ODA 政府開発援助 -2ページ目

【ODA 政府開発援助の用語~世界銀行】

【ODA 政府開発援助の用語~世界銀行】
 
 世界銀行は第二次世界大戦末期に発足しました。1944年、連合国の代表たちがアメリカのブレトン・ウッズで、戦後の世界経済の安定と復興について話し合いました。この際に、国際復興開発銀行(IBRD)と国際通貨基金(IMF)を創設する協定が起草され、IBRDは翌1945年に設立されました。

 世界銀行は、一般に、国際復興開発銀行と国際開発協会の二つによって構成されているものの通称です。現在は主に累積債務問題への対応をおこなっています。そのため、途上国への融資も拡大しています。また、世界銀行に姉妹機関であるIFC、MIGA、ICSIDを併せて世界銀行グループと呼びます。

(ホームページを参考)

【ODA 政府開発援助の用語~ODA大綱】

【ODA 政府開発援助の用語~ODA大綱
 
 ODA大綱は、政府開発援助のあり方に関する原則や理念を定めたものです。ODA大綱は
1994年に最初の大綱が定められました。その頃の大綱では、基本理念と原則、重点事項、実施のための方策、内外の理解と支持を得る方法、実施体制等という構成となっていました。


 そして、2003年に一度改定され、構成としては、理念(目的、方針、重点課題、重点地域)、援助実施の原則、援助政策の立案および実施等となっています。改定されたODA大綱は、「国際社会の平和と発展に貢献し、これを通じて我が国の安全と繁栄の確保に資すること」と、国益が重視されています。また、平和の構築やNGO、大学、各種団体などとの連携、情報公開も強調されています。

(ホームページを参考)

 

【ODA 情報集】

【ODA 情報集】


 農業・農業協同組合銀行(BAAC)から融資を受けるもので有効と思われる政策の一つとして、「OTOP商品の生産」が挙げられると思われます。


OTOPとはOne Tambon One Product の略です。一村一品運動とも呼ばれます。また、一村一品運動を語る際によく使われる単語、「Tambon(タンボン)」は、タイの行政単位で、英語のTown やVillageにあたるそうです。

 実はOTOPの発祥は日本の大分県で、平松守彦知事の発案で昭和54年に開始されました。過疎化が懸念される時代に開始され、20年たった今では世界にまで普及されているようです。OTOP商品は、食物、置物、衣類、装飾品などがあり、タイ国内に1万4千種以上あります。評価の基準のようなものがあり、「5つ星」が最高だそうです。


 タイでは2000年にタクシン首相が、「農村の活性化と所得向上」を選挙公約とし、首相に就任すると、OTOPを重点政策として推進し始めました。その際、大分県に一村一品運動の視察に訪れていたそうです。その公式の目的は、「農村にすでにある資源と伝統の知恵や技術を生かし、商品の生産および販売によって農民の所得向上を図り、農村部の振興を目指す」というものだそうです。


 BAACの他に、タイ・イスラム銀行、ビレッジファンド(100万バーツ基金)などからの融資を受けることができます。一村一品運動はタイだけにとどまらず、韓国、中国、フィリピン、など他のアジア諸国にも広がっています。ただ、タイの一村一品運動は、農村経済に大きな成果をもたらしているかのように見えますが、タクシン首相の巧みな宣伝手法のためのようで、経済効果としてはたいした事はないようです。


(ホームページを参考)

【ODA 政府開発援助の用語~MDGs】

【ODA 政府開発援助の用語~MDGs】


ミレニアム開発目標 (Millennium Development Goals)

(ホームページを参考)

 2000年9月、ニューヨークで国連ミレニアム・サミットが開催されました。これに参加した189の加盟国は、「21世紀の国際社会の目標」として国連ミレニアム宣言を採択したそうです。平和と安全、開発と貧困、環境、人権とグッド・ガバナンス(良い統治)、アフリカの特別なニーズなどを課題として掲げました。そして、国連ミレニアム宣言と1990年代の国際会議やサミットで採択された国際開発目標を統合し、一つの共通の枠組みにしたものがミレニアム開発目標(Millennium Development Goals : MDGs)です。

【ODA 政府開発援助の用語~BAAC】


【ODA 政府開発援助の用語~BAAC】


BAAC「農業・農業組合銀行」

Bank for Agricultural and Agricultural Cooperatives)


 タイの農業は、輸出額の約30%を占めるタイ経済にとって重要な部分でした。それに、労働人口全体の約60%と、雇用にも大きな役割を果たしています。しかしながら、タイ経済の発展のため、格差が生まれ、北部・北東部は貧困が大きくなりました。

 タイの農民は政府の農業金融機関、商業銀行、民間の貸金業者から融資を受ける事が可能になっていますが、実際には、農民のローンの条件、特に商業銀行らの借り入れは限られていました。そのため、民間の貸金業者から資金を借りましたが、高金利でした。その状況で、BAACが唯一の政府系農業銀行として、小規模農家へ特別低金利で貸付を行うようになりました。

(ホームページを参考)

【ODA 情報集】

【ODA 情報集】


●コトパンジャン・ダム③~ODAへの裁判


 2001年7月、西スマトラ州から3名の住民代表が日本に訪れました。3人はJBICや外務省を訪問し、解決を求めました。補償金の問題だけでなく、日本のODAによって壊された移転前の生活を取り戻す事などが含まれていました。


 3人が帰国した後、「コトパンジャン・ダム被害者住民協議会」が現地で結成され、日本でも「コトパンジャン・ダム被害者住民を支援する会」が結成され、裁判に向けての支援活動が始まりました。


 今年2月に裁判がありますが、日本のODAが住民移転を含めた環境の配慮を怠った責任が法廷で問われる事になります。


(「ODAをどう変えればいいのか」を参考)

【ODA 情報集】

【ODA 情報集】


●コトパンジャン・ダム②~ポンカイ村

ポンカイ村は移転された村のうちの一つです。タンジュン・パウ村と同様に水やゴム園の問題があります。水道施設については貯水タンクやパイプが設備されていますが、機能はしていません。装置の故障と燃料不足が原因のようです。井戸も乾季には枯れてしまうのだそうです。


ゴム園の問題も住民たちのデモなどにより少しずつ改善はされているそうですが、ゴムの苗の植付けや田植えは自分たちでしなければならないそうです。


ポンカイ村は、移転のために用意された家屋に付くアスベスト(石綿)の問題も深刻だそうです。住民たちもアスベストが健康に悪いことを認識しているそうです。屋根をつたって落ちる雨水を飲料水として利用できないそうです。


その他にも、現地での農作業ができない事や浸水、不十分な補償金の問題などが挙げられるようです。

(「ODAをどう変えればいいのか」を参考)

【ODAとスハルト政権~インドネシア】

【ODAとスハルト政権~インドネシア】


 1998年5月、32年間に渡ったスハルト政権は崩壊しました。彼の政権時代は、「開発の時代」、「抑圧の時代」とも言われ、モノは増え続け、一人当たりのGNPも70年の106ドルから97年の1064ドルと目覚しいものがありましたが、開発に伴う貧富の格差は大きくなってしまいました。

 スハルト政権誕生の基礎となった1965年の50万人から300万人の共産党員やそのシンパ、華人が虐殺されましたし、政権時代にも、アチェでの石油、天然ガス開発やコトパンジャンダムなどの開発により現地の住民が被害を受けました。

 その多くが、日本のODAや旧日本輸出入銀行の資金が使われています。


 確かに円借款は、その国の人間の自立につながる部分はあると思います。しかしながら、その事を主張しているODAの本音は贈与の財源として税からの供与が難しいからであり、利用しやすい財政投融資の資金による円借款が多くなってしまうからです。日本のODAの貸付金額は他の世界と比べてもかなり多いのです。


 スハルト政権崩壊後の2000年にインドネシアのNGOが集まって、「反債務連盟」が結成されました。スハルト政権時代の急激な経済成長、国際化の中での多額な債務は、現在のインドネシア政府には耐えられないものがあります。反債務連盟はその点を考慮すべきだと主張しています。また、インドネシアのNGOのINFIDは、スハルト政権時代の債務の帳消しを訴えています。


 日本は親アメリカ、親資本主義で、資源確保や貿易継続のもとに政治や経済の活動しているので、国益論に結びつくのは必定だと思います。そこら辺を見据えて私たちは活動すべきだと思います。

 


【ODA 情報集】

【ODA 情報集】


●コトパンジャン・ダム①~タンジュン・パウ村

 コトパンジャン・ダム建設の結果、貯水池内の樹木が腐食し、水質が悪化しました。まず魚が大量死し、そして、水没地から追い出されたスマトラゾウ、スマトラトラ、バク、クマなどの餌が無くなり、ほとんどが餓死したそうです。

 また、住民側にも相当の被害がありました。ダム建設の予定は、1979年にODAによって立案されましたが、実際に村人たちに情報が入ってきたのは85年から88年ごろのことでした。村人の中には情報自体を信じてなかった人もいるようです。

 そこで、89年9月の、地方政府や関係局も参加したタスリム・モスク会議では以下の9項目の条件を要請したそうです。

1.移転地をリンボ・ダタにする。
2.水没予定地域内および水没予定地域外にある住民の財産に対して補償する。
3.補償金は仲介業者を通さず、直接住民に支払う。
4.教員養成学校を卒業した村の住民を小学校の教員に採用する。
5.農園は移転の二年前には供与されるようにする。
6.各世帯に対し、家屋を供与する。
7.移転には国道が通っている。
8.学校、モスク、公共施設が供与される。
9.村や民族や集団の共有地を引き続き承認する。

 さらに、住民側は書面による約束を、地方政府側に求めましたが、聞き入れてもらえず、口頭での約束に留まりました。さらに、地方政府は、

「新しい場所に移れば、今よりも良い生活ができる。今はゴザの上で寝ているが、移転後はベッドで寝れるようになる。」、

「電気料金がしばらく無料である。」

という言葉の流れで、移転を反対させないようにしました。

 また、住民が移転に反対できない理由として、コトパンジャン・ダム建設に反対すれば、水や土地などは国有のもののため、法に逆らってしまう懸念がありました。

 実際に、住民が移転したのは、リンボ・ダタより数キロ離れたところで、水源も思ったほどなく、農園(ゴム園)を造ることができず、職を失う人も多数いたそうです。

(「ODAをどう変えればいいのか」を参考)

【ODA 政府開発援助の用語~国際協力銀行(JBIC)】

【ODA 政府開発援助の用語~国際協力銀行(JBIC)】


 国際協力銀行(JBIC)とは途上国向け開発資金を貸し付ける(出融資する)機関です。1999年10月に、日本輸出入銀行(輸銀)と海外経済協力基金(OECF)が統合されて設立されたものです。旧輸銀と旧OECFの業務と組織は、そのまま「国際金融等業務(IFO)」「海外経済協力業務(OECO)」として引き継がれているそうです。

 主たる財源は、郵便貯金や厚生年金、国民年金などから集められた財政投融資からの借り入れです。利子をつけて返済しなければならないものです。

 国際協力銀行(JBIC)は途上国の経済的発展を促すために、貸付を行います。そして、途上国の政府や機関等に金融支援を行います。活動内容としては次の4つが挙げられます。

①日本からのプラント輸出支援
②日本企業の海外進出支援
③資源の確保
④国際金融秩序の維持