFE」の狂騒を冷ますかのようなサウンドが印象的だった。渋谷系のコンテクストを逸脱したポジティブさで時代と戯れて見せた「LIFE」の予想外のヒットに自らも驚き、それも悪くないかと戸惑いの中で王子様を演じていたであろうオザケンが、「球体を奏でる音楽」では等身大の自分に回帰している。そして、新曲の「流動体について」が「球体を奏でる音楽」を連想させるのはジャケット写真だけではない。“流動体”と“球体”という物体の形状を表す言葉もまた何らかのメタファーであると考えるのが妥当だろう。

 

 映画評論家の樋口尚文は1985年に発表された「ポスト・ヌーヴェル・ヴァーグ」の中で、1960年代を「球体ー破片」の時代と名付け、まえがきにおいて次のように語っている。「それまでの、世界を球体的に完結させるハリウッド的思考の頑迷な美しさの余波と、世界は人間の数量と質量のぶんだけ神が砕け散った破片だと考えるヌーヴェル・ヴァーグ的思考の新鮮な過激さとが、それぞれにすこぶる魅力的であり得た季節。ほぼ時を同じくして作品を発表し始めたゴダールや大島渚が、心のおもむくままに破片的な仕事を連打して一世を風靡し、若きヴィム・ヴェンダースは球体と破片の目眩く刺激に翻弄されながら幸福な観客としての日々を過ごしていた」。ここでいうヌーヴェル・ヴァーグ的思考とは、日本の音楽シーンに置き換えてみれば渋谷系的思考といえるのではないか。ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロルなど、ヌーベルヴァーグの監督は、雑誌「カイエ・デュ・シネマ」で批評活動を行っていた筋金入りのシネフィルであり、批評では飽きたらず自らメガホンをとり映画を撮りはじめた。小沢健二も、小山田圭吾も、ピチカートファイヴの小西康晴も筋金入りのレコードおたくであり、クリエイターである前にディープなリスナーであるというところがヌーベルヴァーグの面々と共通する。しかし、同著書の中で氏はこうも述べている。「最近はA級の虚しさに自覚的でありながら、シュミラークルだか引用の織物だか知らないが、独自の映像などまず今や生み出し得ないのだという痛覚を示すべく自らのけなげな学習成果からの引用やリメークだけで映画を作ってしまい、そのことで自らが今日的な聡明さとモラルに生きる作家として認知されるものと思い込んでいる人びともいるが、このように覚醒しきった位置から映画を操作したりコーディネートしたりして悦に入っている作家は、映画本来のいかがわしさを導こうとする賭を忘れている広義のA級といえるだろう。」これはまるで安易に拡散しすぎた渋谷系的なスタイルをいさめているようではないか。つまり、小沢健二による「球体を奏でる音楽」とは、A級の病に陥っていた渋谷系への決別宣言だということもできるだろう。小沢健二が拠点をアメリカに移したのは、ハリウッド的思考=球体の中に身を置いてみることで、日本的なスノビズムとも、ヨーロッパ的なインテリジェンスとも異なる普遍性を追求したいと思ったからではないだろうか。

 

 かつてのパートナーだった小山田圭吾は、1994年にコーネリアス名義でフリッパーズ・ギターの路線を踏襲するかのようにポップな「ファースト・クエスチョン・アワード」でソロデビューするが、1995年には、いささかトリッキーであり過ぎるものの、オシャレとはほど遠いヘヴィメタルを参照した「69/96」をリリースする。それは、これまでの学習成果をいったんリセットし、小沢健二とは別の道のりで、A級の病に陥ろうとしていた渋谷系を乗り越えようとする試みだったといえるだろう。樋口尚文の言葉を借りるなら、その後の「FANTASMA」(1997年)ではヌーベル・ヴァーグ的思考をさらに過激に推し進めることで、「音楽本来のいかがわしさを導こうとする賭け」に出たといえるだろう。そして、2001年にリリースされたアルバム「POINT」により、引用をベースとした渋谷系のスタイルとは完全に決別する。「POINT」というタイトルも、究極の破片を思わせる。その後、「SENSUOUS」(2006年)を経て、「デザイン あ」やプロデュース作品のsalyuの「s(o)un(d)beams」などにおいては、楽曲とともに歌詞のレベルでも破片的な音楽のあり方を探求しているかのようだ。純粋なサウンドにこだわり、言葉も音としてデザインし、ひたすらミニマルに、引き算の美学を追求するかのような小山田圭吾の姿勢。当てつけとまでは言わないが、私小説的な歌詞を持つ「流動体について」は、そうした曲作りの対極にあることは間違いないだろう。アルバム「球体を奏でる音楽」において、表題曲の「球体を奏でる音楽」はインストゥルメンタルだったが、「流動体について」はストリングスに乗って、過剰ともいえる文学的、哲学的な言葉が文字通り流れるように繰り出されるのだ。「流動体について」では、「意志は言葉を変え、言葉は都市を変えていく」と歌われる。それは、言葉も意味も解体し、純粋な音の戯れとしての音楽を探求する小山田圭吾に対し、「球体」を保ちながら、進化をし続ける「流動体」としての自分=音楽を体現するのがカムバックした小沢健二の音楽であるというニュアンスにも受け取れる。破片から球体、そして流動体へ。それはまた、物語の破片が脈絡もなく連なる「風の歌を聴け」から、全体性の回復を模索するかのごとき「1Q84」へと至る村上春樹のスタイルの変遷にも似ている。

 

 昨年には寡作の小山田圭吾が高橋幸宏、砂原良徳、TOWA TEI、ゴンドウトモヒコ、LEO今井とともにメタファイブを結成してバンド活動をスタートさせている。小山田圭吾が作曲した曲のタイトルが「Don't Move」というのも、偶然だが流動体に対立していて面白い。また、フリッパーズギターがつねに意識していたであろうプライマル・スクリームが3年ぶりの新作「カオスモシス」をリリースした。それぞれの作品が大人になるということを受け入れながらも、どこかで反発心のようなものを滲ませているのが興味深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「Danger」Espesia

「Boy Friend」脇田もなり

 


昨年、3人のメンバーが卒業し、空中分解寸前だった大阪・堀江系ガールズグループのエスペシアが、既存メンバーの冨永悠香と森絵莉加の2人に新メンバーのミア・ナシメント を加えた新体制で活動をスタートした。2016年12月にリリースされた新曲「 Danger」は、これまでのフュージョン指向の流れを汲みながらもややハードなナンバーで、なんと歌詞はオール英語。80年代のイメージに寄りかかりすぎることなく、スタイリッシュな表現をめざす新生エスペシアの決意を感じさせる楽曲だった。ジャミロクワイのようなところもあり、「STAY TUNE」でブレイクを果たしたSuchmosあたりの感覚に近いかも知れない。

それは、エスペシアのトレードマークだったレトロかつキッチュなイメージを封印したミュージックビデオにも表れている。ブラジル人も加入し、ビジュアル面でも洗練された印象を打ち出して、いよいよ本格的に動きだそうという矢先の2017年1月、新生エスペシアは早過ぎる解散を発表することになる。何があったのかは謎だが、余りにも中途半端な幕切れだ。

一方、旧エスペシアで冨永悠香と共にヴォーカルの柱を担っていた脇田もなりは、2016年11月に1stシングル「IN THE CITY」をリリースし、ソロ活動をスタート。今年2月に2ndシングル「Boy Friend」をリリースしている。「IN THE CITY」のプロデュースと作曲を手がけるのははせはじむだ。また、「Boy Friend」のプロデュースと作曲を手がけるのは、前回のブログで取り上げたマイクロスターの佐藤清喜である。どちらも星野みちるとの仕事で楽曲派から支持を集めるプロデューサーだ。

インドネシアのバンド、イックバルのライブにシークレットゲストとして出場した際に、星野みちるが所属するVIVID SOUNDの関係者が居合わせて、挨拶を交わしたのが

ソロデビューのきっかけだというから、彼女は旬のプロデューサーと巡り会う幸運を持ち合わせていたのだろう。とはいえ、それはあくまでもマニアに愛されるという偏った幸運であり、ヒット曲を生み出すという幸運ではないのだが・・。

「IN THE CITY」はサルソウル風の疾走感あふれるディスコナンバーだが、マイケル・フォーチュナティーを意識したと思われるメロディにハンドクラップが合いの手を入れるなど、ミラーボールが回転する80年代のディスコをイメージしている。さらに、新曲の「Boy Friend」はシニータの「TOY BOY」を彷彿とさせるストック・エイトキン・ウォーターマン風の軽快なナンバーで、よりダイレクトにユーロビートを題材にしているのが特徴だ。

そこで気になるのは、どちらのシングルも、マニア好みのプロデューサーを起用しながらも、プロデューサーのカラーが最小限に抑えられているように映ることだ。「IN THE CITY」は、星野みちるの楽曲で聴ける親しみやすいはせはじむメロディとは一線を画しているし、「Boy Friend」も佐藤清喜にしては、カラッとしていてケレン味のない仕上がりだ。なぜだろうか?おそらく、そこには「カッコイイ」と「カワイイ」のはざまで揺れる脇田もなりというヴォーカリスト=表現者を楽曲により現前させるという意図があったに違いない。プロデューサーたちに求められているのは、自らの個性を主張することではなく、彼女にふさわしい世界観を提供することなのだ。

「カッコイイ」と「カワイイ」のはざまで揺れるということ。今にして思えば、それこそがエスペシアのコンセプトではなかったのか。新曲「 Danger」により、「カッコイイ」の世界観をアップグレードし、脇田もなりのソロプロジェクトと併走するはずだったエスペシアが解散してしまうのは、本当にもったいない気がする。

 

 

 

 

 

 

 

「シー・ガット・ザ・ブルース」マイクロスター
「YOU LOVE ME」星野みちる






3年ほど前に、流線形、土岐麻子、一十三十一(ひとみとい)等をシティポップスの再来として取り上げたが、シティポップスの理想型とでも呼びたくなる完璧なメロディとサウンドを体現するアルバムが登場した。マイクロスターの「シー・ガット・ザ・ブルース」だ。マイクロスターは、90年代に活動をしていた知る人ぞ知る渋谷系ユニット、nice musicの佐藤清喜とヴォーカル&ベースの飯泉裕子によって1996年に結成された2人組だ。結成からなんと12年後の2008年にファーストアルバム「マイクロスターアルバム」を発表。筆者はデビューアルバムを未聴なのだが、曲の一部を視聴してみた限りでは「フィル・スペクターとバート・バカラックと80's テクノポップの素敵な出会い」という謳い文句はあながち大げさではないようだ。もろ大瀧詠一といった曲やゴダイゴへのオマージュ(?)と思われる曲も。テクノホップの要素はそれほど感じられないが・・・・。そして、デビューアルバムから8年ぶり(!)にリリースされたセカンドアルバムが、「シー・ガット・ザ・ブルース」というわけだ。これが素晴らしい。
本作で聴くことができるのは、松任谷由実やEPOの流れを汲むシティポップど真ん中の楽曲群だ。電気グルーブの「シャングリラ」でサンプリングされたシルヴェッティの「Spring Rain」を彷彿とさせるきらびやかなサルソウルサウンド風ディスコチューン②「Tiny Spark」をはじめ、松任谷由実さながらのメロディが80年代へと誘う④「友達になろう」、⑩「おやすみ」、EPOやシュガーベイブが蘇ったような⑥「夕暮れガール」、⑨「夜間飛行」など、いずれもメロディアスで駄曲は一切なし。あまりにもシティポップそのまんまであり、新しい要素が皆無だという批判もあるだろうが、シティポップスとしての完成度の高さがそうした短所を補って余りある快作だ。
フリッパーズギターを思わせるnice music(ヴォーカルも小山田圭吾似)の頃から佐藤清喜のポップセンスは卓越していたが、こういう形で2016年代にワープしてくるとはやはりただ者ではなかった。佐藤清喜は元AKB48のシンガーソングライター、星野みちるのプロデュースも手がけているが、彼女のサードアルバム「YOU LOVE ME」には元ピチカートファイヴの小西康陽や高浪慶太郎がゲストで参加し、ヤン富田プロデュースによるソロユニット、ドゥーピーズのカバーも取り上げられるなど、90年代ポップスのきらめきよ再び的なアルバムになっており、マイクロスターが気に入った方にはおすすめだ。

追記
星野みちるにはインドネシアのバンド、イックバルとの共演歴があるが、イックバルは4月に当ブログで取り上げたフュージョンアイドルのエスペシアとも共演している。イックバルは日本のシティポップスから影響を受けたと公言してえいるAORバンドなのだが、シティポップというドメスティックなジャンルが国境を越えて突然変異のようなバンドを生み出すのもインターネット時代ならではの現象なのだろう。グローバルな広がりと呼ぶには、まだまだ趣味的なムーブメントの息を出てはいないのだが・・・。あと、シティポップスのボーダーレスな展開として土岐麻子も参加した新潟ご当地アイドルnegiccoの「ティー・フォー・スリー」も忘れてはならない。











「From Joy」 カイル・ホール




メディアアーティストの落合陽一は、その著書「魔法の世紀」で、誰もがあらゆる芸術を鑑賞できるようになったインターネットの時代においては、一部の権威者が文脈を想定することが難しくなって行くだろうという趣旨の発言をしていた。興味のコミュニティが島宇宙化してバラバラになり、文脈がとてつもない数に複数化して、すでに飽和状態にある現在、コンピューター文化という新たな共同文脈において文脈のゲームを続行していくか、昨今のメディアアートのように芸術の文脈を超えたところで人間に衝撃を与えるタイプの作品を作り出していくか、どちらかに収斂されていくというのが落合氏の見立てなのだが、その予測が当たっているかはいざ知らず、エレクトリック・ミュージックを見てみても、確かに2010年代初頭のダブステップ以降、ポスト・インダストリアルという限定的なムーブメントはあったものの、文脈を欠いた島宇宙化はますます進んでいるような気がする。しかし、その一方で、歴史も、地域も、ジャンルも異なる複数の島が偶発的につながってしまう、文脈のアクロバットのような現象も起こっており、文脈をたどることの難しさ/無意味さを感じてしまうのだ。
さて、カイル・ホールの「From Joy」だが、じつはこのアルバムは2010年以前に制作された作品だという。カイル・ホールはデトロイトのサウンドクリエイターで、2013年にリリースされた「BOAT PARTY」は、異次元のデトロイトテクノ/ハウスともいうべき傑作だった。筆者は「From Joy」をてっきり最新作だと思って聴いてしまったのだが、6年以上も前に作られた作品が新作のように聴けてしまうところが、文脈を欠いたインターネット時代の面白いところなのかも知れない。古い作品と思って聴けば、ブロークンビーツとハウスを融合させたようなサウンドには確かに時代を感じさせるところもある。しかし、デトロイトテクノのアーティストが2015年にブロークンビーツをやったとしても、時代遅れに見えないところが複数の島が偶発的につながってしまうインターネット時代の妙味である。ムーディーマンやセオ・パリッシュにも共通するデトロイトの無骨さとアーバンフュージョン感覚がいい具合に混じり合っており、夜の都市高速などをクルマで走るときには最高のサウンドトラックになりそうだ。