竹千代君像・今川義元公像(JR静岡駅北口) 8:27
令和6年5月10日~14日、駿河を旅した。
東京駅7:03〈ひかり501号〉8:02静岡駅⇒宿へ荷物を預け、出発。
北口バス乗り場8:35⇒9:07瀬名リンク西奈前バス停〈徒歩〉
光鏡院門前・登山口(右) 9:13
山門
今川陸奥守源一秀公供養塔
光鏡院は、今川陸奥守一秀の菩提寺
asahi-net.or.jp/~jh4y-okd/tatehuda/tatehuda.htm
梶原一族いくさの跡
瀬名古墳群
瀬名古墳群は、梶原山(牛谷山)の尾根(標高約50~140m)に築かれた古墳7基
(前方後円墳・円墳・方墳)で構成。古墳時代中期・後期・末期(5~7世紀)、
この地域(西奈地区)を治めた豪族が埋葬された首長の墓と考えられています。
とのことだが、地元の方のお話では、
調査された古墳の跡は常葉大学 静岡瀬名キャンパスになっているとか・・
9:47 梶原山ハイキングコース上り口(クマ出没注意)
距離は僅かだが、結構厳しい所も・・
10:00 四頭三角点確認
10:14 梶原山第二展望台 フジバカマロード
鎌倉時代の武将・梶原景時は、治承4年(1180)、大庭景親と共に源頼朝と石橋山で戦ったが、密かに頼朝に通じて危急を救い、のち頼朝に仕え信任され、壇ノ浦の合戦では義経と共に平家を倒し、鎌倉幕府の要職にありました。正治元年(1199)頼朝が死亡し、頼家が2代将軍となると、景時は御家人と対立、失脚。正治2年、西の所領である京都に向かった。幕府方は、各地の豪族に討伐を指令し、一行が清見関にさしかかった時、駿河の入江氏・吉川氏・渋川氏・船越氏・飯田氏・矢部氏等と合戦となり、梶原一族は、奮戦したが、景時らは裏山に逃れる。梶原山山頂近くの岩間から清水が滴り出ていたので景時父子は、その水で鬢のほつれをなおして梶原山頂に上り、景時は、「もののふのかくごもかかる時にこそ 心の知らぬ名のみをしけれ」の辞世の歌をしたためて自刃した。今でも、そこを「鬢洗い水」あるいは「鬢水」と言っています。
馬上後ろ向きに自決の山に登る
梶原景時たちは戦いつづけて大内、
鳥坂と過ぎ、さらに狐が﨑(静岡市曲金
付近)に進んだが、すでに後につづく味
方の姿は無く、今来た道を引き返してき
た。この"夕日無し山"(大内側から見
た梶原山の名)へは、馬の足跡をくらま
すために、馬を後向きにして登ったとい
う話しが伝えられている。
静岡市曲金には「合戦川」、瀬名川には
「矢討たむ橋」の名が残こる。
梶原山の伝承(三)
梶 原 会
梶原景時終焉の地碑 10:17
梶原山(標高279m)
富士山が見えた
梶原山から見渡す景色
ハイキングコースには少し厳しい個所もあったので、車の道を下りる事にした。
11:25 瀬名リンク西奈(トイレ休憩)
瀬名リンク西奈前バス停11:41〈バス〉11:52上土バス停(乗換)
12:15〈バス〉12:27矢崎バス停〈徒歩〉12:35 梶原堂
梶原景時ゆかりの地
梶原景時の遺跡
供養塔
梶原堂
正治2年(1200)梶原一族がこの地で滅びた後、牛ヶ谷(梶原山)の山上に小堂を建て、一族の霊を祀った。その百数十年後、堂宇を山麓に移し一寺を建立した。この寺は梶原景時の法名「龍泉院殿梶勝原公大居士」に因んで梶原山龍泉寺と名づけられた。明治4年(1871)、寺は荒廃により廃寺となったが、梶原堂と墳墓はわずかに残され、明治25年(1892)付近の有志により堂宇が修築された。
現在、堂内には梶原景時と源頼朝の位牌、如意輪観音像、毘沙門天像が祀られ、堂の脇には梶原一族を供養する五輪塔数基がある。梶原堂は市の文化財に指定されている。
堂内
つづく