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写真家yukko*のVIVIDにゅ~す!

写真家でファッションコンサルタントのyukko*です。

わたしは、人は幸せでいるために生きていると思っています。
お洋服や写真を通じて自分を見つけ、あなたの幸せをVIVID(イキイキと鮮やかに)に生きようぜ♪

いたい。

 

いたたたた・・・

 

大晦日から新年にかけ、腹痛で寝込みまして。まるまる3日。

こんな年の瀬に・・・と思いながら

寝込むしかチョイスはなくて。

 

脂汗をかきながら痛みに耐えていて、ふと

「私の人生ももう終わりなのか・・・?」と

いろんな思いが湧いてきました。

 

よく考えれば、

少し早いけど病気になってもおかしくない歳なんだよなあ・・・と。

 

ずーっと

目の前のことをとにかくがむしゃらにやってきたけれど

振り返ってみれば

 

両親はもういないし

実家ももうないし

生まれ育ったあたりはもう馴染みのお店もなければ角の八百屋さんだって跡形もない。

知った人もいない

近所のよくしてくれたおばさんは認知になってしまったと噂に聞いた。

 

そういえば・・・

遡って人生を振り返ってみるに

学校時代に中間テストが終われば期末、年末テストで

休まる暇ないわー、と思っているうちに

 

大学に入って、

ちょっとは青春ぽいことを経験したりもしたけれど

そしてイギリスに留学して

あたりをキョロキョロしながら

ついていけない勉強をしているうちに

縁あって社会人になって。

 

これまたがむしゃらに目の前にあることをやってきて

時を過ごしているうちに

人生で初めて挫折というものを経験して

鬱になって休職して

 

そこからやっと立ち上がって

縁あって結婚して関西に来て

 

写真家になって

ファッションコンサルタントになって

ありがたいことに求めてくださる方がいて

仕事をして。

 

ザザザーっと振り返ってみても

うん、そうだな、ちゃんと年数分はちゃんと生きているよ。

 

だけど、自分が自分のことに

一生懸命になっているうちに

 

時代も環境も変わっていっていた。

 

それこそ

自分の年代がすごいと思うのは、

ちゃんと大人になってから

 

携帯電話ができて

インターネットができて

ブログができて

SNSができて

その変遷を眺めてきて。

 

ふと気づいたら

それらに乗り遅れれば

世間に置いていかれることになっていて

 

気づいたら

自分の好きだった年上の俳優さんが

亡くなったニュースがいっぱい流れてきて

 

友人が亡くなったことを知らされ

年賀状には恩師の娘さんから

恩師が亡くなったことが綴られ

 

ちょっと待って

ちょっと待って

 

時間ってこんなに経っていたの?!

 

呆然とする。

 

もうあの人にも会えない。

あそこにいってもあのお店もない。

 

そうか・・・

 

周りが時とともに変わることばかり見えていたけど、

はたと自分の人生を思えば

 

いや、これ、自分だって同じだけ時間は過ぎていて、

そうか、自分もいつか、そんな遠くないうちに死んじゃうんだ!

 

ぎくりとしたわけです。

 

そんな中、

自分の考えていることを少しずつ

書いておきたくなり、

 

間が開きながらも続けているこのブログに

綴ってみようと思います。

 

 

 

ずっと思ってることがあって。

 

どうも私は、いつか自分が死ぬことに納得がいっていない。

 

いやいや、それは馬鹿げた話だというのはわかる。

だって、この世に生きる全員、致死率100パーセントで

それを免れる人なんていないんだから。

 

だけどどこかで、

 

「え、この私の体で生きるこの人生、終わる時くるの?!え!?」

 

みたいなところがあって。

 

なんというか、

死ぬ心の準備が全然できていないと言いますか。

 

私はいろんなことを

自分の体を使って生きている間に人体実験してると思ってるんだけど

 

まあ、懲りずに次から次へと

あれ、なるほど、これはこういうことなのか、じゃ次はどうなるんだ、

っていうのがやってきていて、

 

これが死ぬまでにどっかで

「あ、はいはい、もうわかった、気が済んだ、十分です」

 

と、なれるものなのか・・・?!

 

というのが甚だ疑問なのだ。

 

私はずーっと

 

「なんのために生きるの?」

「本当の幸せってなんなの?」

 

っていうことを考えてきていて。

 

そしてそれは、親を送ったり

自分が50代になって自分の残り時間を考え始めたことで

よりその色が強くなってきていて。

 

どんなにお金を稼いでも

どれだけ有名になっても

 

死んじゃうときは何も持っていけないから

だったら、生きている間になにやってもそれって意味ってあるのか?!

 

そもそも生きる時間は

多少長い短いはあっても最初から限定されて

この世にやってきているわけなんだよね・・・

 

と、出口のない思考をぐるぐるとしてきたわけです。

 

でね。

 

40代、ずっと仕事で突っ走ってきて、

もっと、もっと、とやっていって

 

時々体が疲れて動けなくなって・・・

 

というのを繰り返してきて、

 

50代になってスロウダウンして

 

最近はもうスロウダウンどころか

ストップしちゃっていて。

 

でもですね、

 

ストップしてみたことで

動いている時には見えなかったことがたくさん見えてきていて。

 

動続けていた頃はね、

常に「どこか」へ向かって走っていた。

 

自分の見ている場所はその「いつか辿り着きたい『どこか』」。

 

だから、平たい話、「いま」にはいなくて

その未来の「こうなるといいな」という地点ばかりを見て

 

(例えば年収いくら、だとか

SNSのフォロワーがどれくらい、とかね。)

 

「今」という時を、

そこに続くために費やす消費財、くらいに軽視していたんじゃないかなと思う。

 

だからペースが遅いとイライラもして

想像通りいかないと落ち込んだり、なんていうとこも通って。

 

なんかある時ね。

 

いつか死ぬ準備はしなくちゃいけないんだよな、って思った時

 

「あれ、いつか死んでしまうのなら。

 

死んでしまった時に

 

稼いだお金の額や

どれだけ人に認められてたか

何をやれたか

 

なんてのは全然イミなくなるんか。

 

じゃあ、未来になにを思い描いても

そこに向かうことばっかをいま考えてるのって、

 

それこそ、それ、どうなの?」

 

って思った。

 

全員が多少の長い短いはあったとしても

限りある時間しか持っていなくて

 

なにを成し遂げたとしても死ぬとチャラになってしまうのなら

未来ばかりを見ている意味ってあるのか?

 

って思った時、

 

じゃあどこを見るのかな、ってなったの。

 

しばらくは答えが分からなくて

ただただ休んでなにかが見えてくるのを待って

 

ずーっと毎日ダラダラしていたんだけど

 

最近になってやっと

 

丁寧に淹れた一杯のお茶がすごく美味しいこととか

 

雨が降った時に「今日は雨だねえ」と言える相手がそこにいるとか

 

そういうことが

ものすごく価値があることなんじゃないか?

 

って思い始めている。

(それは人によって違うと思うけど)

 

そうなるともう

何をやっていても何を感じていても

 

その瞬間瞬間に感じていること、感じられることが宝なんじゃないかな、と

思うようになってきている自分を感じているところ。

 

いまじゃない場所、「未来」ばかりを見ていたときは、

 

徒歩7ー8分のスーパーマーケットに行くのにも

歩くのがもどかしくて自転車でさっといきたい、

 

とか

 

前をもたもた歩いている人がいるとイライラする、

 

みたいなところがあったんだけど、

 

(それはまさに、買い物リストにあるものを手にする「未来」のために

いまという時間を「使う」という考えかたなんだよね)

 

でも

 

「やらなきゃいけないこと」と思っていたことを

「やらなきゃいけな」くなくしてみたとき

 

なんか全然焦らなくなった。

 

(やらなきゃいけない、っていう考えも

言ってみれば「未来のどこかの地点」を見ているわけだからね)

 

そうして、焦らなくなった自分はどんなかというと

 

一歩一歩歩いている自分の体の重心てどこにあるのかなとか

足をどうやって使っているのかなとか

 

いま呼吸って鼻でしているかなとか

 

いまここにいる自分、を感じることが多くなった。

 

そんで、それが

けっこう快適なんじゃない?って思ったんですよねー。

 

だけど、これは私がこれまで

さんざん突っ走って

 

いろんなことをやってみて実際に時間を費やしてみて

やってみてたくさん、気が済んだこともあったから

 

(海外に行っていろんな体験するとか

写真展やってみるとか

ライブやってみるとか

ひりつく欲望を満たして服を買い続けるとか)

 

そこを通ったからこそ

いまここにいられるんだな、と思う。

 

やっと、「いま」に帰ってこられた気分。

 

長年自分が自分に投げかけ続けた問いのヒントが

集まって形を作ってきているような感じ。

 

わーっと書いたけど、

ここまで、自分なりに結構時間を費やしたと思う。

 

ヒントになるような本も読んだ。

 

もし、このブログをみておられる方で

私と同じようなことを考えたことがあるかたは、

 

この年末のまとまったお休みに

色々感じてみるのもいいかもしれないですね。

 

今年私が読んでよかった本と見てよかった映画、書いておきます。

なにか得られるものはあるんじゃないかなと思うので興味ある方はぜひ。

 

 

「限りある時間の使い方」オリバー・バークマン/高橋璃子訳

 

「エンド・オブ・ライフ」佐々 涼子

 

「一汁一菜でよいという提案」土井 善晴

 

「屋根裏のチェリー」吉田 篤弘

 

映画「土を喰らう十二ヶ月」

 

映画「ミセス・ハリス、パリへ行く」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前田真三さんという有名な写真家の方がいます。

 

彼は、美瑛や富良野の美しい丘の写真で有名なのですが、

(ググると出てきます)

 

現地に行くと、

たくさんのカメラを持った人が

同じアングルでその写真を撮ろうと構えています。

 

私が住んでいたニセコでも

同じような「写真の名所」がいくつかあり、

「その有名な写真」と同じアングルで撮れる地点を探して

同じ場所にごしゃっと人が固まっていたのを覚えています。

 

私も最初のうちは

有名な写真と同じスポットに行ったりもしてみました。

 

だけど、

結局うまく撮れたとしても、

すでにそれを一番美しく撮れる人がその写真を撮っているんだから

私がそれを撮りに行かなくてもいいんじゃないかな、と思って

すぐにやめてしまいました。

 

たしかにその風景は美しいけれど、

わたしにとっては

自分の目でそれを見るだけで充分。

 

同じようなことが世間には溢れていると思います。

 

若い世代の女の子のメイクを見ると、

なんとなく同じような顔に仕上がっていて

それを自撮りで撮った顔もなんだか一律な感じで似ている。

目を大きく、アゴを小さく、みたいな。

 

その写真に写ったそのひとは可愛くなくはないけれど、

そのひと本来のかわいさというものを塗り固めてしまって

その上に「世間で可愛いとされているもの」をあらためて描き直しているような。

 

なにか、「美しさの基準」がまるでひとつしかないかのように

皆が感じているのかなあ、と思ってしまいます。

 

同じことって人生にも言えると思うんです。

 

有名になる

お金を稼ぐ

かっこいい(美しい)配偶者と結婚する

 

なんていうか、「こういうのがいい」というものが

決まってしまっている気がします。

 

多くの人がそう思ってしまっているから

そこから出ることも難しい。

 

写真の話に戻りますが、

私が写真教室をしていた時に

来てくださる方に聞き続けていたことがあります。

 

「それで、あなたはこの風景の中にいて、なにに心動かされたの?」

 

という質問です。

 

「あなた」が「そこ」にいることは

本当に運命的なことだと思います。

 

たまたまそこに生まれて

たまたまその人と会って

たまたま出かけた場所

 

がそこだったかもしれないけれど

 

あなたという一人しかいない人間が

そこにいる瞬間というのは

ひとつひとつ、奇跡のようなものだと思うのです。

 

ここにいて、

私はなにと出会って

どう感じているんだろう?

 

そちらに目を向けることをしていると、

だんだん見えてくるものがあります。

 

あなたがあなたの目を持って耳を持って体を持って

その場所にいることは

とても貴重な、唯一無二の瞬間です。

 

そこで感じることがひとつひとつ宝物なんです。

 

私がいま、心で感じることを

もっともっと感じ取ろうとしているのはそのためです。

 

一人一人違う中身をもらって生まれてきている。

 

だからこそ、

その自分にしかない心で感じた時、

 

自分の周りのものは自分の目にどう映っているんだろう。

 

一人一人が違うふうに造られている以上、それを感じて生きてみることに

意味があるはずです。

 

それでなければ一人一人の中身が違う意味がないですもの。

 

オムニバスのドラマのように

主人公一人一人がそれぞれ主役で

お互いの目にお互いを映し合っている。

 

でもそれは

一人一人が違うから面白いはずです。

 

誰かが作った理想になろうとするのでなく

自分の目にはなにが映って

自分の耳になにが聞こえて

自分の心はなにを感じているのか

 

それをもっと意識して

能動的に感じてみる

 

そんなふうに生きた時、

人生の本当の幸せ、って

見えてくるんじゃないかなと感じています。