完全に歩みが止まった俺ら。
このままじゃダメなのは分かってた。

ムラナカ リョウタです🕺

なーんにも手につかんやった。
でもえっちゃんはそんな風になるのを
望んでいないだろうな?ってのもわかってた。
動かなきゃってみんなが思ってたはず。
もちろん新しいボーカルなんて考えてない。

自然と残ったメンバーでスタジオを再開。
えっちゃんの歌唱パートやコーラスの組み直し
それに伴うホーン隊の編曲など、みんな
何も言わずに7人で出来る"8人組"カタチを
少しづつ作り直していった。





えっちゃんが旅立ってから半年。





ORANGE SHAKES活動再開










ステージにはえっちゃんの写真を置いて
えっちゃんに届くように精一杯楽しんだ。
えっちゃんの両親も見に来てくれた。
俺の両親も見に来てくれた。

えっちゃんと、たくさんの人に囲まれて
活動再開ができた。

この日を機に、メンバーはみんな
えっちゃんの両親を本当の両親の様に慕い
命日には毎年えっちゃんの家へ集まり
毎年同じ話をして笑っていた。

俺は妻との結婚に際し、婚姻届を書く際
えっちゃんのお父さんに証人になってもらった。





せくしーこうへーは
家業の建設会社を継ぎ社長ドラマーに。
各所でドラムを披露する機会があるそうだ。

殿は、その後NO KIDDING1本に専念する為
脱退し、NO KIDDINGのギターおじさんとして
全国のファンから愛されるキャラに。
後任は東京のバンド、納豆キッズのGt./のっち。

MaKKONは2人の子宝に恵まれ
地元の北海道へ帰り雑貨ブランドを立ち上げ。
モデル活動なども行っている。

もっさん。(。まで名前)は、しばらくして、脱退。
SIDE KICKというハードコアバンドのVo.に。
全国で活動しアメリカツアーも行った。
現在は結婚し地元熊本で生活。

ちゃーは脱退後、地元の福岡へ帰り
ハンドメイドアクセサリーのブランドをスタート。
その後、結婚し子宝にも恵まれる。

いでっちは仕事の都合で地元福岡へ。
結婚し子宝にも恵まれる。
若干、消息不明だが、家族旅行で
MaKKONと再会したという話を聞いた。











続きはまた今度🤚



なら、すんまっせん
ご無礼します🦥
誰からの連絡だったかは、もう、覚えてない。

ムラナカ リョウタです🕺

連絡があったのは朝だった
飛び起きて、直ぐにメンバーと合流した。
何がどうなってる。状況が分からない。
どうしたらいい。

「えっちゃんが交通事故で意識不明の重体」

真っ白になった。
震えが止まらなかった。
とりあえずみんなで病院に駆け付けたけど
集中治療室に居るえっちゃんとは面会謝絶。
なんとなく、そんな気はしていた。

"バンドなんてお遊びだ。
いい大人がいつまでも遊んでないで。
いつまでそんな趣味を続けるんだ。"

周りには随分、言われ続けたし
程々、聞き慣れたもんだよ。

でも。
えっちゃんの両親は一切そんな事言わなかった。
けど。
そう思われてると思ってた。
その時、初めてバンドをやっている自分を
蔑んで、悔やんだ。





俺らは俺らが何が出来るかを考えても
仕方なかった。動けなかった。
医療の力とえっちゃんの力に望みを持つしか。

きっと、声は聞こえるし思いは届く。

そう思って俺らは千羽鶴を折り始めた。
何羽も何百羽も何千羽も。
俺らだけでなく、話を聞いたバンドマンや
ライブに来てくれる人たち、メンバーの周りや
海外からも沢山の千羽鶴が届いた。

毎日毎晩、折り続け、千羽束ねては届け
集まって作ってた病院近くのマックでは
店員が覚えてくれて、声を掛けてくれて
コーヒーをサービスしてくれたり、
本当に沢山の人たちの思いを、届け続けた。

こうへーの口から俺らがどんなバンドで
どんな思いで、どんな人間で
みんなえっちゃんが好きで
みんながみんなORANGE SHAKESが
大好きで大好きで。そんな思いを
両親に伝え続けてた。

病院へ行くのが日課になっていた俺たちは
いつもの様に束ねた千羽鶴を届けに
集中治療室前まで行き、インターホンを押した。

中から両親が出てきて、俺らにこう言った。

「えっちゃんに会ってあげて。
手を握ってお喋りしてあげて。」

ダメだ。書きながら泣きそうだ。

事故後、初めてえっちゃんに会えた。

ベッドの周りには今まで届けた沢山の千羽鶴。
その千羽鶴に囲まれるようにして
沢山の医療機器に繋がれた痛々しい姿の
えっちゃんが横になっていた。

みんな一斉に話し掛けた。
泣きながら、手を握って、どーでもいい話から
笑い話、メンバーのバカ話、沢山話し掛けた。

もちろん返事はない。
けど、握ったえっちゃんの手は
温かく、頑張って生きていた。

その後も何日も通い続け、思いを届けた。










2009年1月31日
"えっちゃん"こと池田悦子は
23歳の若さで天国へ旅立った。










初春を迎えて、間もない夜
家へ帰る途中だったえっちゃんは
もうすぐ家に着く所で、対向車と衝突した。

28日後、えっちゃんが亡くなったと
こうへーから連絡があった。
たまたま殿と一緒に居た俺は
車の中で大声で泣いた。信じられなかった。
俺と同い歳なのになんで死んじゃうんだ。
まだ23歳じゃんか。早すぎるって。





その時、泣きじゃくる俺を気遣って
殿が俺の車を運転して、俺の家に向かってた。
その道中、車内で流れていたのが
hide with Spread Beaverの
"HURRY GO ROUND"だった。





"また、春に会いましょう"





歌詞の一文だ。
ぐちゃぐちゃな感情の中、この曲流れてきて
余計にぐっちゃぐちゃになった。

また、会える気がした。










その日の夜、通夜に参列した。
治療のために頭髪を剃らざるを得なかった為
短くなった髪にMaKKONがウィッグを着けた。
えっちゃんは事故の悲惨さが分からないくらい
可愛い顔で棺の中に眠ってた。

通夜が終わり、俺らの元に両親が来た。

「えっちゃんが淋しくないように、ロウソクの火を消さないように一緒に居てやってくれないかな?」

本来なら通夜後、親族だけになるはずの斎場に
俺らORANGE SHAKESを招き入れてくれた。
一晩えっちゃんと一緒に過ごし、親族の方々に
バンドの話をし、えっちゃんを囲んで酒を飲み
あっという間に、朝を迎えた。

火葬から葬儀まで、まるで親族のように
参列させてくれた。
いい天気だったなあ。

あの日以来、えっちゃんに会いに行く時は
墓に向かって
"また、春に会いましょう"
そう、声を掛けてる。

毎年、メンバーと会いに行ってた
あの場所は、妻と行くようになり
子どもと行くようになり
時が経つにつれ、とても大切な場所になった。





それから、ORANGE SHAKESは
しばらく、活動を止めた。



続きはまた今度🤚



なら、すんまっせん
ご無礼します🦥
こうもバンドが続かないのって
俺のせいなんかな?年イチで転々としとる。

ムラナカ リョウタです🕺

キタシャンとエージとはその後も
付き合いは続いており、エージとは
音響の仕事にバイトで呼んでもらったり
逆に仕事を紹介してみたりなど。
キタシャンはカラオケバーをオープンさせた。
その後は居酒屋をやってみたりと
色々挑戦しているようだ。

さて、今回はタイトルでピンッと来る人も。





まぁ。
要らん話だが、散々書いてる通り
長続きしない俺は彼女とも長続きせず
しょーもない奴だった。

丁度この頃は2年付き合った彼女と
別れた年だった。(どーでもえーわ)
クラブばっか行きよったわ。

当時、mixiもモバゲーも出会い系っぽくて
今じゃ考えられんけど、普通に会ってたし
コミュのオフ会とか平気で飛び入りしよった。
出会い系っぽいなんで思ってなかったもんね。
(モバゲーはちと思ってた。やってないけど)

ある日、コミュを通してドラマーからDMが来た。

ざっくりと
「バンドを組もうと思っててメンバー集めてるからやってみないか?」
的なね。

マキシマムザホルモンの曲を3曲指定され
ベーシストとして耳コピしてスタジオに行った。

いや、上ちゃんみたいなスラップとか弾けんし。

スタジオに入ったのはいいけど
連絡先を交換したから、直メが来て
「本格的に立ち上げようと思ってるバンドがあるからそっちのスタジオに一緒に入らない?」と。





いや、どっちかい!





翻弄された俺はとりあえずスタジオへ。
スタジオにはギター、ボーカル、サックス
そして、誘ってきたドラムと俺。





ん?サックス?





しかも見た事ある人が居た。(この話は後ほど)





とりあえずスタジオ前に渡された音源は
・Yum! Yum! ORANGE
・ムラマサ☆
この2バンドの曲だった。

俺氏、察する。
"これ、スカバンドだ"

その日スタジオに居たのは
Dr./せくしーこうへー
Gt./殿
TSax./フミオ
Vo./マッコン




Dr./せくしーこうへーは
熊本出身で上京し"BACKWASHER"ってバンドのドラムを担当。今はホームメーカーの社長。
大学時代はこうへーと"W-PEACE"という
3ピースバンドを組んでいた。
そう。
現NO KIDDINGのギターだ。

Tsax./フミオは
俺が1番通って観てた"GORILLA MISSILE"の
メンバーだった。どおりで見た事あるはず。
俺氏、当時を思い出し、若干興奮。

Vo./マッコンは、俺と同じくこうへーが探してきた
北海道出身の女の子(歳上)だった。
今は地元へ帰り"tomboy"というブランドを
立ち上げ店舗を構えてる。
Home
北海道・十勝をイメージしたオリジナル生地。 ベビーギフト・セレクト雑貨…。 温かい気持ちや思い出とともに 贈り物・お土産・お気に入りとして 手にしてくださったみなさまに小さなしあわせを届けられますように。 令和元年5月1日すずらんの日 道の駅なかさつない にてOPEN!! ご家族・お友達と一緒に、ぜひ 遊びに来てください。 生地持込み製作や、古着リメイク・洋服のお直しなどのご相談も受け付けております。 お気軽にお問い合わせください。 営業日時や商品、オーダー製作等について…ご不明な点がありましたらお気軽にお問い合わせください。
tomboy-collection.jimdofree.com




この出会いから、メンバーが固まるまでの
速度はあっという間で、覚えていない。
こうへーが何人かのメンバー候補を連れて
スタジオでのセッションを重ねた。

途中、Tsax./フミオが結成メンバーを辞退。
家業を継ぎ社長さんになるんだと。
※熊本イチ有名なもやし専門メーカー

そして最終的に集まったのが
Dr./せくしーこうへー
Gt./殿
Ba./ムラナカ リョウタ(当時はRYO-CHiNと名乗ってた)
Vo./MaKKON
Vo./えっちゃん
Tsax./ちゃー
Tp./もっさん。
Tb./いでっち

8人組ガールズスカバンド

ORANGESHAKES(オレンジシェイクス)

爆誕です。

8人の時のアー写は無いです。

こうへーと殿がバンド経験があるってので
本当にイチから全部教えてもらいながらの
バンド活動でした。
地元での通常ブッキングから始まり
先輩バンドのイベントの出演。
地道にバンドとしての活動を行っていた。

もちろん殿の誘いで
NO KIDDINGのイベントに出演することも多く、地元に居ながら沢山のバンドと
対バンさせてもらった。

このバンドで"打ち上げ"を初体験した。

倫理規約に引っかかる事ばかりだ。
地方ならではってのと時代ってのもあるな(笑)

仲良しバンドがどーのこーのって言う
人達が居るけど、仲良かったよ。
遊び行ったり、飲み行ったり。
家を行き来したり、その家族と遊んだり。

初めてバンドらしい事を実現できた
バンドだと思っている。

この頃、既にNO KIDDINGは
活動を開始してて、俺は殿に面倒見てもらって
後輩としてNO KIDDINGのライブに同乗し
運転や物販、機材管理などさせてもらってた。

このお陰でNO KIDDING加入前から
色んなバンドに名前を覚えてもらえた。

ちなみにメンバーやバンド名が決まり
一番最初に"勉強"と称し観に行ったライブが
ムラマサ☆のライブだった。
ユミちゃん可愛い。マーシーさんイケメン。





でも、楽しい時間ってのは
長くは続かないもんなんよね。

結成から2年経った、2009年1月3日の朝。
それまでの景色が変わった。


続きはまた今度🤚


なら、すんまっせん
ご無礼します🦥


時代はmixiとモバゲーが流行りまくってた。
俺はmixiしかしてなかったけど。

ムラナカ リョウタです🕺

それこそ、mixiで知り合った人らと
バンドを組むことになる。

サオリンという女性からの誘いで
1度スタジオに入ることに。
スタジオに居たのは2人のギター。
キタシャンとエージだ。
サオリンは同い歳でキタシャンとエージは1つ上。

その後、サオリンは諸事情で抜けるのだが
キタシャンとエージは地元が隣同士で
家も近く、暇な時は遊びに行く仲に。
キタシャンの仕事は覚えてないが
エージの仕事は九州最大手の音響会社。
打ち込みやDTMなども扱えて、
宅録なども行っていた。
キタシャンの実家の部屋で黙々と作曲をし
流れでインストバンドになろうとしていた。

これまた流れで「バンド名なんする?」
って話になってキタシャンから一言




CREW(クルー)





と一発命名。
本格的に動くなら…と、既存曲のドラムを
叩ける人を探していたのだが、万年の悩み。
"どうしてドラム人口がすくないのか?"
という問題に直面する。
楽曲は割とヘヴィーでバスドラがデシデシ
鳴る感じのパワードラマーが欲しかった。

気付いてる人も居るかもしれないけど
リョウタはやっとベーシストに戻った(笑)

そして、リョウタは閃いた。





「あ、カズマサおるやん」





カズマサも快く引き受けてくれて
何度かスタジオに入って曲を詰めていった。

この後、カズマサの上京が決まった。

この頃から、"俺ってバンド向いてないかも"と
心のどこかで思い始める。



続きはまた今度🤚



なら、すんまっせん
ご無礼します🦥

D.R.P KICK
奇跡の一夜限りのライブ。

もう誰だか分からない。
ドラムを叩いてるのがリョウタです。
ギターを弾いてるのが荒木君です。

ムラナカ リョウタです🕺

ツインボーカルのミクスチャーバンドでした。
一夜限りのライブでしたが、全曲オリジナル。
なかなか作り込んでたとは思います。

なんで続かなかったのだろう?

少し前のブログにも書いてるけど
リョウタは何事も長続きしない性格で
色々な事に対する知識が浅い。
偏った性格が故、ハマったらハマったモノしか
目に入らないタイプってのも元々あって
やっぱり、バンドもレゲエも色んなカルチャーの
知識や経験が浅いし遅い。
("遅い"ってのは今この歳になって色々調べたり知ったりする事が多いから)

ま、後悔しても仕方ねぇんだけど。
後悔はするよな(笑)

一夜限りのライブから、そう時間を空けずに
リョウタはまたバンドを結成することになる。

荒木君からの誘いだ(笑)

ちなみに荒木君の登場はこのバンドで最後。
この後、俺のギターを借りたまま消息不明に。





荒木君の職場の近くにある古着屋で
荒木君が出会った人達とバンドを組むんだけど
彼らがなかなか面白かった。

荒木君に誘われ、顔合わせ。
てっきりスタジオに入るかと思ってたんだけど
到着したのは個人ビルの2階。
割と街中にある3階建てくらいのビルで
家の中に案内されると男が3人。

Dr.カズマサとGt.イッパチとBa.ヨシカワ。

3人は俺と同い歳で高校の頃から
バンドをやっていたらしい。

それよりも、驚いたのが、家の中に
電子ドラムと20chくらいのミキサーとスピーカー
ギターとベースのアンプ。なんならキーボードも。
しかも、それをイヤモニとかじゃなくて
生音で毎日弾き狂ってるという話。
それだけじゃない。
カズマサとイッパチはそこに住んでいて
昼夜問わず音を鳴らし、挙句の果てに
隣人が居るというのだ。





大丈夫か、隣人。





おったまげー。
そして、俺は何のパートで誘われたかって

ヴォーカル

ウソでしょ(笑)

ちなみにね。
こういう転々とした遍歴が理由で、後に
「お前はホンマにどこの誰で何屋さんかわからんねん!」
と言われた事があります。

さー、このバンド。
曲数も揃ってイイ感じになってきて
ライブしたいね!って話になるのは自然な話。
そうなるとバンド名を決めなきゃならんのよね。

これは即決だったイメージがあって
確かカズマサが決めたんだと思う。





Mississippi Bra(ミシシッピブラ)






通称:ミシブラ
これはねぇ(笑)
完全に響きで全員即決したやつw
カズマサが
"ミシシッピとか良くにゃ?"
みたいになって、みんな賛同したんだけど
物足りなかったらしく
"ブラ。ブラァッッッッ!!!!みたいなw"
んで、くっつけて"ミシシッピ ブラ"

このバンドは今でも再結成したい(笑)
すんげぇ楽しかったのを覚えてる(笑)
ジャンルはミクスチャーなんだけど
所謂、DragonAshの様なミクスチャーじゃなく
Red Hot Chili Peppersみたいな感じ。
イッパチがジョン・フルシアンテを崇拝してて。

ミシブラはねぇ、何回かライブしたかな?
嘘みたいに写真とか全く無くて
それこそ、そんなん残しておくような
時間とかが無いほどあっちゅーまに時間が流れ
前向きな解散を遂げた。

理由はカズマサとイッパチが
音楽を本格的にやるため上京する。って。

淋しかったけど、仕方なかったなー。

ちなみに同時進行で別バンドに誘われてた。

続きはまた今度🤚


なら、すんまっせん
ご無礼します🕺