Future Cafe -28ページ目

Future Cafe

音楽レビューのようなもの〜TECHNO、JAZZ、BREAKBEATS etc

「HOPELESSNESS」 アノーニ
「THE COLOUR IN ANYTHING」 ジェイムス・ブレイク







 アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ名義で数々の作品を発表してきたアントニー・ヘガティ。その別名義であるアノーニの「HOPELESSNESS」は、エレクトリック・ミュージック界の雄、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーとハドソン・モホークをプロデューサーに起用することで、ポップとエクスペリメンタルが絶妙な配合で融合された作品となった。これまでは生演奏をバックに歌っていたアントニーだが、本作では電子音響に乗せて持ち前の艶やかな歌声を披露している。
しかし、この座りの良さはどうしたことか?過去の作品では退廃的ともいえるヴォーカルを聴かせていたアントニーだが、ここでの歌声は力強さに溢れているし、ポジティブなオーラさえ漂わせている。もちろん、ハドソン・モホークのきらびやかなバックトラックに拠るところも大きいのだが、ヒップホップからベースミュージク、EDMまで、様々なサウンドに貪欲に触手を伸ばしてきたハドソン・モホークのおもちゃ箱的サウンドが、アントニーの官能的なヴォーカルとこれほどまでに相性がいいというのも驚きだ。
このアルバムの心地よさは、ハドソン・モホークとアントニー・ヘガティの双方が持っているロマンチックないかがわしさが、いい具合にシンクロし合った結果といえるだろう。そして、もうひとつ忘れてはならないのはワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの存在だ。彼もまたノイズやドローンで構築されたガジェットに、甘美で感傷的な風景をフラッッシュバックさせることが得意なサウンドクリエーターである。しかし、その作品世界はハドソン・モホークとは異なり、知的に抑制されている印象が強い。ハドソン・モホークの快楽志向とワンオートリックス・ポイント・ネヴァーのストイシズム。2つのカラーが牽制し合うことで、この大胆でありながらも繊細なサウンドは奇跡的に生まれたのだ。
本作のポップ指向を指して、物足りないと嘆くテクノファンもいるだろう。しかし、ポップミュージックの中に隠し味として巧みに溶かし込まれたノイズやドローン、グリッチもなかなかにオツなものである。
ジェイムス・ブレイクの新作「THE COLOUR IN ANYTHING」にもいえることだが、ヒューマンな歌声とテクノロジーの融合という意味において、本作は80年代のYAZOOやディペッシュモードのアップデイト版といっても過言でははない。しかし、YAZOOやディペッシュモードとは異なり、アノーニにも、ジェイムス・ブレイクにも、ダンスミュージックへの指向性は全くと言っていいほど認められない。アコースティックな手触りの音楽をゴリゴリのデジタルで創り出すことに主眼が置かれているようで、そこが極めて今日的であるといえるだろう。
「HOPELESSNESS」は極めて完成度の高いポップソング集であり、テクノに関心がない層にも是非おすすめしたい作品だ。





「CARTA」 エスペシア



大阪堀江を拠点に活動をするアイドルグループ、エスペシアの新譜「CARTA」が、かつてのチル・ウェイヴなど最先端ムーブメントに一役買ってきたアメリカの人気音楽メディア「ピッチフォーク」のレビューでとり上げられた。日本在住の音楽ライターによる投稿だから、そのチョイスにはそれ相応のバイアスがかかっていると見るのが妥当だろうが、いかなる経緯で日本でもマイナーなエスペシアにスポットが当たったのかは謎だ。レビューを書いているパトリックはTwitterで「CARTA」も好きだが、前作「Guesto」の方が気に入っているといった内容の発言しているのだが、おそらく個人的にエスペシアに注目していたのだろう。とはいえ、「ピッチフォーク」で最初に取り上げられた日本のアイドルグループが、80年代シティポップの影響を受けた大阪のアイドルグループだったというのは面白い。(当レビューの中ではベビーメタルの名前も見受けられるのだが‥‥)
記事ではエスペシアを紹介するに当たって“ジャパニーズ・ヴェイパーウェイヴ・アイドル”という言葉が使われているが、テクノミュージシャンのOneohtrix point neverまで引き合いに出して語られるヴェイパーウェイヴなる概念はあまりにも茫洋としている。とりあえず、ネットカルチャーを背景に生まれたレトロ指向の音楽潮流とでもいっておけば、それほど大きな間違いはないだろう。エスペシアのバックボーンとなっているのは、山下達郎や高中正義、ディビッド・サンボーン、リー・リトナーなどのシティポップやフュージョンだ。シティポップという言葉が和製英語であるということはよく知られているが、英文記事にそのままcity popと表記されているのが興味深い。
本作「CARTA」は、「Guesto」(2014年)に続くセカンドアルバムだが、「DULCE」(2012年)、山下達郎のカバーも入った「AMARGA」(2013年)、メジャーデビュー作「プリメーラ」(2015年)などのミニアルバムをリリースしているので、まだ2枚目という気がしない。すっかり忘れていたが、、ご当地アイドルnegiccoとのコラボグループであるnegipesiaもあった。作曲・編曲をおニャン子クラブなどの楽曲を手掛けていた後藤次利が担当したnegipesiaのシングル「Girl's Life」(2014年)は、ガーリーな雰囲気のポップソングで、普段のエスペシアとはひと味違った魅力にあふれていた。
メジャーデビューミニアルバム「プリメーラ」の1曲目「We arae Espesia~泣きながらダンシング」は湘南乃風の若旦那がプロデュースした異色の楽曲だったが、本作の1曲目「Clover」もまた「Get Along Together」のシンガーソングライターとしてバブル世代にお馴染みの山根康広が作詞を手がけ、元チェッカーズの藤井尚之が作曲を担当するロックナンバーであり、エスペシアのイメージを大きく裏切る問題作といえるだろう。山根康広の起用そのものがヴェイパーウェイヴ的(レトロ趣味)といえなくもないが、アルバムの中ではこの1曲だけが完全に浮いている。それでも、シティポップやフュージョン、AOR、ファンクといった昔の音楽を“やらされている感”が強いエスペシアのメンバーにとって、じつはこうした楽曲の方が彼女たち自身の感覚には近いのかも知れないと思わせるところがミソだ。湘南乃風をタオルを振り回すむさ苦しいグループとしか認識していなかった筆者は、前作を聴いたとき9分を超える「We arae Espesia~泣きながらダンシング」の楽曲としての素晴らしさに正直驚いてしまった。
ラップがフィーチャーされた⑨「Fader」や全編英語歌詞の⑧「Mistake」など、新たな試みも見られるが、全体的にはフュージョンサックスが耳に心地いいいつも通りの安定した仕上がりだ。その中にあって、④「Interstellar」はドラムンベースを基調としたアップリフティングな楽曲で、メロディのキレも良く、本アルバムいちばんのキラーチューンとして推したい。既発曲の⑫「Aviator」をはじめ、③「Sunshower」、⑦「Rittenhouse Square」も最高にブリージンだ。前作「プリメーラ」よりも曲が粒ぞろいで、聴き所も多いのではないか。
バッドテイストなファッションといい、楽曲のクオリティに追いついていない調子外れな歌唱法といい、リズムに乗り切れていないダンスパフォーマンスといい、そのすべてが板に付いていない危なっかしさのようなものがエスペシア最大の持ち味だったのだが、今作では“やらされてる感”は薄まり、80年代フュージョンポップスアイドルという役柄がずいぶんと板に付いてきたように見える。付録DVDで見られるようにファッションやパフォーマンスも垢抜けた印象だ。それはそれで悪くないなと思っていた矢先に、東京進出に際して5人のメンバーのうち、メインヴォーカルの1人である脇田もなりを含めた3人が脱退することを知った。エスペシアというグループの輪郭がくっきりと見えはじめていただけにじつに残念だ。








「EMILY'S D+EVOLUTION」 ESPERANZA SPALDING





クラシックとジャズの融合を図った「Chamber Music Society」、ソウルミュージックをジャズミュージシャンの視点から再構築した「Radio Music Society」といった具合に、毎回アルバムごとに趣向を変えて、私たちの耳を楽しませてくれるエスペランサ・スポルディングが、今回のアルバム「EMILY'S D+EVOLUTION」では“ロック”に挑戦している。
プロデューサーは、デビッド・ボウイやTレックスのプロデューサーとして有名なトニー・ヴィスコンティ。トニー・ヴィスコンティは、1969年に「Space Oddity」をプロデュースして以来、1980年の「Scary Monsters」まで、デビッド・ボウイ作品のプロデュースを数多く手がけ、21世紀に入り「Heathern」(2002年)から再びデビッド・ボウイとタッグを組み、遺作「Black Star」でもプロデュースを担当している。バックミュージシャンにジャズメンを起用して話題になった「Black Star」だが、そのリリースからわずか2ヵ月後にジャズベーシストのエスペランサがトニー・ヴィスコンティをプロデューサーに迎えたアルバムを発表するとは、できすぎた話のような気がしてならない。エスペランサのツアー・メンバーでもあり、今作にも参加しているギタリストのマシュー・スティーブンスは、2015年のソロアルバム「Woodwork」で、デビッド・ボウイの「Sunday」をカバーしており、恐らくは彼との間で、今回のアルバムの構想が持ち上がったと考えられるのだが‥‥
本アルバム「EMILY'S D+EVOLUTION」は、誕生日の前に見た夢の中に出てきた「もうひとりの自分」を主役に、人間の退化と進化を表現したコンセプト・アルバムなのだそうだが、惑星から地球にやってきたスーパースターが、ロック・スターとして登り詰め、没落するまでを描いたボウイのコンセプト・アルバム「ジギー・スターダスト」を思い出さずにはいられない。「ジギー・スターダスト」の原題は「The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars」であり、“栄枯盛衰”を意味する“The Rise and Fall”は、“退化”(Devolution)と“進化”(Evolution)を意味する本作のタイトル“D+Evolution”に対応していると考えるのは深読みだろうか。「ジギー・スターダスト」自体はトニー・ヴィスコンティのプロデュース作ではないのだが、ロックをテーマにしたコンセプトアルバムを制作するに当たり、エスペランサはコンセプトアルバムの金字塔である同作を相当意識したのではないだろうか。荒涼とした岩地をエスペランサが歩く姿を描いたアルバムジャケットも、ニコラス・ローグ監督、デビッド・ボウイ主演の映画「地球に落ちてきた男」のワンシーンをどこか彷彿とさせる。
サウンド的にもデビッド・ボウイの影響を伺わせる本作だが、変拍子や転調が多いエスペランサのヴォーカルは、ハットフィールド・アンド・ザ・ノースやキャラバンなど、カンタベリー・ロックのようでもある。⑤「ONE」で聴かれるギターなど、キング・クリムゾンを思わせる部分もある。カンタベリー・ロックやプログレッシヴ・ロックなど、1960年代末から70年代のロックにはジャズの影響を受けたものが少なくないのだが、アラン・ハンプトンやミシェル・ンデゲオチェロ、ベッカ・スティーヴンス等に見られるように、最近ではロックに傾倒するジャズ・ミュージシャンが後を絶たない。もちろん、フュージョンやエレクトリック期のマイルス・ディビスのようにロックとジャズを融合した音楽は過去にもあったのだが、近年はロックとジャズの融合というよりは、デビッド・ボウイの遺作がそうであったように、ジャズ・ミュージシャンがロックをやっているといった印象の作品が増えてきているのが特徴的だ。
本アルバムもそうした作品の一つではあるのだが、単にジャズ畑のエスペランサがロックに挑んだ作品というだけなく、自身のバックグラウンドであるブラジル音楽、ローラ・ニーロなどの影響も踏まえたエキセントリックな作品に仕上がっている。それでもロック色は色濃く、ポップな④「Earth to Heaven」などを聴くと、もう少しロック色を抑えても良かったのではないかと思ってしまうのだ。それにしても、今なぜデビッド・ボウイなのか。きっと、多くのミュージシャンは、自らもサックスをはじめとする数多くの楽器を演奏し、フォーク、ロックから、ソウル、アンビエント、ダンス・ミュージック、インダストリアル・ミュージックまでをつくり出したボウイにジャンルの超越者としての姿を見出しているのではないだろうか。











「MAN MADE OBJECT」 GOGO PENGUIN





AKB48の「走れ!ペンギン」を思わず連想してしまうユニット名だが、ゴーゴー・ペンギンはアイドルとも、ゆるキャラとも関係ない英・マンチェスター出身のピアノトリオだ。過去にマンチェスターのレーベル、ゴンドワナレコーズからアルバムを2枚リリースしているが、本作は名門ブルーノート・レーベルからのリリースである。内容は前2作とそれほど大きくは変わらず、ブレイクビーツやドラムンベース、ヒップホップ、ダブステップ、エレクトロニカのビートを取り入れたトラックが並ぶ。だからといって、彼らの音楽は単純にコンピューターサウンドをジャズに組み込んだだけの音楽ではない。エフェクトは使用しているが、あくまでもビートを生み出す主体となっているのは生のドラムである。テクノやエレクトロニカなどの電子音楽が持っているニュアンスをアコースティック楽器を用いて生演奏に変換するという点においては、リチャード・スペイヴンやマーク・ジュリアナとともに、近年のジャズにおけるドラム革命の一端を担っているといってもいいだろう。
彼らのサウンドに影響を与えているのは、エレクトリックミュージックだけではない。当然、ロックの影響もあるだろう。そして、彼ら自身が公言しているように、プリペアードピアノの使用やミニマルなループにはジョン・ケージやスティーヴ・ライヒなど現代音楽からの影響が、アブストラクトな旋律にはドビュッシーに代表される19世紀印象主義などの影響が見て取れる。さらに、どこかアンダーワールドの「Born Slippy」を彷彿とさせる⑥「SMARRA」では、終盤にジーザス&メリーチェインやマイ・ブラディ・ヴァレンタインなど、UKギターポップのお家芸ともいうべきディストーションのようなノイズまでもが飛び出すのだから一筋縄では行かない。ジャズトリオによるエフェクトの使用といったアイデアは、巷で言われているように1990年代の終わりから2000年代初頭にかけてクラシックやロック、エレクトロニカのエッセンスを吸収しながらピアノトリオの新たな可能性を探究し続けていたe.s.t.(エスビョルン・スヴェンソン・トリオ)を参照しているのだろう。音の響きにこだわる彼らの音楽は、雑多な要素が詰め込まれているにも関わらず、極めてシンプルな印象を与える。淡泊といってもいいほどだ。その要因はトリオという少人数の編成にあるのかもしれない。それでも同じトリオ編成のe.s.t.と比べてみても、彼らの音楽はBGM的だ。おそらく、そこが評価の分かれ目となるのだろう。
バンド名の通りクールなゴーゴー・ペンギンのサウンドには、物足りなさを感じないわけでもない。しかし、楽器演奏のテクニックや音色ではなく、音響工作によるサウンドテクスチュアと音の効果的な配置に情熱を傾けるテクノ発想のジャズバンドであると考えれば、その物足りなさも個性の範疇といえるのだろう。そのような意味では、彼らもリスペクトするブライアン・イーノのようなアンビエントミュージックやエリックサティが提唱した家具の音楽としてとらえた方が良いのかも知れない。とはいえ、e.s.t.よりもエレクトリック・ミュージックの影響が強い彼らの音楽に、e.s.t.のようなダイナミズムや緊張感が存在すれば‥‥と思ってしまうのは無いものねだりなのだろうか?多様な音楽的背景を持つ彼らのようなトリオが、10ccやニューオーダー、プライマル・スクリーム、ストーン・ローゼス、そして808ステイトを輩出したマンチェスターで産声をあげたという事実は、かつて“マッドチェスター”のムーブメントに胸を躍らせた者としては興味深い。






「BLACK STAR」 DAVID BOWIE



 2014年の暮れにリリースされたディアンジェロのアルバム「Black Messaiah」の1曲目「AINT THAT EASY」を聴いたとき、これがディアンジェロの曲かと一瞬耳を疑った。ニュークラシック・ソウル/ネオソウル然としていた過去2作「Brown Sugar」、「Voodoo」に比べて、明らかに毛色が違う。ファットなバンドサウンドも、ヴィブラートを効かせた歌唱法も、まるでデビッド・ボウイのようではないか。ネットで調べてみると、すでに2年以上前にその伏線があったことが分かった。2012年に行われたコンサートで、ディアンジェロはアコースティックギターを弾きながらデビッド・ボウイの「Space Oddity」のカヴァーを披露していたのだ。デビッド・ボウイ自身が黒人音楽の影響のもとに、プラスティック・ソウルを自称し、「Young American」、「Station to station」といったアルバムを出しているのだから、黒人のR&B歌手が「Space Oddity」をカバーしてもおかしくはない。しかし、「Space Oddity」はアメリカ在住時のソウル期ではなく、グラムロック期の作品である。ネオソウルの雄とUKロックの雄。想像だにしなかった邂逅は、その後の展開を暗示していたようである。「Black Messaiah」から数か月後、ディアンジェロと共振し合うかのようにケンドリック・ラマーが「To Pimp A Butterfly」を産み落としたのだ。
 ディアンジェロによる「Black Messaiah」、ケンドリック・ラマーによる「To Pimp A Butterfly」。これら2作品は、ネオソウルやヒップホップというジャンルの枠組みを超えて近年のブラックミュージックを象徴するアルバムとなった。両者に共通しているのは、ロバート・グラスパー以降のジャズシーンの動向を反映しているということ。ディアンジェロのバンドであるザ・ヴァンガードのドラマーはロバート・グラスパーとも共演歴のあるクリス・デイヴであるし、ケンドリック・ラマーの「To Pimp A Butterfly」にはロバート・グラスパーをはじめ、カマシ・ワシントン、テラス・マーチン、サンダー・キャット等が参加している。一見、デビッド・ボウイとは関係なさそうなアメリカのジャズシーンだが、驚くべきことにデビッド・ボウイは新作に取りかかる前にケンドリック・ラマーの作品を愛聴していたという。死を直前にして、何という慧眼。ディアンジェロ~デビッド・ボウイ~ケンドリック・ラマー。何とも魅惑的な3つの固有名詞がここにおいてひとつにつながったのだ。
 さて、遺作となった「BLACK STAR」 だが、デビッド・ボウイが起用したのはドラマーのマーク・ジュリアナを筆頭に、そのマーク・ジュリアナとNow vs Nowで共演するピアニストのジェイソン・リンドナー、サックス奏者ダニー・マッキャスリン、ギタリストのベン・モンダーといった新世代ジャズの旗手たちだった。そして、既発曲ではあるが④「Sue」 ではマリア・シュナイダーとそのオーケストラが起用されている。プロデュースこそお馴染みの盟友トニー・ヴィスコンティだが、まさに旬(Jazz The New Chapter)な人選といえるだろう。元LCDサウンドシステムのジェームズ・マーフィーは例外といえるが‥‥。ここで興味深いのは、メンバーに純粋な黒人がいないということ。ケンドリック・ラマーやディアンジェロの流れで考えるなら、ロバート・グラスパーやカマシ・ワシントン、クリス・デイヴあたりに声がかかってもよさそうなものだ。プラスティック・ソウルを標榜していたボウイには、黒人を起用してブラックミュージックをつくるということへのてらいがあったのかも知れない。かつて黒人のナイル・ロジャースを起用して「レッツ・ダンス」をヒットさせたこともあるのだが、あれは同様にナイル・ロジャースのプロデュースのもと「ライク・ア・バージン」を制作したマドンナにも通じるポピュラーなダンスミュージックであり、ブラックミュージックとはやや傾向が異なる。
 さんざ前置きをしておきながら、こういうのも何だが、本作「BLACK STAR」からは強いジャズ色を感じることはできない。予備知識がなければ、ジャズミュージシャンが演奏していることさえ分からないのではないか。10分に及ぶ表題作①「★」はボウイらしいドラマティックな楽曲だし、②「Tis A Pity She Was A Where」、⑥「Dollar Days」、⑦「I Can't Give Everything Away」など美メロも健在だ。しかし、こともあろうに、これだけのメンバーを集めておきながらジャズを感じさせないとは、一体どうしたことか。スティングがオマー・ハキムやブランフォード・マルサリスを起用してつくりあげた「ブルータートルの夢」には、まだジャズミュージシャンを招集する必然性があったように思う。それが、本作ではジャズミュージシャンがジャズ的なイディオムやテクニックを封印してしまっている印象が拭えないのだ。
 しかし、それこそがボウイの目論見なのではないか。ジャズミュージシャンを集めて、あえて分かりやすいジャズをやらないという倒錯。異化作用から生ずるロックでも、ジャズでもない何物か。そのスタンスは、どこか本作に参加しているマーク・ジュリアナのスタンスにも相通じるところがある。アート・ブレイキーやエルヴィン・ジョーンズのように扇情的なポリリズムを繰り出そうと思えばできるのだが、あえて打ち込みビート風のドラムに固執する彼のパフォーマンスは、本作のあり方と相似形を描いている。
 マーク・ジュリアナは、かつてインタビューにおいて影響を受けたアーティストにデビッド・ボウイの名前をあげているが、ミッシェル・ンデゲオチェロのプロデュースでリリースした2014年作「MY LIFE STARTS NOW」の表題曲②「MY LIFE STARTS NOW」などを今聴くと、ベルリン3部作をはじめとするデビッド・ボウイの音楽との親近性に驚かされる。マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット名義で2015年にリリースされた最新作「FAMILY FIRST」においても、マーク・ジュリアナはあえてスイングを排し、ストイックに演奏することに全勢力を傾けているかのように見える。元来がマゾヒストのマーク・ジュリアナは、ボウイの要請に嬉々としてロック風ドラムで応えたのではないか。ジャズミュージシャンを集めて、あえて分かりやすいジャズをやらないという倒錯。それは、再録された④「Sue」についてもあてはまる。マリア・シュナイダーらしさは微塵も感じられず、マーク・ジュリアナの人力ドラムンベースばかりが目立っている。ドラムンベースを大々的にフィーチャーした1997年発表のアルバム「Earthling」をあたかも時流に即して再解釈したといった仕立てのトラックになっているのだ。ロックの文脈から逸脱したところからロックを鳴らす「BLACK STAR」と、ジャズの文脈から逸脱したところでジャズを奏でるロバート・グラスパー以降のジャズ。立ち位置は正反対であっても、両者はメビウスの輪のようにつながっている。享年69歳。遺作にしてジャズやブラックミュージックの最前線と出逢ってしまうデビッド・ボウイの感性の柔らかさには、改めて敬服せざるを得ない。