肉体切除と自己同一性の関係 | a depressed and fragile mechanical engineer

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うつ病患者として、機械技術者として生きる小市民が、仕事や治療の日常生活、裏話、ウンチク、経験談、失敗談を綴ります。それと並行して読書で出合った本の紹介と論考を披露します。

こんばんは、機械技術者「おだぐ」です。

 前回と前々回に「自己身体イメージ」と言う概念を定義して議論したので、それに関連して追加でお話したいと思います。話の筋は続いていません

前々回の記事は→こちら
前回の記事は→こちら

 タイトルから悪趣味な話題だと思わないで下さい。
グロい話題は少ししか出てきませんので。

 「自己身体イメージ」とは「今ここ」にあるこの身体が自己の身体であるという認識の事を指します。私の造語です。一般に流通している言葉ではありません。

 今回は私たちが日常感じる感覚として「痛み」を取り上げます。
 私は痛みには二種類あると思っています。
 肉体の損傷、怪我、病気などに伴う「神経系痛覚」。もう一つは肉体的な損傷が無くても鋭い悲しみの感情などを覚えるときの「心理的痛覚」「神経系痛覚」「心理的痛覚」も私の造語ですので、ご了解ください。

※この二分法自体議論の余地のある分類です。全ての痛みは心理的なものではないか、心理的痛覚は「痛み」とはいえないのではないか、などの反論が予想されますが、ここでは私の主観的判断に従って、この分類に沿って議論を進めます。

このように痛みを二種類(痛くない状態を加えると三種類)に分けると、身体部位を次のように分類できます。

①身体を切除されると、痛みを感じない部位
 →爪、髪の切断など
②身体を切除されると、神経系痛覚のみを伴う部位
 →腕、足の切断など
③身体を切除されると、神経系痛覚と心理的痛覚の両方を伴う部位
 →腕、足の切断など(悲しみや絶望を伴う)
④身体を切除されると、心理的痛覚のみを伴う部位
 →一部の人にとっての爪、髪

※爪や髪をとても大事に感じ、大切に取り扱っている人もいます。そういう人が爪や髪に損傷を受けたと判ったとき、心理的痛覚が生じる可能性は高いと思います。ケース④はそういう場合を想定しているのです。

 いずれのケースも身体を切除された人は、切除されたモノがかつて「自分の身体」であったという認識は持っています。そしてそのことに起因して②~④のケースでは何らかの「痛み」を感じています。

 しかし、①のケースだけ、いかなる痛みも感じていません。けれども自分の肉体の一部が欠損したという事態は正しく理解できます。このとき何が起きているかというと、受肉した「身体自体」は欠損しているのだけど、「自己身体イメージ」は欠損していないものと考えられます。
つまり①のケースでは心理的には身体の切除は自己同一性を脅かさないということです。

 もう少し一般化していうと、「身体自体」と「自己身体イメージ」は常に一致している訳ではない、ということです。

 もちろん②~④のケースでは「身体自体」と「自己身体イメージ」は一致しています。少なくとも密接な対応関係にあります。①だけが特別なケースなのです。

 今、「特別」と言いましたが、それは②~④と異なる、という点を意味してのことです。爪や髪の毛を切除することは特別な事件などではなく、むしろ日常的な出来事です。これはどういうことを意味しているのでしょうか。

 「身体自体」と「自己身体イメージ」の食い違いは日常生活の世界に普通に生じている正常な出来事だと言うことです。逆にこれが非日常的な「痛み」を伴う出来事だとすると、日常生活は大変です。爪切りや散髪をする度毎に「痛み」や苦しみを感じなければなりません。しかし現実はそうではありません。


 少し前の段落で①のケースでは身体の切除は自己同一性を脅かさない、と書きました。
私は自己同一性が「自己身体イメージ」と密接な関係にあると思っています。
イコールの関係ではないにせよ、受肉した身体を持つ私達人間は、「身体自身」を媒介とするのではなく、「自己身体イメージ」という精神が作り出した「像」を媒介として自己を認識し、確認するのだと思います。

 話が込み入ってきましたが、本稿で言いたかったのは次の2点です。

 (1)「身体自身」と「自己身体イメージ」は一般には一致しない。
 (2)「自己身体イメージ」と自己同一性は密接な関係にある。

以上です。


ねっ、グロくなかったでしょう?