触れること、触れられること その1 | a depressed and fragile mechanical engineer

a depressed and fragile mechanical engineer

うつ病患者として、機械技術者として生きる小市民が、仕事や治療の日常生活、裏話、ウンチク、経験談、失敗談を綴ります。それと並行して読書で出合った本の紹介と論考を披露します。

 こんばんは、機械技術者「おだぐ」です。

 機械技術の記事を最近書いていませんが、このまま突っ走ります。
初の哲学テーマの記事です。哲学になっているかどうかは別として。


 大森荘蔵氏は著書「流れとよどみ」の中で現実と幻を区別する際の標識として触覚、触れることの重要性を説いています。以下に二箇所引用しましょう。

「流れとよどみ」3ページ目
「だがどうして『さわれる』ということが現実と幻の識別の原理にされているのだろうか。それはほかでもない、「さわる」ということこそ現実性の核心だからである。」

「流れとよどみ」4ページ目
「手で摑んで触れ、口で触れ、胃腸で触れるものが幻であるということはありえない。そういうものこそわれわれが「現実」と呼んでいるものだからである。」


 この大森の論に私は異議があります。
まず触覚を伴った夢幻を経験する可能性はあるという反論が一つ提起できます。触覚だけを他の感覚から切り離して特別視する理由は見当たらないと私には思われます。

 もう一点は、何かに触れるときに、同時に何かから触れられるという触覚特有の相互作用的反応に議論が及んでいないことです。ここを論じなければ触れることを論じたことにはならないように思われます。この相互作用的反応から、他者とのコミュニケーションの可能性が生まれるのですから。(もちろんその他者は夢幻かもしれないですけれど。)

 私の考えでは、触れることと触れられることとを等価値と認めることで、自分と他者を等価値に認識することができると思われます。触れるものと同等の能力が触れられるものにも内在しているものと想像することができるのだと思います。この想像力はしばしば誤るので、例えば子供が自分のおもちゃの人形に人格が宿っていると信じたりもします。認識対象と自己を等価値とみなすのは触覚独自の特徴であると思われます。

 ところが、です。脳科学者の茂木健一郎氏の著書「脳と仮想」のセルフ・タッチと呼ばれる新生児の行為について述べた箇所を読むと、触れることと触れられることは等価値ではないように思われるのです。以下、引用します。

「脳と仮想」99ページ
「何かを触った時に、それを能動的に「触る」という感覚と、受動的に「触られる」という感覚が同時に生じるならば、触った対象は自分の身体である。一方、能動的に「触る」という感覚だけが生じるならば、触った対象は自分の身体以外の外界である。」

 茂木の議論が正しいのならば、私が「触覚」で重要視している相互作用的反応は自分の身体を対象としている場合のみになります。他者の住まう外界に接触するには能動的に「触る」という感覚だけが生ずれば十分ということになります。

 熟考してみたのですが、自己と他者の区別を習得するプロセスを考える場合、私としては残念ながら、茂木の議論の方が私の論よりも正しいと思われます。ただし、自分の身体に触れるということを考える際には私の論と茂木の論は重なるものと思います。

 つまり、私が論じていたのは触覚を通じての「自己身体イメージの構築」についてだったのです。「自己身体イメージ」とは私が今ここで造った造語で、「今ここ」にあるこの身体が自己の身体であるという認識の事を指します。

 自己の身体に触れるというのは特別なことのように思えて実はありふれた行為です。
そこには、「行為主体」というものに関連して重要な問題が潜んでいます。
「行為主体」なんて自分のことなんじゃないの?と思われるかもしれません。
その「自分」に関わる議論に繋がると思っています。

 このことについての詳細は明日、記事を変えて改めて論じたいと思います。
今日のところは、触れるというありふれた行為の不思議さを感じてみてください。