触れること、触れられること その2 | a depressed and fragile mechanical engineer

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うつ病患者として、機械技術者として生きる小市民が、仕事や治療の日常生活、裏話、ウンチク、経験談、失敗談を綴ります。それと並行して読書で出合った本の紹介と論考を披露します。

 こんにちは、機械技術者「おだぐ」です。

今日の話は前回の記事の続きです。前回の記事をお読みになってから読み進めることをお勧めします。
前回の記事は→こちら
前回の記事では触れること、触れられることについて考察して、「自己身体イメージ」という概念を提出するに至りました。

さて、今回は始めに簡単な実習をします。
まず、私の言うとおりにしてみてください。

(1)右手の人差し指で、左手の手のひらをつついてみてください。
→このとき、「右手」が「左手」に触れているという感覚が生じると思います。

(2)次に、右手の人差し指を左手で包み込んでみてください。
→今度は、「左手」が「右手」に触れているという感覚が生じると思います。
あるいは左手の手のひら全体を能動的に動かしていると感じるかもしれません。

(3)その次に、左右両方の手を合わせてみてください。合掌です。
→このときは、「私」が手のひらを合わせているように思いませんか?
左右の手のひらの協働作業とみなすこともできますが、主観的には「私」が行っていることだと感じるのではないでしょうか。


 実際のところ、(1)~(3)のいずれも「私」の行った行為です。行為主体は「私」のはずです。ところが、(1)や(2)で確認したように、行為主体が「右手」や「左手」であると感じることがあります。ここには、行為主体の身体部位への「委譲」が見られます。
「私」という観念が身体感覚のレベルでは「私の一部」に置き換えられているのです。

 なんだか不思議ですね。(不思議でもなんでもない!当たり前じゃないか!というお叱りの声も聞こえてきそうですが…。)

 ここのところをもう少し詳しくみてみましょう。
「私」とは何か?これだけで何冊も本が書ける問いですが、今は身体感覚を問題にしていますので、「全体としての身体を持つ行為主体」と定義しておきましょう。

 では身体の一部とはなんでしょうか?「一部の身体を有する行為主体」なのでしょうか?身体の一部が行為主体として振舞うことができるのならばこの見解は正解です。私たちの感覚もこのように感じるのは(1)、(2)で示した通りです。

 問題は「身体の一部が本当に行為主体になり得るのか?」ということです。

 議論はいろいろあるかもしれませんが、私はこの問いの回答として「No」と宣言したいと思います。身体の一部は行為主体にはなりきれない。行為主体はあくまでも身体の総体としての「私」にしか宿らないと思います。(身体の総体が「私」なのかどうかは自明ではありませんが。デカルトならば否定するでしょうね。)

 ですから、行為主体の身体の一部への「委譲」は一種の錯覚だと思います。あくまで行為主体は「私」に他ならない。

 ところで、ここまで行為主体を主役として議論を進めてきました。つまり能動的に「触れるもの」を問題にしてきました。ところが実際には(1)~(3)の行為の中には受動的に「触れられるもの」も登場しています。これらの登場人物も重要なのではないでしょうか。つまり「触れる」という行為の対象です。「触れられる」という受動的なあり方です。

 ある意味では「触れるもの」と「触れられるもの」の相互協働行為が(1)~(3)に共通することとも言えそうです。つまり「触れるもの」と「触れられるもの」がワンセット揃うときに「行為」が成立するという考え方です。ところが、この問題の場合、どちらも「私」の身体の一部なのです。

 ここで前回の記事で定義した「自己身体イメージ」が登場します。
「自己身体イメージ」とは「今ここ」にあるこの身体が自己の身体であるという認識の事を指します。(1)~(3)の例で見ると触れるものも自己身体イメージならば、触れられるものも同じ自己身体イメージです。触れるもののイメージと触れられるもののイメージの同一性を認めるところから自己の身体の認識が始まります。

 つまり「自己身体イメージ」は最初から人間の認識作用として用意されているのではなくて、触れることと触れられることの経験を経て事後的に作られるイメージだということになります。ここまでの議論の大筋は茂木健一郎の「脳と仮想」の議論にほぼ一致していると思います。

 「自己身体イメージ」を持つことは、身体レベルでの自己同一性を確信することです。「私」が肉体レベルで存在することを認めることです。そして、その感覚はある程度成長した人間ならば誰でもが持っているはずの認識です。

 以上、触れることと触れられることの考察から「私」の身体レベルでの存在確信にまで到達しました。こういう言い方をすると「精神レベルでの『私』の存在確信は得られないの?」という問いが聞こえてきそうです。事実、その問題は重要です。しかし、精神とは何かが自明でなく、かつ私にもよく判らないので、その問題は将来の宿題にさせてください。いずれ立ち向かいたい問題ではありますので。
その際には今回と同じアプローチは通用しないと思いますが…。