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標記のことについて、聖書からメッセージをお伝えさせて頂きます。
旧約聖書のイザヤ書第6章から
ウジヤ王が死んだ年に、私は高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ6つの翼があり、おのおのその2つで顔をおおい、2つで両足をおおい、2つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(イザヤ書第6章1~5節)
ウジヤ王が死んだ年(紀元前740年頃)にイザヤは預言者になる召命を受けました。イザヤはその時20歳で彼は非常に若いときに預言者として立てられました。
セラフィムは天使よりもはるかに位の高い霊的被造物です。彼らはもっぱら神を賛美する働きに従事しています。神はセラフィムをその働きのために創造されたのです。彼らは3回「聖なる」を繰り返していました。それほど、神は聖であられるという意味です。聖霊は、ヨハネを通して、イザヤが見た神の御姿は、受肉前の主イエスの御姿であると語っています。「イザヤは彼(イエス)の栄光を見たので、これらのことを語ったのであり、彼(イエス)について語ったのである。」(ヨハネの福音書第12章41節)
これは非常に驚くべき真理です。主イエスは処女マリヤを通して人間としてお生まれになり、人間の肉体をお取りになりました。それゆえ主イエスは人間性と神性の両方を持っておられました。主イエスは人間としては、私たちと全く同じ、疲れ
、また眠たくなる肉体を持たれましたが、同時に全知全能の神であられたのです。
イザヤは聖なる神の御前に立たせられ、自分の罪深さを痛感させられました。彼は、神を目で見たので自分は死ぬと思ったのです。ユダヤ人たちは、神を見ることは人間に禁じられている、もし禁を破って人間が神を見たならば、その人は殺されると信じていました。なぜならば、契約の箱の中を見たベテ・シェメシュの人たち5万70人を主が殺されたからであり(旧約聖書第一サムエル記6章19節)、また契約の箱にウザが手を触れただけで主が怒りを発して彼を殺されたからです。(旧約聖書第二サムエル記6章7節)
天にある聖所には香を焚く祭壇といけにえを焼く祭壇があります。そのどちらも主イエスの十字架を意味するものです。十字架の上で主イエスは、全き者として御自身を御父にささげられました。そしてその香の薫は御父を完全に喜ばせました。また主イエスは御自身を完全に傷なく染みなき全焼のいけにえとして十字架の上で御父にささげられました。セラフィムのひとりがイザヤのもとに飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭がありました。セラフィムの一人がどちらの祭壇から燃えさかる炭を取って来たのか分かりませんが、どちらも同じキリストの十字架の型ですので、主イエス・キリストを全き良き薫りとして御父にささげる働きを行った「火」であることには変わりありません。この火は神の聖を表現するものです。
「なぜならば、実に私たちの神は、焼き尽くす火であられるからです。」(新約聖書ヘブル人への手紙第12章29節)
神の御子が人となり、十字架の上でいけにえの子羊として死なれることを必要としたのは神の聖さです。神の聖さが、罪のためのいけにえとなられた御子に「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(新約聖書マタイの福音書第27章46節)と叫ばせたのです。
御子は、このように恐ろしい十字架の死を、御父への全き愛から発した従順をもって死なれました。御父は、この御子の御父の栄光のための御死を永遠の記念としておられます。
すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてからイエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕まえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこでイエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい、今からは決して罪を犯してはなりません。」イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(新約聖書ヨハネの福音書第8章3~12節)
この女性は姦淫の現場で捕らえられていました。恐らく彼女は売春婦であったのでしょう。たとえそうでなくても、非常に淫らな生活をしていた女性であったのでしょう。このような女性を悔い改めに導くことは容易ではありません。もちろん、性的な不道徳の中に落ち込んでしまった男性についても同じことが言えます。
モーセが救いようがないと言った、性根から腐って罪に染まりきった女を、お前はどうやって救うのだ。と律法学者とパリサイ人は主イエスに詰問したかったのです。
主イエスは、彼女を赦してやれとは言われなかった。主イエスは「石を投げよ」と言われました。
神の聖さがそれを言わせました。ここで彼女は自分の罪の結果である死に直面させられました。彼女は死の恐怖にさらされました。罪人に、真実に罪の結果の恐ろしさを自覚させるのは、死という現実と死後のさばきの恐怖です。彼女のような、麻痺して動かなくなった良心を目覚めさせるのは、地獄の恐怖です。そして、罪人が自分の犯した罪の恐ろしさを自覚させられるのは、ゲヘナ(地獄)の炎の熱を感じさせられたときです。
すべての罪人は、聖なる神の臨在の光によって、自分の汚れの恐ろしさと、その結果が何であるかを見せつけられる必要があります。
主イエスが地面に何を書かれたかは明らかにされていません。しかし、彼女がそれまでに聞いたこともない、驚くべきことが書かれたに違いありません。主が地面に書かれたのは、全人類のために、いのちを捨てられた十字架のことではないでしょうか?それは神が、彼女を救うために、御子をこの世に遣わされたこと、そして主イエスこそ、その御子であられること、そして御子を信じる者はすべて救われる、ということであったに違いありません。
彼女は、モーセを通して、彼女のような罪深い女を石打ちにして殺せと命じられたと同じ聖なる神が、彼女の救いのために、ご自分の御子を十字架に付けて、彼女の罪のために死なせてくださることを知りました。
この章に、彼女の信仰の告白のことばは記されていません。しかし、次の主イエスのみことばは、彼女に信仰が与えられたことを、そしてその信仰のゆえに新しいいのちが与えられたことを明らかにしています。「たった今から、もはや罪を犯し続けてはならない。」
主イエスは彼女に、それまでの歩みを続けてはならない、と命じられました。それまで彼女は罪の奴隷として、罪に自分をささげて歩んで来ました。神を神と思わず、己の欲望を神として来ました。そしてその結果は死でした。
しかし悔い改めて、主イエスを救い主として信じ受け入れ、神の子どもとされた以上、それまでの誤った考えをすべて捨て去り、神から与えられた新しいいのちによって歩むべきです。もはや罪の奴隷としてではなく、神の奴隷として、罪の闇路ではなく、いのちの光の中を歩むべきです。彼女が新しいいのちの中を歩むようにと、主イエスは彼女に信仰を与え、新しいいのちを与えてくださったのです。
今日も日本で、世界中で、小さないのちが守られますように!
ひとりとして、一匹として、苦しい思いをすることがありませんように!
最後までご覧いただき、誠にありがとうございました!