Future Cafe -20ページ目

Future Cafe

音楽レビューのようなもの〜TECHNO、JAZZ、BREAKBEATS etc

「Quarantena」TENDERLONOIUS

 

 

 ジャケットに描かれているのは、ヴェネチアをはじめとする17世紀のヨーロッパでペストが流行した時に実際に医師が着用していた防護服だ。イタリア語で〈検疫〉を意味する『Quarantena』と題されたテンダーロニアスの新作は、明らかにコロナ禍に照準を当てたアルバムで、南ロンドンの自宅スタジオでロックダウン期間中に制作されたというから、その音楽にも通常のアルバムとは異なる想いが込められているとみるのが普通だろう。アルバムタイトルやアートワークを見る限り、新型コロナ・ウイルスがイタリアで猛威をふるっていたころに企画製作が進められたと思われる。

 フルート奏者兼サックス奏者兼コンポーザーのテンダーロニアスは、作品ごとに傾向を変えてくる手数の多いアーティストで、2017年の『Brick City』ではハウスやブロークンビーツなどのクラブサウンドを融合したハイブリッドジャズを展開。その翌年にはエレクトリックサウンドを導入しながらも、ユセフ・ラティーフばりにフルートを大胆にフィーチャーし、よりジャズに接近した『Shakedownk』を発表。そして昨年はアシッドハウスや初期デトロイトテクノなどの影響を伺わせる完全なるテクノ作品『Hard Rain』を制作している。そして今年に入ってから、タビー・ヘイズのカバー集となる本格的なジャズ作品『The Piccolo』をリリースし、さらに、インド古典音楽の旋法〈ラーガ〉を用いてパキスタンのインストゥルメンタル・バンドJaudiと共演したライブ盤の『Tender in Lahore』もリリースするなど、活動の領域は驚くほど広く多彩だ。コロナ禍をテーマにアルバムを作り上げることなど朝飯前だろう。

 今回、テンダーロニアスが作り上げたのは、イビザ・サウンドを連想させるバレアリックなアンビエント作品。ステイホームに合わせて、屋内でのチルアウトにふさわしいリラックスした内容になっている。1曲目を飾る「1984」は、おそらくジョージ・オーウェルの小説「1984」に描かれた監視社会とロックダウン下の都市をだぶらせているのだろう。同小説にインスパイアされたデヴィッド・ボウイが1974年に東ベルリンに代表される共産圏に小説世界を重ねた「1984」をヒットさせているし、マイケル・ラドフォード監督の映画「1984」のサウンドトラックをユーリズ・ミックスが手がけているし、彼ら先人に対しても何らかのオマージュ的な意図があったことも想像される。また、⑦「Total Recall」はフィリップ・K・ディックの小説であり、ポール・バーホーベン監督の手で映画化された。防護服無しでは暮らせない火星が映画の舞台で、詰まるところディストピアとしてのコロナ禍=地球のイメージなのだろうが、同アルバムには真逆の⑪「Utopia」という曲もある。

 ③「Quarantena」、⑤「Lockdown Boogie」、⑥「Covid Bluse」など、アルバムにはコロナ騒動に関連したタイトルの曲も多い。しかし、アルバムは808ステイトなど90年代のハウスサウンドを彷彿とさせるひたすら上質なアンビエント・ミュージックで統一されており、ロックダウンで陸の孤島となった殺風景な街にイビザ島の美しい朝日や夕日を現出させるが如き印象がある。④「Falkor Flight」のような穏やかなサウンドに身を浸しているとコロナのことなどどうでも良くなってくるから不思議だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「夜に駆ける/ハルジオン」YOASOBI

「盗作」ヨルシカ

「朗らかな皮膚とて不眠」ずっと真夜中でいいのに。

 

  

 

 1991年に出版されたダグラス・クープランドの『ジェネレーションX 加速された文化のための物語たち』は、経済至上主義にうんざりして都会から逃げ出したノンポリの若者たちの日常を描いた青春小説で、日本でも翻訳されてベストセラーになった。“X世代”とはアメリカ合衆国において1960年代から80年代に生まれた世代で、日本でいうしらけ世代や新人類のような存在のことをいう。内向的な個人主義者が多く、政治や社会に対して冷めている傾向が強いらしい。『ジェネレーションX』の第1章の見出しは「太陽はあなたの敵」と付けられていた。コーネリアスこと小山田圭吾は1993年にソロデビューをするにあたって、自らのシングルに「太陽は僕の敵」というタイトルを付けた。小説の内容はほとんど忘れてしまったし、小山田圭吾がどこまで小説の影響を受けていたかはわからないけど、“X世代”にとっておそらく〈太陽〉は社会、政治、経済、或いは社交家、成功者のメタファーであり、「太陽は僕の敵」という言葉はインターネットやオタクカルチャーの世界に生きる現代日本の若者にも共感できるところが多いのではないだろうか。

 〈YOASOBI〉、〈ヨルシカ〉、〈ずっと真夜中でいいのに。〉 ユーチューブなどのインターネットメディアの世界でその名に“夜”を冠するユニットがちらほらと目立つようになってきたのは、ここ2年ぐらいだろうか。これらインターネットを活動の中心とするユニットがこぞって看板に“夜”を掲げるのは、きっと偶然じゃないし、30年近く前に小山田圭吾が「太陽は僕の敵」という曲に込めた想いとそう大きくは変わらないのだろう。オタクカルチャーやサブカルチャーは昔に比べると表舞台に立つことが多くなったけど、メインカルチャーになったかといえば微妙で、“大人は判ってくれない”という状況は依然として続いている。

 〈YOASBI〉はボーカロイドプロデューサーのAyaseとボーカルのikuraによる2人組で昨年結成されたユニット。ソニー・ミュージックエンタテインメントが主催するコンテスト「モノコン」などの物語投稿サイトに投稿された小説を下敷きにした曲作りが特徴だ。しかし、単純に小説のストーリーをなぞるのではなく、情報の圧縮/拡張と抽象化が行われているので、予備知識がないと小説をモチーフにしているとは誰も思わないだろう。

2017年にデビューした〈ヨルシカ〉はコンポーザー兼ギタリストのn-bunaとボーカルのsuisによる2人組ユニット。バンド名は、夜鹿ではなく、1stミニアルバムの収録曲「雲と幽霊」の歌詞の一節「夜しかもう眠れずに」から付けられたらしい。コンセプトアルバム制作への意欲が強く、その世界観は独特だ。最近作『盗作』は音楽泥棒を題材としたメタ音楽ともいえる作品で、CDには書き下ろし小説がパッケージングされ、その表現は映像ともリンクして〈YOASOBI〉以上に文学的だ。

 〈ずっと真夜中でいいのに。〉は、2018年にユーチューブからいきなりミュージックビデオでデビューしたユニット。ボーカロイドクリエイターのぬゆり、コンポーザー兼シンガーのACAね(アカネ)、アニメーターのWabokuによって構成されるが、正式メンバーとしてクレジットされているのはACAね(アカネ)のみ。これまた文学的で思わせぶりな歌詞と、相反する軽快なサウンドが最大の持ち味で、歌の意味が分からなくても楽しめてしまうところが、今風というべきか。

 これら“夜”を冠したユニットに共通するのは、物語性と文学的な表現へのこだわり。そのせいか、歌詞に英語はほとんど登場しない。もともとボーカロイドの曲には「千本桜」のように文学モドキ(?)の歌詞が多いし、アニソンにも「鬼滅の刃」の主題歌「紅蓮華」に代表されるように耽美主義的な傾向を持つ曲は少なくない。それらは、京極夏彦の小説や椎名林檎、ヴィジュアル系バンドのノリに近いといえるだろう。しかし、“夜”を冠したユニットは楽曲のタイトルこそ物々しいものの、その歌詞にはどこかラノベ(ライトノベル)的な軽さの感覚が漂っている。そして、ミュージックビデオにアニメーションの手法が多く用いられているのも、“夜”ユニットに共通の特徴だろう。ファンの中には音楽は二の次で、ミュージックビデオの映像を観てファンになったという人もいるはずだ。楽曲的にはボーカロイドでデモテープ作りを行っているという〈YOASOBI〉と〈ずっと真夜中でいいのに。〉が興味深い。ボーカロイドの歌に対して、生身の人間が寄せていくという倒錯的な行為があってこそ、「夜に駆ける」におけるのikuraの奇跡的な歌唱が生まれたのだと思う。打ち込みみたいなチープなオケもボーカルの引き立て役として考えれば悪くない。2019年11月に公開されたアニメのミュージックビデオとは別にikura本人が登場する自撮り風ミュージックビデオがステイホームが叫ばれる2020年の5月に公開されて話題になったが、これには度肝を抜かれた。アングルも変えずにikuraがマイクに向かってひたすら歌うだけのプライベート映像になぜこうも心がざわつくのか。これこそが、〈夜の世界〉の奥深さなのではないか。小説もあれば、アニメもある、だけどそこにはパッションが血となって通っているのだ。

 ここで思い出すのは、東日本大震災翌年の2012年に刊行された宇野常寛氏の責任編集によるムック、「PLANETS vol.8」のテーマとして掲げられたキャチコピーだ。「僕たちは〈夜の世界〉を生きている」というのがそれだが、正直に言えば当時は私自身ピンと来てなかった。まえがきでは、三島由紀夫の「日本に対して希望をつなぐことができない」という言葉に対し、希望はあるという意味で「それは政治や経済といった〈昼の世界〉に対し、社会的に日の目を浴びることのない〈夜の世界〉としての日本のサブカルチャーやインターネット環境である。」と語り、編集後記では、「常に“政治と文学 ”の関係性を問い直し続けている。そしてこの“政治と文学”のあたらしい関係性を記述できるのはつねに目に見えるもの=政治の側ではなく、目に見えないもの=文学(文化)の側なのだと僕は考えています。」と語られる。宇野氏は〈夜の世界〉の例としてニコニコ動画やAKB48を引き合いに出しているが、夜ユニットの隆盛ぶりと彼らの文学への指向性を目にするに付け、いささか勇み足に見えがちな宇野氏の時代を先取りする言葉選びのセンスに脱帽してしまう。インターネットが過度に政治性を帯び、〈昼の世界〉を擬態しはじめているということは否定できないが、いっけんメンヘラっぽくて、そのじつ健康的な〈YOASOBI〉のクリエイティビティに続く才能の登場に期待したい。

 

 

 

 

 

 

「DARK MATTER」MOSES BOYD

 

 

 2017年に生誕100年を迎えたジャズだが、1990年代以降、大半のジャズ喫茶オーナーやジャズ評論家のあずかり知らぬところで、クラブ・ミュージックとジャズの相互乗り入れともいうべき現象が起こり、ジャズシーンの活性化を推し進めてきた。

 クラブ・ミュージックではドイツ、コンポスト・レーベルのコンピレーションアルバム「FUTURE SOUNDS OF JAZZ」に象徴されるジャジーなクラブ・サウンドが人気を博したが、それらはあくまでもジャズのテイストに焦点を当てた音楽で、ノルウェーのヴッゲ・ベッセルトフトやニルス・ペッター・モルベルなどの例外を除けば、ハウスやテクノ、ドラムンベースのビートにサックスやトランペットを単純に載せただけのジャズと呼べないものも多かった。

 そうした一方で、DJが主体となってDJの視点で既存ジャズの再評価を試みるレア・グルーヴのムーブメントがあった。これまでのジャズの正統な評価基準では箸にも棒にもかからなかったアルバムやミュージシャンが、技術や表現力を度外視して“いかに映えるか”という、現在のインスタグラムにつながる主観的、直感的な評価により、再発見されることとなったのだ。ジャズの入門本を読んでも出てこないイギリスのタビ−・ヘイズやマイケル・ガーリック、イタリアのジャンニ・バッソ、オスカル・ヴァルダンブリーニ、アメリカのサヒブ・シハブなどは、DJのジャイルス・ピーターソンや音楽プロデューサーのニコラ・コンテ、DJの須永辰緒、キョートジャズマッシヴの沖野修也たちによって強力にプッシュされ、続々と復刻されていった。クラブ・ミュージックとジャズの相互乗り入れは、2000年代の北欧で開花し、フィンランドのファイヴ・コーナーズ・クインテットやスウェーデンのクープというクラブ・ジャズ界のスターを生むこととなったが、当時の狂騒をピークにクラブ・ジャズは下火に向かう。

 しかし、ここへ来て、サウスロンドンを中心にジャズの側からクラブ・ミュージックを皮膚感覚で体現するミュージシャンが登場するようになった。カリブにルーツを持つUK出身のドラマー、モーゼス・ボイドもその一人だ。新世代USジャズのロバート・グラスパーやマーク・ジュリアナにはまだお勉強の影が付きまとっていたが、モーゼス・ボイドにはあざとさは微塵もない。故Jディラを師と仰ぐアメリカのジャズメンと比較すると、アシッド・ハウスから、ブレイクビーツ、トリップホップ、ガラージュ、グライム、ドラムンベース、ベース・ミュージックまで、多彩なクラブ・ミュージックのスタイルに触れることができるUKというバックボーンは、モーゼス・ボイドの曲作りや演奏に圧倒的なアドバンテージをもたらしているといえるだろう。何よりもブロークンビーツやダブステップの遺産を受け継ぎ、卓越したセンスでジャズのフォーマットに落とし込んでいく、その技は見事という他ない。

 アルバムの中では、やはりというか、同じくサウスロンドンを拠点に活躍する鍵盤奏者ジョー・アモン・ジョーンズとのコラボレーションの⑧「2 Far Gone」が素晴らしく、ピアノソロから2ステップへと展開し、アフリカ風の印象的なテーマが現れたり、キース・ジャレットばりに澄明な鍵盤ソロが現れたりと1秒たりとも飽きさせない。

 オープニングの①「Strager Than Fiction」も、ダブステップをイニシエーションしたドラミングにブラスやトランペットが絡むモーゼスらしい作品。サウスロンドンの顔、ヌビア・ガルシア(テナー・サックス)やフリージャズのデュオ作品をモーゼスと競作しているビンカー・ゴールディング(テナー・サックス)に加え、ハスキーボイスがアルチュール・アッシュのようなオボンジェイヤーをはじめポッピー・アジュダーなど、ヴォーカリストも参加。灼熱のアフリカングルーヴが弾ける③「BTB」やトータスのポストロックを連想させるギターが聴ける⑩「What New?」など、「ドラマーのリーダー作は、アート・ブレイキー意外はほぼつまらない」という定説(?)を覆す力作だ。ジャズで踊るクラブなど、ロンドン以外に存在するのか怪しいが、クラブ・ジャズからはまだまだ目が離せない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「Wu Hen」KAMAAL WILIAMS

 


  美術評論家の椹木野依が、デビュー作『シミュレーショニズム』の中で、「(ハウスミュージックを特徴づける)サンプリング、カットアップ・リミックスの一過程は、われわれの時代の病であるエイズ・ウィルスが、寄生する生体を破壊する戦略をシミュレーションするものである」と述べたのは今からおよそ30年前、1991年のことだ。ゲイやトランスジェンダーなどのマイノリティが市民権を得ようとしていたまさにそのとき、新種のウィルスであるエイズ・ウィルスが人類の前に立ちはだかったのだ。そして現在、東西冷戦が終わりグローバリズムが世界の有り様を大きく変えようとしている時代に、新型コロナ・ウィルス(covid19)は登場した。新型コロナ・ウィルスは、グローバリズムはもとより、音楽産業にも大きな影響をもたらしている。感染力が強く、ソーシャルディスタンスの確保が必須とされるため、ここ数年来、パッケージされた商品としての録音/映像メディアから体験型のフェスやライブ、握手会等のイベントへと受容形態が変化しつつあった音楽シーンに冷や水を浴びせることになった。ライブハウスからクラスターが発生したこともあり、インターネットによる無観客ライブに切り替えるアーティストも多い。

 5月末に刊行された『思想としての〈新型コロナ・ウイルス禍〉』において、18人の論客のうちの一人として、椹木野依が参加し、インタビューに答えているのだが、さすがにエイズ・ウィルスの時のような、『隠喩としての病い』のスーザン・ソンタグを彷彿とさせるようなポストモダン的な陽気さに彩られた言説はすっかり影を潜め、われわれの時代のウィルスと真摯に向かいあおうとしている氏の姿勢に対岸の火事ではない事態の深刻さを実感せずにはにいられなかった。「ここまでグローバリズムをすすめてきたあげく、その最果てで結局“家から出るな”というメッセージに落とし込まれたのは大きな衝撃です。“家にいてください”という呼びかけが人類を救う最大の貢献になる。冒険でも戦略でもなかった。むしろ、何もしないほうがいい。これはものすごく大きな転換ですよね」そう語る氏は、「言葉のうえでは評判のよくなかった「ひきこもり」が最大の武器となり、インスピレーションの源になっていくのかもしれません」と今後を予測する。ケレンミたっぷりな表現が魅力の椹木野依にしてはひねりの少ないストレートな考察だが、現在進行形の災禍に対しては気の利いたことをいおうとすればするほど嘘っぽく聞こえることもまた否定できないのである。

 「ひきこもり」といえば、かつてのローファイミュージックやベッドルームテクノ、エレクトロニカ、チルウェイヴが思い浮かぶ。近年ではビリー・アイリッシュやジェイムス・ブレイク、米津玄師、ヨアソビなどが、それに当たるかも知れない。メジャーになるにつれ、振る舞いが変わってくるアーティストも多いのだが、基本的には、音楽作りは多くの人の手を借りることなく、レコーディングはできれば宅録で済ませたい。ライブもするが、会場を盛り上げることにはさほど興味はないといった面々で、確かにコロナ・ウィルスの影響はスティーブ・アオキよりも小さそうだ。前置きが長くなったが、前作『The Return』を母親の家のダイニングルームで録音したというカマール・ウィリアムスもまたコロナの時代にこそふさわしいミュージシャンといえるだろう。現代UKジャズのメッカ、南ロンドンのペッカムを拠点とするビートメイカー/鍵盤奏者で、2016年にドラマーのユセフ・デイズと競作で傑作ジャズファンクアルバム『Yussef Kamaal』をリリースすると共に、ヘンリー・ウー名義でハウスミュージックやブロークンビーツをジャジーに展開。そして、2018年にはハービー・ハンコックやロイ・エアーズを現在のヒップホップの手法でアップデイトした『The Return』を発表する。プログレ的な要素が強い2019年のEP「New Height」を経て、コロナ禍での新作となる『Wu Hen』の完成に至った。 ジャズというよりはジャジーなビートミュージック集といった趣の前作に比べると、サックスの大胆なフィーチャーに象徴的なように、より本格的なジャズに接近した印象だ。フライング・ロータスやカマシ・ワシントンも手がけるアレンジャー、ミゲル・アトウッド・ファーガソンをフィーチャーした①「Street Dreams」、③「1989」、④「Toulouse」などは、流麗なストリングス、きめ細やかなシンセの音色、浮遊するエレクトリックピアノののメロウネス、スリリングなサックスが相まって、全盛期の4ヒーローやクリス・ボウデンに匹敵する世界観を体現しているといっても過言ではない。とにかく変幻自在なドラミングと美しい上物の取り合わせが絶妙で、今いちばん聴きたい音楽だ。ウィズ・コロナの時代のジャズは、ライブハウスも、クラブも必要としない。サブスクにお金を払ってさえいれば、スマホ1台あれば十分なのだ。

 

 

 

「RED STYLE」九州女子翼

 


  2017年に福岡で結成された九州女子翼は、ローカルアイドルに留めておくのはもったいないグループである。アイドル=ルックス勝負という公式はとうの昔に崩壊しているので、見た目はこの際関係ないとしておこう。(とはいえ、衣裳やアートワークを赤でまとめたそのいでたちは、野暮に見えるぎりぎり一歩手前で強烈な存在感を放っている)まず、九州女子翼において強調したいのが楽曲の良さだ。作曲を手がけるのは福岡を拠点に活躍する筑田浩志。最近注目されている楽曲派と言われるアイドルは、ロック寄りのBiSHや大阪☆春夏秋冬、ファンクの影響を受けたフィロソフィーのダンス、オルタナティブ志向の強いsora tobu sakanaなど、楽曲は魅力的でありながらも、アイドルソングの王道から外れたパターンが多く、この九州女子翼のようにメロディをしっかり聴かせるグループは意外に少ないといえるだろう。アイドルソングの最大の魅力は転調の妙にあると信じる筆者にとっては、奇をてらうことなく、豊富な情報量を圧縮した筑田サウンドこそがアイドルの正当性を踏まえた真の意味での楽曲派に思えてならないのだ。一見奇をてらっているように見えるヒャダインこと前山田健一も、メロディーへのこだわりが半端無く、紛れもなく楽曲派のプロデューサーはといえるだろう。筑田サウンドは、メロディー中心だが、決して古くさくはなく、エッジも効いている。

 ⑥「Merry Go Round」はゲスの極み乙女。を意識したであろうナンバーで、イントロのピアノとギターに続き、ポエトリーリーディング風ラップが現れるところなどはほとんどパロディと言っても良いが、サビのメリーゴーラウンドのリフレインはもとより、ゲスの極み乙女。を凌駕する圧倒的なメロディのオンパレードに心を奪われてしまう。さらに、⑦「空への咆哮」はソフトなWACといった感じの楽曲でスケールが大きく、「大声」という歌詞のせいかAKB48の「大声ダイヤモンド」を思わせる胸キュンの要素も持ち合わせていて文句の付けようがない。③「furuits music」はアイドルグループのスーパーガールズをイメージさせるナンバーだが、間奏から数秒間のみフリッパーズ・ギターの「恋とマシンガン」路線のラウンジ&スゥインギーなサウンドに転調するという意表を突く展開で、パヤパヤという歌詞も相まって、昭和ダバダ系のお洒落ミュージックと2010年代アイドルミュージックの融合へとリスナーを誘う。最も九州女子翼の楽曲全体から伝わってくるのは、2010年にデビューし、楽曲にこだわりながら現在も活動を続ける4人組ユニット(以前は5人組)東京女子流へのリスペクトとハロプロ/つんく♂へのオマージュだ。イントロダクション①「RED STYLE」に続く②「赤の流れ」は東京女子流とつんく♂のサウンドプロダクションを強く意識したであろうスリリングな楽曲だが、タイトルが「赤の翼」ではなく、“流れ”となっているのは、深読みかも知れないが東京女子流に向けた隠れたメッセージなのではないかと解釈したくなってしまう。