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Future Cafe

音楽レビューのようなもの〜TECHNO、JAZZ、BREAKBEATS etc

「Out of the blue」乃木坂46

 

 

 西野七瀬に続き、絶対的エースの白石麻衣が卒業し、もはやこれまでかと思われた乃木坂46だが、山下美月をセンターに据えた「僕は僕を好きになる」で、新たな魅力を見せつける結果となった。それ以前にも、小室哲哉の書いた「ルート246」を齋藤飛鳥がメインボーカルを努めることにより、小室ブランドの今さら感を払拭し、スタイリッシュに生まれ変わった乃木坂46を印象づけることに成功していたが、白石麻衣さえ必要としない現在の乃木坂46は向かうところ敵無しといえるだろう。蛇足ながら齋藤飛鳥は、日本のクラブジャズ黎明期にユナイテッド・フューチャー・オーガニゼーションやキョート・ジャズ・マッシヴ等とともに活躍した大沢伸一のプロジェクト、モンド・グロッソの13年ぶりのアルバムにゲスト参加し、エキセントリックな雰囲気の「惑星タントラ」をクールに謳いきっている。

 今回のシングル曲「僕は僕を好きになる」は乃木坂46らしいコーラスが映える良作だが、ここであえてスポットを当てたいのは4期生によるカップリング曲「Out of the blue」だ。松原みきの「真夜中のドア」をインドネシアの少女が歌うYouTube動画が話題になったことにより、再び世界で日本のシティポップが注目されているという大貫妙子のとき以来のいささか眉唾な情報が行き交っているが、そのシティポップス的な感覚を取り入れたナンバーになっている。

 イントロはジャクソン・シスターズの「Miracles」、もしくはモーニング娘の「ラブマシーン」みたいだが、サビの前にはシュガー・ベイブの「Dow Town」に似たメロディーが飛び出す。間奏の終わりには荒井由美の「中央フリーウェイ」のイントロで聴けるヴィブラスラップらしき音が使われているが、おそらくシティポップへのオマージュを込めた確信犯だろう。とはいっても、どっぷりシティポップじゃないところが、この曲の面白いところだ。冒頭のメロディや間奏など全体的には、このブログでは何度も登場してきたマイケル・フォーチュナティの「Give me up」が下敷きになっているような気がする。つまり、この曲は単なるシティポップ風なのではなく、シティポップとユーロビートとJ-ポップのハイブリッドなのだ。昭和のカルチャーにインスパイアされた楽曲を一番若い4期生のメンバーに歌わせる。そこに、秋元康のほくそ笑んでいる顔が透けて見える。小室哲哉の起用もそうした流れの一環だったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「THE MILLENNIUM PARADE」millennium parade 

 

 

 お笑いコンビ千鳥のノブが、「キング・ヌーの曲の歌い出しぐらい繊細じゃ」とツッコミを入れるほどメジャーになったキング・ヌー。その中心メンバー、常田大希率いるもう一つのバンドがミレニアム・パレードだ。ミュージシャン、映像ディレクター、CGクリエイター、デザイナー、イラストレーターなどから構成される音楽集団という触れ込みだが、ファーストアルバムを聴く限り、常田大希の趣味性がよりストレートに反映されたユニットと言っても過言ではないだろう。キング・ヌーの曲を聴いて思うのは、彼らがピカレスクロマン的な世界を表現するのにふさわしいバンドではないかということ。ピカレスク小説のように歌詞に犯罪や悪漢が出てくるわけでもないが、「白日」や「三文小説」における常田と井口のパフォーマンスからは背徳と浪漫の香りを、あるいは太宰治的な自堕落さへの偏愛を感じてならない。生きるということの罪深さと、デラシネの不安と憧れ。道化の悲哀。そこにあるのは、かっっこう悪さを白日のもとにさらけ出すということのかっこう良さだ。

 ミレニアム・パレードはそんなキング・ヌーとは異なり、諧謔や自嘲よりも、サウンドの造形的な面白さをひたすら追求しているように見える。ハープ音から始まる②「Fly with me」の不穏であるがスタイリッシュな導入において炸裂するメタリックな音像はまるでフライング・ロータスが主宰する〈Brainfeeder〉のサウンドのようだ。それもそのはず、常田はフライング・ロータスへのリスペクトを公言しているらしい。綾野剛主演、清水祟監督の映画「ホムンクルス」のサウンドトラック④「Tepanattion」はクラシックのシンフォニーとヒッブホップを融合させた美しい楽曲。ピアニスト兼サウンドクリエーターのチリー・ゴンザレスを

筆頭に、この手の試みは多いが、これほど深みのあるアプローチは少ないだろう。⑥「Plankton」もタイトル通り、水中をたゆたうような無重力感が印象的だ。続く⑦「lost and found」は繊細なヴォーカルと破壊的なインダストリアルビートとの対比が狂おしくも美しい。そして白眉は⑨「2992」。オーケストラとヒップホップの出会いが、カオスを楽園へと昇華させていく過程が圧巻だ。⑪「philip」はアルチュール・アッシュさながらの頽廃的なヴォーカルとバンドネオン風の伴奏がフランスを感じさせる。⑫「Fireworks and Flying Sparks」は日本語の歌声とコンピューターヴォイスがデュエットを奏でるニヒルな哀愁ソング。ゲストヴォーカルに井口理を迎えた⑭「FAMIILIA」だけは、さすがにキング・ヌーの影がちらつくが、猥雑さの中に賛美歌のように響き渡る荘厳なバラードがアルバムの終焉に希望の光を添える。

 ①「Hyakki Yagyo」の祭り囃子、⑧「matsuri no ato」のオーケストラ、⑩「TOKYO CHAOTIC!!」のサウンドコラージュなど、要所要所に入るインタールードがアクセントになっているが、東京の過去・現在・未来を百鬼夜行(ミレニアム・パレード)=カオスという視点から描き出したアルバムとも言えるだろう。ジャケットに描かれているのは花火だが、このご時世に花火と言うとどうしてもアルベール・カミュの「ペスト」のラストで疫病克服の象徴として打ち上げられる花火を思い出さないわけにはいかない。(あるいは東京オリンピック?)武漢の花火を連想する人もいるだろう。しかし、描かれている花火は百鬼夜行の象徴のように見えるし、パッケージされているサウンドは濃密なしろものだし、すべてがソーシャル・ディスタンスをなし崩しにしていくカオスの狂気に満ちている。つまり、「ペスト」の花火とは対極にあるわけだ。そもそもこれはパレードなんだから、密になるのがあたりまえ、飛沫なんて関係ないというのがアルバムの裏テーマなのかも知れない。だとすれば、花火はかつて2000年の始まりを華々しく彩ったミレニアム花火の残像/亡霊という解釈も可能だろう。それでは余りに救いがないからラストに鎮魂歌のような⑭「FAMIILIA」を持ってきたと考えると納得がいく。

 本来は映像やライブ演出にも触れなければならないのだろうが、ここでも和と洋、光と影、絶望と未来といった具合に対立する要素が混在したミレニアム・パレードワールドが具現化されているとだけ言っておこう。

 

 

 

 

 

「THE END」アイナ・ジ・エンド

 

 

 BiSHの勢いが下降気味に見えるのは気のせいだろうか?BiSHはまだ善戦している方だが、ライブやファンミーティング、握手会ができないコロナ禍にあって、ももいろクローバーZのような、クセのあるアイドルグループが軒並み苦戦を強いられているような気がする。その一方で、AKB48の人気の凋落ぶりに反して、正統派アイドルグループの乃木坂46や日向坂46が人気を増しているという現実もある。アイドルも勢いだけでは限界があることをコロナが顕在化させてしまったというべきか。ルックスにおいては、〈どこにでもいそうな〉という枕詞が通用しなくなっているし、歌も、ダンスも、ある程度は上手くないと相手にされない。

 YOASOBIやyama、ずっと真夜中で良いのに。、ヨルシカ、須田景凪などのインターネット勢の台頭に加え、優里、Rin音、Ado、平井大などの等身大シンガー、Official髭男dism、King Gnuu、緑黄色社会など本格派バンド、すとぷりやヒプノシスマイクのようなメディア・ミックス・ユニットが入り乱れる音楽マーケットでアイドルが生き残るためには圧倒的なルックスやパフォーマンスが求められる。そうした流れもあってか、秋元康のプロデュースするラストアイドルやWACKが「水曜日のダウンタウン」と組んだ豆柴の大群も成功しているとは言い難い。

 そんな中、BiSHのメインボーカリストであるアイナ・ジ・エンドがソロアルバム『THE END』をリリースした。ハスキーボイスに特徴のあるアイナ・ジ・エンドだが、今作では作詞作曲も手がけるなど、アーティストアルバムとしての体裁にこだわっているようだ。オルタナティヴロックとアコースティックポップ、ロックンロール、バラードなど全12曲。歌詞は思わせぶりで難解だが、〈長所のない私です〉や〈悪いのは私だから〉といった自虐的でネガティブなワードも多く、メンヘラという自己イメージをそのまま再現している。とりわけ②「虹」は椎名林檎風の耽美ソングでおどろおどろしい出だしから、後半、マイ・ブラディ・バレンタインばりの轟音ギターへと畳みかけていく展開は、アイナ・ジ・エンドだからこそできるアクロバットといえるが、一般受けを狙うならアルバムへの収録はやめておいた方が良かったかも知れない。夜一人で聴くと怖いという人もいるだろう。

 ご機嫌なロックナンバー⑧「STEP by STEP」だが、NiziUの公式デビュー曲「STEP and STEP」にタイトルが似ているのは偶然だろうが、②のタイトルが「虹」となると穿った見方をしたくなってしまう。⑤「ハロウ」も髭男の「Hello」と、、、関係ないか。ポップな曲も多く、①「金木犀」のキャッチーさは言うに及ばず、⑧「粧し込んだ日にかぎって」と対になっている⑩「死にたい夜にかぎって」は、聴き方次第では映画『ラ・ブーム』の「愛のファンタジー」のようにも聞こえるし、⑪「サボテン・ガール」はスウェーデンのレーベル〈ウエスト・サイド・ファブリケーション〉を思い出させるギターポップ(BiSHにも似た曲がある)で、〈青春〉の二文字が頭をかすめる。コロナ禍がアイドルの自立を困難にしていく中で、圧倒的な表現力を武器にソロ活動をスタートさせた、アイナ・ジ・エンド。彼女はアイドルというよりは、きっとアーティストなのだろう。できれば、欅坂46を脱退した平手友梨奈にもソロアルバムを出して欲しいものだ。

 

 

 

 

 

 

「Indaba is」 V.A.

 

 

 南ロンドンのジャズメンには移民2世が多く、自らのルーツを求めて中南米やアフリカの音楽にアプローチする者が少なくない。一方、中南米やアフリカのミュージシャンはどうだろうか。もちろん民族音楽で歴史が止まってしまっているはずもなく、そこには欧米文化の影響を受けながら独自に変容/進化を遂げた音楽が存在するはずだ。その答えとなるであろう一枚のコンピレーションアルバムが、英国人DJのジャイルス・ピーターソンが主宰するレーベル〈Brownswood〉からリリースされた。

 『Indaba Is』のタイトルが冠された本作は、このところヨハネスブルクを中心に盛り上がりを見せる南アフリカの音楽シーンをジャズの視点から捉えた内容となっている。プロデュースを手がけるのは、ピアニストのタンディ・ントゥリとシヤボンガ・ムセンブ というシーンのキーマン。アルバムには、彼らを含む南アフリカのバンドやプレイヤーが参加しているが、その中には南ロンドンを代表するサックス奏者のシャバカ・ハッチングスとのユニット、シャバカ・アンド・ジ・アンセスターズで知られるジ・アンセスターズもいる。

 南アフリカ観光局のホームページによるとジャズが南アフリカに伝わったのは20世紀初頭のこと。やがて、ラグタイムやディキシーランド・ミュージックなどアメリカのサウンドとアフリカ特有の繰り返されるハーモニーやトランス音楽のリズムを融合した「マラビ」と呼ばれる独自の音楽スタイルが形成され、南アフリカ全土に普及し、スイングの登場とともに、より複雑な音楽へと進化していったという。笛の音色が不可欠な「クウェラ」という音楽に、ギター、ベース、金管楽器を加えて、洗練されたリズムを奏でる「ムバカンガ」なる音楽もあるらしい。それらがどんな音楽なのかはよく分からないが、船や人、文化が行き交うアフリカ随一の国際都市ヨハネスブルクを舞台に、独自の解釈でジャズを発展させてきたのは確かなようだ。

 アフリカの音楽といえば、フェラ・クティやトニー・アレンのアフロビートが有名で、UK新世代ジャズはもとより、クラブミュージックやロックにも大きな影響を与えてきたが、本作には登場しない。アフロビートはアフリカといってもナイジェリアの原産であり、英国人ドラマーのジンジャー・ベイカーによって紹介され、西洋では人気を博したが、南アフリカでは一般的でないのかも知れない。または、アフロビートは手垢が付きすぎているため、ステレオタイプなアフリカのイメージにならないために意識的に避けられた可能性も大きい。

 本アルバムはUK新世代ジャズの隆盛ぶりを広く世に知らしめるきっかけとなった〈Brownswood〉のコンピレーションアルバム『We Out Here』の南アフリカ版ともいえるが、曲のチョイスはいささか渋めのセレクションとなった。『We Out Here』も、発売当初は地味な印象を受けたから拙速な判断は差し控えたいが、エレクトリックな処理が為されているという表層的な理由からではなく、アフリカらしくない曲が多い気がする。ブラジリアンジャズをアート・リンゼイがプロデュースしたロウレンソ・ヘベッチスの『O Corpo De Dentro』を聴いたときの感覚に近く、躍動感よりも洗練されたストイシズムが耳に残る作品に仕上がっている。①「Ke Nako」はミニマルなパーカッションにアフリカの乾いた風を感じることができるが。②「Umthandazo Wmagenge」となると、どうだろう。カンタベリージャズか、ジャーマンロックのような深遠さに満ちている。③「All Ok」のボゴーダーはハービー・ハンコックを思わせもするし、一転して④「What History」ではインダストリアルなパーカッションが炸裂したかと思えば、シューゲイザーさながらにノイジーなギターが空間を埋め尽くしていく。ニーナ・シモンばりのボーカルがスモーキーな⑤「Umdali」、サックスとトランペットソロがクールで都会的な⑥「Prelude to Writing Together」、エレピと女性ピアノが醸し出すメロウネスが心地良いw⑦「Dikeledi」、シタールを導入しながらも南国的リズムとボーカルを採用した無国籍ジャズの⑧「Abaphezulu」など、多彩なジャズ作品のショーケースとなっているのだが、ほぼ全曲に共通するのが歌やコーラスが入っていること。それこそが南アフリカジャズの核心部分なのかも知れない。

 個人的にはジ・アンセスターズの⑥「Prelude to Writing Together」が気に入ったが、シャバカ・ハッチングスやサンズ・オブ・ケメットのような埃っぽさをこのアルバムに期待すると裏切られるだろう。

 

ときのかんかくにちかく、

「DISCO」 Kylie Minogue

 

 

  別段、カイリー・ミノーグを追っかけてきたわけではないが、カイリー・ミノーグの最新作のタイトルが『DISCO』だと知るやいなや、そのような企画に期待はずれが多いことは分かっているはずなのに、胸騒ぎを覚え、絶対に聴かなければならないと思ってしまうのは筆者だけだろうか。何故に、今、ディスコなのか?そこには、現実に対する2つのアンチテーゼが込められていると思う。

 まず、密を恐れ萎縮してしまっているコロナ禍の社会に、最もそぐわないであろうディスコという言葉をあえてぶつけることで、世の中に〈希望〉と〈覚醒〉をもたらしたいという思い。2つめが、薄暗い空間で踊る不健康なクラブやEDMのようにフェスで踊るお子様文化の台頭に敗北し、既にオワコンとなってしまっているディスコの多幸感をミラーボールの煌めきと共に復活させたいという思い。いずれにしても、懐古趣味、反動的の誹りはまぬがれ得ないのだろうけど、重苦しい時代にファンタジーとしてのディスコを夢想するのは悪いことではないだろう。アルバムジャケットがオリビア・ニュートンジョンのミュージカル映画サントラ「ザナドゥ」のジャケットのように見えるのも、〈ザナドゥ〉が意味するところの〈桃源郷〉がそこにあるからだ。(六本木にザナドゥと同じ綴りで発音違いのキサナドゥというディスコがあったのは79年〜80年代のこと)。ダイアナ・ロスやビージーズ、シック、アバからすれば第2世代以降になるとはいえ、もはやレジェンドといっても過言ではないカイリー・ミノーグのディスコへの帰還をひとまず歓迎したい。

 アルバムは流石に21世紀の作品だけあって現代のプロダクションが施されており、古臭さは感じられない。90年代後半に一世を風靡したダフト・パンクやボブ・サンンクラーによるフレンチ・ハウスのように4つ打ちが採り入れられるなど、基調となるビートが単純なディスコビートではなくハウス以降のサウンドとなっていたり、00年代のディスコダブからの影響を感じさせる部分が存在したり、EDMにも多いアコースティックギターから始まるナンバーがあったり、さまざまなサウンドを70〜80年代ディスコのムードでコーティングしたような内容になっている。マドンナのようにギミックに走ることもないから、物足りない人もいるかも知れないが、一曲一曲は良く練られており、ストリングスのアレンジなどツボも押さえられているところがさすがだ。マハラジャやキング&クィーンの世代に届くかは分からないけど、普通のポップスアルバムとしても完成度は高いと思う。

 3曲目の「リアル・グルーヴ」を聴くと、「恋するフォーチュンクッキー」の柳の下のどじょうを狙ったAKB48の「ハロウィンナイト」(2015年)を思い出すのは筆者だけだろうか?ひょっとしたらサウンドプロダクトは「ハロウィンナイト」の方が勝っているかも知れないが、PVを比較しても目指していた方向は『DISCO』と恐らく同じだ。