ほうれん草とビール -4ページ目

ほうれん草とビール

日々のつれづれ、読んだ本、聴いた音

気づいたら大変なことになって、思わぬ経験をしてきた。お世話になった皆様、ありがとうございます。
いろいろあるが、僕は幸せだと思う
つらいことがあった。
しかし周りのひとびとは、まるで神様のようなふるまいで僕の進むコースを手取り足取り誘導した。

僕は目が開いていたのに、めまいがして時々真っ暗になった。
言葉はふるえ、手も、腕も震えていた

普通に出てくる知識がでてこないし、ともすると固まってしまう。
そのなかを、なんとかこの状況を体験していかねばと思った。

震える声でしゃべると、神々は態度を変えることなく、淡々と道を誘導してくれた。
それは、僕が今まで気づかなかった道だ。

僕がこの場所に導かれたのは、本当にものすごくラッキーなことなのだ。

僕をとりかこむ神様たちへ、本当にありがとうございました。
考えれば考えるほどえらいという価値観があるせいか、常になにかを考えていた。

それがいやだったのだが、最近少しだけ考えない瞬間があることに気づけた。

流れにお任せします。
おなかに血が通っているとき、落ち着いて呼吸ができる。
おなかいっぱい食べて、ふーっと一息ついているときに荒い呼吸はないだろう。

頭で必死で考えてもわからないとき、おなかにまかせるというのもいいと思った。

むしろ記憶のサーチはやりやすい。

おなかに手をあてるとびっくりするくらい落ち着く。

むかしおなかの調子が悪かったとき、祖母がおなかをさすってくれたが、あれは絶大な効果があったのだ。
ネガティブな感情をいだくと、
「ああ、またこんなことを考えてしまった」などと感じるが
それでは二重に損だ。

ネガティブなものがきたら、「おおー、そうくるか、そしてどうなるんだ?」
とワクワクする。

無敵の状態というか、そもそも敵の概念など持たない。
水がブームのようである。
僕も発泡水に最近目覚めた。

職場近くのコンビニとか大きな店だといろいろ種類がおいてあって、僕のお気に入りは
Vals

炭酸の感じがとてもいい。のどにキュッと刺激がきて気持ちいい。
しかし家の近くだとあまり炭酸水の種類がない。ペリエとかだと置いてあるけど、瓶の処理が面倒。

で、家の近くのコンビニにあった
ゲロルシュタイナー

を飲む。

これもさっぱりしていてなかなか良い。Valsのほうがもうちょっと刺激があって好きなのだが。

で、何がいいたいのかというと、この商品名がすごいなあと思った。
まあドイツにすれば当たり前の音なんだろうけど。

そんなわけで今夜もゲロのんでがんばるのだ



情報そのものを受け取る、という話のつづき。

受け取るまでもなく、眺める。

ひとも、ほかの生き物もそうでないものも、何かの情報を発信している。発信されて流れていくその流れを見る。

川の流れを見るように。あるいは海の波のうねりを見るように。

言葉としてききとれるものもあればそうでないものもある。それらを眺める。
中身はわからない封筒のようなものがたくさん流れていく、それでいい。

封筒の中身はそうそうわからない。わかりすぎるのは、勝手に内容を想像しているだけ。

手紙の山の流れを見つめる。
気がつくと、いろいろな情報を言葉に変換して自分の感想をつけたしている。
だから不平や不満の感情が沸き起こることがある。

それでは言葉でなく、情報そのものを受け取ってみたらどうか、と今日の昼に考えた

気にくわないものもそうでないものも、情報そのものとして受け取ると何が起きるだろう?

それまで固定されていた世界は何かの流れの集まりになるだろう

そして僕も流れる水のようになる

どんなものでも冷静に観察。そして楽しむ。面白がる。感謝する。どんなに腹立たしくとも、悲しくとも、切なくとも。
方法論というのは後付けのものが多い

もちろん良い方法は山のようにあるので、参考にすべきだが、それにこだわっていると時間が過ぎる。

からだで感じながらやることも大切(と、方法論にこだわる)

自分のなかの自分と相談しながら、感覚を磨きつつ目の前のものごとに集中する。