道具に馴染むということ | a depressed and fragile mechanical engineer

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うつ病患者として、機械技術者として生きる小市民が、仕事や治療の日常生活、裏話、ウンチク、経験談、失敗談を綴ります。それと並行して読書で出合った本の紹介と論考を披露します。

  こんばんは、機械技術者「おだぐ」です。

 今回のお話はどちらかというと「雑感」なんですが、前回までにお話した哲学テーマの話題と関連するので、哲学テーマで公開することにします。

サイトマップから哲学テーマの過去記事が読めます。→こちら!

今回も「自己身体イメージ」という言葉が登場します。
「自己身体イメージ」とは「今ここ」にあるこの身体が自己の身体であるという認識の事を指します。私の造語です。一般に流通している言葉ではありません。
後で出て来ますので覚えておいて下さい。

 さて、道具を使う。ある程度成長した人ならば誰でも経験のあることですよね。

  はさみで髪を切る。

  箸でから揚げを摘まみあげる。

  スコップで公園の砂場に山とトンネルを作る。

  鎌で雑草を刈る。

  鉛筆や筆で字を書く。


他にも色々な道具と巡り合い、それらを使って来たことでしょう。

 では、あなたはそれらの道具とどのぐらい深い関係を築いてきましたか?
何だか変な質問をするなー、と思われるかもしれません。まるで道具に人格があるような言い方をしていますね。けど、そこまでの事を思っている訳ではありません。

 道具を使う際にはある程度の熟練が必要になってきます。
 それでとりあえずは道具を使えるようになりますが、周りを見回してみると、自分より上手に道具を使いこなしている人がいるかもしれません。その人はおそらく自分よりも深い関係を道具と取り結んでいるのでしょう。敢えて言えば、「道具に馴染んでいる人」です。

 「道具に馴染んでいる人」は自分の身体のように道具を使いこなします。
 事実、武術の世界では武器が自分の身体の延長であるように思え、と教えます。
(全ての武術、流派でそう教えるかは定かではありませんが。)

 「道具に馴染む」ということは、「自己身体イメージ」が道具にまで拡大している状態だと私は思います。(ここで「自己身体イメージ」が登場しました!)道具が自己の身体の一部であると言う想像が、実際の身体の動きの「上手さ」に反映していると私は考えます。

 この想像する過程は始めは意識的に為されますが、熟練するにつれて無意識的に「自己身体イメージ」の拡大が為されると考えられます。これは、「道具が上手く使えて当然」という段階です。この段階の道具の使い方は、暗黙知とか身体知と呼ばれるものだと思います。身体が技能を覚えているだけではなく、道具にまで身体感覚を拡大している状態だと思います。

 道具を使わない技能についてはどうでしょうか?
また武術を例に挙げますが、空手や柔道で重要な要素に「間合い」があります。
ちょっと難しく言うと、相手との相対的な距離と位置関係のことです。
これを把握する能力が空手家や柔道家にとっての「道具」になります。
「自分の間合い」というものがあります。これは「相手の攻撃が届かないけれども、自分の攻撃が有効な領域」のことです。これを正確に把握する事がこの見えない道具を使いこなすこと、馴染む事になります。


誤解して欲しくないのですが、これらの道具を用いた行為の主体はあくまでも「私」です。「道具」ではありません。行為主体の「道具」への「委譲」はあり得ません。「道具」が「自己身体イメージ」に包含されることが、道具に馴染む事に等しい、というだけのことです。


今回のお話は私の経験に基づく主観的な思惟です。
論理的、演繹的な考察を踏まえた論考ではありません。
だから、この記事は厳密には哲学ではないのです。
上手に料理してあげれば哲学的考察に昇華できるかもしれませんが、私にはそこまでの力量はありませんでした!ごめんなさい!

 今回の記事を読まれて、普段自分が使っている道具と自分の関係を振り返ってみてはいかがでしょうか?