死ぬ準備を考えたら見えてきたもの | 写真家yukko*のVIVIDにゅ~す!

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写真家でファッションコンサルタントのyukko*です。

わたしは、人は幸せでいるために生きていると思っています。
お洋服や写真を通じて自分を見つけ、あなたの幸せをVIVID(イキイキと鮮やかに)に生きようぜ♪

ずっと思ってることがあって。

 

どうも私は、いつか自分が死ぬことに納得がいっていない。

 

いやいや、それは馬鹿げた話だというのはわかる。

だって、この世に生きる全員、致死率100パーセントで

それを免れる人なんていないんだから。

 

だけどどこかで、

 

「え、この私の体で生きるこの人生、終わる時くるの?!え!?」

 

みたいなところがあって。

 

なんというか、

死ぬ心の準備が全然できていないと言いますか。

 

私はいろんなことを

自分の体を使って生きている間に人体実験してると思ってるんだけど

 

まあ、懲りずに次から次へと

あれ、なるほど、これはこういうことなのか、じゃ次はどうなるんだ、

っていうのがやってきていて、

 

これが死ぬまでにどっかで

「あ、はいはい、もうわかった、気が済んだ、十分です」

 

と、なれるものなのか・・・?!

 

というのが甚だ疑問なのだ。

 

私はずーっと

 

「なんのために生きるの?」

「本当の幸せってなんなの?」

 

っていうことを考えてきていて。

 

そしてそれは、親を送ったり

自分が50代になって自分の残り時間を考え始めたことで

よりその色が強くなってきていて。

 

どんなにお金を稼いでも

どれだけ有名になっても

 

死んじゃうときは何も持っていけないから

だったら、生きている間になにやってもそれって意味ってあるのか?!

 

そもそも生きる時間は

多少長い短いはあっても最初から限定されて

この世にやってきているわけなんだよね・・・

 

と、出口のない思考をぐるぐるとしてきたわけです。

 

でね。

 

40代、ずっと仕事で突っ走ってきて、

もっと、もっと、とやっていって

 

時々体が疲れて動けなくなって・・・

 

というのを繰り返してきて、

 

50代になってスロウダウンして

 

最近はもうスロウダウンどころか

ストップしちゃっていて。

 

でもですね、

 

ストップしてみたことで

動いている時には見えなかったことがたくさん見えてきていて。

 

動続けていた頃はね、

常に「どこか」へ向かって走っていた。

 

自分の見ている場所はその「いつか辿り着きたい『どこか』」。

 

だから、平たい話、「いま」にはいなくて

その未来の「こうなるといいな」という地点ばかりを見て

 

(例えば年収いくら、だとか

SNSのフォロワーがどれくらい、とかね。)

 

「今」という時を、

そこに続くために費やす消費財、くらいに軽視していたんじゃないかなと思う。

 

だからペースが遅いとイライラもして

想像通りいかないと落ち込んだり、なんていうとこも通って。

 

なんかある時ね。

 

いつか死ぬ準備はしなくちゃいけないんだよな、って思った時

 

「あれ、いつか死んでしまうのなら。

 

死んでしまった時に

 

稼いだお金の額や

どれだけ人に認められてたか

何をやれたか

 

なんてのは全然イミなくなるんか。

 

じゃあ、未来になにを思い描いても

そこに向かうことばっかをいま考えてるのって、

 

それこそ、それ、どうなの?」

 

って思った。

 

全員が多少の長い短いはあったとしても

限りある時間しか持っていなくて

 

なにを成し遂げたとしても死ぬとチャラになってしまうのなら

未来ばかりを見ている意味ってあるのか?

 

って思った時、

 

じゃあどこを見るのかな、ってなったの。

 

しばらくは答えが分からなくて

ただただ休んでなにかが見えてくるのを待って

 

ずーっと毎日ダラダラしていたんだけど

 

最近になってやっと

 

丁寧に淹れた一杯のお茶がすごく美味しいこととか

 

雨が降った時に「今日は雨だねえ」と言える相手がそこにいるとか

 

そういうことが

ものすごく価値があることなんじゃないか?

 

って思い始めている。

(それは人によって違うと思うけど)

 

そうなるともう

何をやっていても何を感じていても

 

その瞬間瞬間に感じていること、感じられることが宝なんじゃないかな、と

思うようになってきている自分を感じているところ。

 

いまじゃない場所、「未来」ばかりを見ていたときは、

 

徒歩7ー8分のスーパーマーケットに行くのにも

歩くのがもどかしくて自転車でさっといきたい、

 

とか

 

前をもたもた歩いている人がいるとイライラする、

 

みたいなところがあったんだけど、

 

(それはまさに、買い物リストにあるものを手にする「未来」のために

いまという時間を「使う」という考えかたなんだよね)

 

でも

 

「やらなきゃいけないこと」と思っていたことを

「やらなきゃいけな」くなくしてみたとき

 

なんか全然焦らなくなった。

 

(やらなきゃいけない、っていう考えも

言ってみれば「未来のどこかの地点」を見ているわけだからね)

 

そうして、焦らなくなった自分はどんなかというと

 

一歩一歩歩いている自分の体の重心てどこにあるのかなとか

足をどうやって使っているのかなとか

 

いま呼吸って鼻でしているかなとか

 

いまここにいる自分、を感じることが多くなった。

 

そんで、それが

けっこう快適なんじゃない?って思ったんですよねー。

 

だけど、これは私がこれまで

さんざん突っ走って

 

いろんなことをやってみて実際に時間を費やしてみて

やってみてたくさん、気が済んだこともあったから

 

(海外に行っていろんな体験するとか

写真展やってみるとか

ライブやってみるとか

ひりつく欲望を満たして服を買い続けるとか)

 

そこを通ったからこそ

いまここにいられるんだな、と思う。

 

やっと、「いま」に帰ってこられた気分。

 

長年自分が自分に投げかけ続けた問いのヒントが

集まって形を作ってきているような感じ。

 

わーっと書いたけど、

ここまで、自分なりに結構時間を費やしたと思う。

 

ヒントになるような本も読んだ。

 

もし、このブログをみておられる方で

私と同じようなことを考えたことがあるかたは、

 

この年末のまとまったお休みに

色々感じてみるのもいいかもしれないですね。

 

今年私が読んでよかった本と見てよかった映画、書いておきます。

なにか得られるものはあるんじゃないかなと思うので興味ある方はぜひ。

 

 

「限りある時間の使い方」オリバー・バークマン/高橋璃子訳

 

「エンド・オブ・ライフ」佐々 涼子

 

「一汁一菜でよいという提案」土井 善晴

 

「屋根裏のチェリー」吉田 篤弘

 

映画「土を喰らう十二ヶ月」

 

映画「ミセス・ハリス、パリへ行く」