舞台女優のアートな備忘録【本★映画★ミュージアム】

読んだ本とか、観た展覧会とか、すぐ忘れちゃうんで書き留めます。ネタバレ注意!(ラストシーンって特に忘れちゃわない?)


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原作ファンが観た『どろろ』

 知名度では『鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』に劣りますが、コアな手塚治虫ファンには最も人気がある未完の名作『どろろ』。
 その反面、ファンには「映像化は不可能では?」と長らく語られてきた『どろろ』の実写版です。
(映像化が不可能といわれた理由は、百鬼丸や魔物の実写化の困難さに加え、差別問題にあまりにも抵触するテーマであるからだと言われています。)

 それだけに、「映画もなかなかよかったけど、ひとこと言いたいのよっ」って熱烈ファンは多いのではないでしょうか。
 そんなファンのひとりとして、私が感じた「ここ、もーちょっと!」を書かせていただきます。
 誤解のないように申しますと、映画はエンタメとしてかなりいい出来だと評価してますよー♪

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【原作ファンの「ここ、もーちょっと!」】


①どろろのキャスティング
 原作ファンが映画を見るか否かは、きっとここが最大の分かれ目です★ 
 どろろは女の子ですが、絶対に男の子ビジュアルでいなきゃ! かといって、子役には荷が重い。柴崎コウのキャスティングは「考えたなぁ」と。やっぱり作品的に最初から女をカミングアウトしてましたが、実写ならば妥当な選択でしょう。
 柴崎と妻夫木聡なら、らぶらぶラスト?との下馬評でしたが、百鬼丸との距離感を最後まで保てたのは、原作ファンもほっとしたのではないでしょうか。

②鯖目の奥方
 魔物のなかでも百鬼丸の最大の敵。・・・なんですが、あれれ、映画ではあっさりとやられちゃった。一本の映画のなかで、醍醐景光を際立たせるにはこの程度の露出で抑えるしかないのですが、とても残念。売れっ子の土屋アンナを配しただけに、期待してたのですが。
 鯖目と奥方の関係は「人間と非人間の境を超えられるか」というテーマのうえで、主役のふたりの対極を描いているのですが、それは映画ではスルーでしたね。鯖目が生き残ることで際立つものがあるんですけどねー。しょうがないですよね。
 
③醍醐景光が死んじゃったぁぁ。
 映画としてひとつの完成形ではあるのですが、やや勧善懲悪の感があったかと。な・な・なんと、多宝丸もリセット!? オーラスのどろろの涙を生かす伏線として必要ってわけですかね?
 原作では百鬼丸が多宝丸を殺し、醍醐景光と母は生き残って去るのです。母の「私たちに百鬼丸を恨む権利はない」という言葉が印象的です。
 生きるべき命が散り、死ぬべき命が生き残る。生き恥をさらして与えられる罰もある。「非情だからこそ命は重い」という手塚作品の普遍のテーマを見たかったかな。そしたら、エンタメの枠を超えて、名作映画にもなれたんじゃないかなぁ。

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『それでもボクはやってない』と『県庁の星』の相似点

 どの映画評にも書かれていますが、これは怖い映画ですね。
 「痴漢犯罪の場合、容疑者は確実に有罪になる」という構造がつまびらかに描かれています。
 当事者にとっては日常的にごくありうる軽微な過失。積み重なれば、なぜか転がるように無罪の人間も有罪になってしまう。
 本人の過失、被害者の過失、駅事務所の過失、警察の過失、検察の過失、裁判所の過失・・・。
 ハインリッヒの法則ですね。自分はいつでも有罪判決を受けるハメになりうるんだと言うヒヤリハットな恐怖です。
 だからこそ、当事者の誰もが罪の意識を持てないというのもまた怖い。自分がどの立場になったとしても、きっと自分を正義としか思えない。したがって、この不当な現実は容易に変わらない。
 フィクションですが、脚本と俳優を使ったドキュメンタリーのような印象を受ける作品です。


 この映画はいくつものメッセージをはらんでいますが、「裁判(官)は決して公平な判決を下すわけではない」というのも、その最も重要なメッセージのひとつです。
 冒頭の一文「10人の犯罪者を逃しても1人の無辜(無実の罪)をも罰してはならない。」を見たときは、「あー『疑わしきは罰せず』ね。」と暢気なものでしたが、劇終後には、「白鳥事件は勇気ある判決だったんだなあ。それで名判決文として語り継がれているわけか」と、この言葉の新たな一面を知りました。(もちろん全員を正当に裁くべきですけどもね。)
 裁判は有機的なものなんですな~。アメリカの司法取引に負けず劣らず、日本の司法も、血が通った人間の行為なのだと初めて知った気分です。

 実は、周防監督の制作動機を聞くと、鑑賞前は正直「司法叩きかなぁ」などという印象があったのですよね。。。
 そもそも、司法当局、とくに裁判所の仕組みは、一般的にあまり知られていませんよね。だから、良くも悪くも神格化、あるいは悪い誤解が流布してしまうものです。
 知られざる業界内実映画という点で、『県庁の星』も私としては(行政の禄を頂戴している立場なので)ヒットだったのですが、あちらの公開時、行政の内実を突いている点・誇張している点は業界での話題沸騰でした。
 それでも、おおむね公正かつ好意的に受け取られていましたね。それというのも、公務はとかく内実が一般に知られていない分、誤解されやすく、容易にバッシングの的になりやすいという弊害があります。
 業界に注目し、その実態を周知してくれた『県庁の星』は、事実誇張はあれど、行政の最大の悩みからすると感謝状ものだったわけです。
 立法機関・行政機関・司法機関のうち、司法機関は最後の象牙の塔と言えるかもしれません。『それでも僕はやってない』がこれだけ人気の高い映画となったということは、業界内実への注目度は今後高まっていくのでしょう。
 これだけ緻密な取材と司法制度への検証が行われていれば、当局も描写に納得する部分も多いのではないでしょうか。司法界でどのように受け入れられているのか、非常に気になるところです。
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項羽を、なぜ項羽と呼ぶのか?

前回、中国の方たちが「諸葛孔明」を「諸葛亮」と呼ぶのが一般的である理由は、歴史書は「姓+名(=諸葛亮)」で書くのが正当だからだと仮説を立てました。
 すると今度は、「では、項羽をなぜ項羽と呼ぶのか?」と再質問されました。

 項羽は、姓=項、名=籍、字=羽。

 だから、前回の理屈だと、「中国の方も「項籍」と呼ぶはずなのに、「項羽」と呼んでいるじゃないか?」という逆襲です。
 やるなぁ~、マジで★ 想定外ですよ~。一本取られましたよ~。


 前回はがんばって史料をひっぱってきましたが、今回は体力が尽きました。
 史料は正史(『史記』『漢書』)だけです。ここからざっくり仮説じゃ~!
 (こんな姿勢だから、いつまでたっても史学研究室に戻してもらえない。。。)

 さて、中国の歴史書の決まりごとについてちょっとご説明させていただくと。
 ひとつの王朝Aが滅び、次の王朝Bが立つ。そのとき、次の王朝であるBには、前の王朝Aの歴史書=正史をつくる義務が生じます。これは、天命に従い、BがAを正統に継いだという証明です。
 そして、そのA王朝の正統な治世を著述するにあたり、その章立てにはルールがあります。

 皇帝に関する著述は「本紀」
 【例:「秦始皇本紀」・・・始皇帝、「高祖本紀」「高帝紀」・・・劉邦】
 それ以外の人物に関する著述は「列伝」
【「淮陰侯列伝」「韓彭英盧呉伝」・・・韓信他】

 さて、司馬遷が著した『史記』は最初に成立した正史と位置づけられています。
 このうちの本紀は12章あり、伝説上の帝である「五帝本紀」から漢の武帝である「孝武本紀」まであります。
 このうちの7つめが「項羽本紀」なのです。列伝ではありません。つまり、司馬遷は項羽を単なる楚王、一国の王ではなく、中国の正統な君主と数えているわけです。
(ちなみに、その前後は始皇帝と高祖(劉邦)です♪)
 これは、司馬遷が項羽びいきであったからというわけではありません。むしろ、項羽本紀は項羽の人となり・政治には批判的なのです。
 にも関わらず、項羽は中国の正統な君主であると位置づけられているのです。


 そこで注目していただきたいのが、「項羽本紀」の章題です。
 他の本紀の皇帝には主に諡号(皇帝が死後に与えられる最上級の名)を用います。しかし、項羽は正式な皇帝として即位したわけでありませんので、諡号を持ちません。
 そこで、司馬遷は、君主に対する目下の者からの礼儀として、「姓+字(成人時に名乗る名)」を用いたのだと考えられます。
(「姓+名(幼名)」は目上からしか呼べず、同僚・目下は「姓+字」で呼ぶ。前回記事参照 ※)

 
 中国の正史・二十四史の第一『史記』。
 歴史・伝記ものとして中国人に深く愛されている『史記』のうちでも、『項羽本紀』は名文として深く好まれてきました。
 中国を統一しながらも非業の死を遂げる悲運の帝として、その名とともに、中国人に愛され続けているのです。
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