一方で、退院して戻って来たアパートはすっかり反社的な人(落ちぶれた社会不適合な反社なので、あまり怖くなかったけど)達の棲家になっていた。
アパートには優しそうなお爺さんが生活保護でひっそりと生活していたが、おそらく保護課にSOSしたのだろう。ある日保護課の担当の方が来てお爺さんを連れて出て行って、そこは空き部屋になった。恐らく他のアパートか或いは病院に保護入院したと思われる。
ある日、路上ライブをしてから帰ってくると、アパート前の道路でビニール袋で有機溶剤(シンナー)を吸いながらヘラヘラしてるアパート住人がいたので、目を合わせないようにして部屋に戻った。
その後通報があったらしく、翌日警察が2人来て連れて行かれた。有機溶剤だけなら逮捕までは行かないが覚○剤使用の陽性反応も出たらしい。
そんな環境にいる夢ちゃんもヤバくなっていた。そもそもそういう環境にしたのは夢ちゃんなのだが(売人を入居させたのは夢ちゃん)… 夢ちゃんは付き合っていた彼女と別れたようでそれも影響していたのだと思う。ある日僕がトイレに入って戻って来ると、夢ちゃんは僕の部屋の前で狼狽えていた。見ると僕の部屋のドアが破壊されていたのだ… どうやら夢ちゃんは覚○剤の幻覚で僕の部屋から彼女の声が聞こえていたらしく、僕が彼女をかくまっていると思ったらしい。僕と彼女が夢ちゃんから逃げるための会話まで幻聴で聴こえていたらしい。それで怒りのあまり僕のドアを「開けろ!」と叩いてそれで返事がなかった(トイレに入っていたから当然返事出来ない)のでドアを破壊したらしい。そして部屋を見ると誰もいないことがわかり、我に帰ったらしい。
夢ちゃんもヤバくなっているし、もうこのアパートに居るのは流石にキツくなって来た。それと何か胸騒ぎがしたのだ。何か事件か事故が起こる気がしていた。生活保護課の担当に引越しの許可をお願いすると、ついこないだ退居したお爺ちゃんのことで事情を知っていたらしく許可してくれたので同じ白石区菊水のアパートに移った。
嫌な予感はどうやら的中した。
引越した1ヶ月後くらいに、元のアパートが火事で全焼してしまった。後から聞いた話では、夢ちゃんはもう廊下に火が回って逃げられないので窓から布団を地面に投げてダイブしてなんとか助かったそうだ。因みにケンヂ(仮名)は、僕が入院している間に生活保護を申請して他のアパートに住んでいた。
今から考えるとよくもあんな場所に住んでたものだなとつくづく思う。
[75]引越しと共に演奏活動に良い影響が
日立市のドラマーの田島さん(仮名)と再び定期的に水戸市などでライブをする。テナーの購入のローンの名義人になってくれたお陰でセルマーのテナーが手に入る。
しばらくケンヂには会っていなかったが、ケンヂはライブハウス「カムカム」(仮名)の地下階にある楽器練習スタジオ「カムカム」の手伝い(スタッフというほどでは無くて気まぐれに来て雑用をしてスタジオ使用無料という待遇)をしていたので、僕もケンヂと一緒に手伝いスタジオを使わせてもらっていた。それがキッカケでケンヂのアパートにちょくちょく泊まり込みで遊びに行った。スタジオ「カムカム」は僕はほぼ無料で使わせてもらっていた(現在僕は静岡在住で練習場所にも困っているけど、この頃はとても良い環境だった。でもよく考えてみると、今の自分は楽器を触る時間がこの頃に比べて極度に減っているから、音楽の神様はちゃんと見てるのだと思う)。ある時期、スタジオ「カムカム」に、少し変わった感じの女性が受付スタッフになった。名前は「あまちゃん」(仮名)と呼ばれていた。あまちゃんは既婚者で小学生の娘がいて学校帰りに時々スタジオにも来てた。旦那は単身赴任で家にはいないらしい。あまちゃんとはなんとなく気が合ったので、時々家に遊びに行っていた。恋愛感情は全くなかった。多分向こうも全くなかったと思う。あまちゃんの家に行くと、いつも山盛りのグラス(隠語)とパイプをまるでお茶菓子を出すみたいに出して来た。音楽を聴きながら色々な話をして朝方になってから家に歩いて帰った(徒歩で30分くらい)。あまちゃんという人は【なにかを諦めて刹那的に生きている人】が持つ、なんとも言えない不思議な雰囲気を持った人だった。村上春樹の小説とかに登場しそうな【少し飛んでる感じのキャラの女性】だった(そういえば「サラ」も刹那的で少し飛んだ感じのキャラだった)。そういう女性は比較的にカラッとしてて気持ちの良い人が多く、僕にとってはそういう女性のほうが話はしやすかった。そしてそういう気まぐれなあまちゃんはある日突然特に理由もなくカムカムのスタッフを辞めてしまった…でも僕はあまちゃんの娘に恋もしてたし(笑)そのあとも時々家に遊びに行っていた。
札幌での僕の立ち位置は相変わらず干された状態だったが、そんな中でも自分のサックスを必要としてくれる人間は僅かながらいた(もちろんベースの瀬尾も)。その中でも最も嬉しかったのは、この頃既に僕のレベルを遥かに越えていたアルトサックスの加藤浩祐(仮名)が、新しく立ち上げるバンドに僕のテナーを迎え入れてくれた。リズムセクション(ピアノ&ベース&ドラムス)は3人とも当時は現役の北大生だったがこの3人は今とても活躍している。ピアノは「岩田(仮名)」(彼は現在東京でプロとして活躍)。ベースは「板垣(仮名)」。ドラムスは「目白(仮名)」。リーダーのアルトの加藤浩祐に至っては、その後しばらくして渡米してしばらくアメリカで演奏活動をしていた。しかもその間に【2度、グラミー賞を受賞】している。ある日、浩祐の演奏の常連の耳の肥えたお客さんから「良かったね。君は浩祐君のバンドでこれから上手くなると思うよ」と言われた。しかし僕にとっては浩祐よりもレベルが下とは認めたくない余計なプライドが邪魔をして、無愛想に頷いた。だけど今から考えるとその客は僕のことを、【何か持ってるが、荒削りで色々なスキルが雑だと思っていて、しかも自信たっぷりな僕を褒めるのはマイナスだと思って辛口だったのかも知れない】と感じてる。更に言えば【上手くなるのを待って応援をしてくれていた】とさえ今では思う。正直なところ辛口の常連客達の前で浩祐のソロと僕のソロのクオリティを比べられて悔しい思いをした。僕が楽器を壊したり腐って練習をサボったりしている時も、浩祐は当時会社員で時間が無いにもかかわらず、明確なビジョンを持ってコツコツと練習をしてきたので、もう差は歴然だった。天狗になっていた僕の鼻はへし折られることになった。その分このバンド「加藤浩祐五重奏団」の所属は強いモチベーションにもなった。まだ若くて経験の少なかったベースの瀬尾高志からは「長谷川さん。加藤さんのところで正統派なハードバップとか長谷川さんにとっては方向性が違いませんか?」と助言をしてきたけど(長谷川さんはもっとコルトレーン路線一本で行くへぎだと思っていたのかもしれないし、浩祐に負けてる演奏が彼なりに悔しく思ってくれていたのかもしれない)、このバンドにいたことは今から考えても全く後悔していないし、なんならまた浩祐やピアノの岩田幹雄(仮名)らとバンドをやりたいとすら思っている。
[76]人にも自分にも毒を撒き続けていた日々
ある時サラ(仮名)から、札幌のクラブでラッパの近藤等則さんの演奏があると誘われて行く。
そこのクラブのステージングを担当してるスタッフとサラが親しかったので、サラの紹介で近藤等則さんの演奏に少しだけ参加させてくれると言ってくれた。ライブは上の階で1〜2時間後に始まる。ウチらは下のバースペースで飲んでいたが、サラが「あんた、今ここでサックス吹きなさいよ」って言った。それで【「吹いていいの?わかった」と言ってから5分ぐらい吹いたら支配人らしき人が止めに来た】。聴いてた客たちは「いいじゃない!別にー!」と言ってくれた。気まぐれなサラはその時その場には居なくて上の階で誰かと話でもしていたのだろう、僕が止められた現場にはいなかった。そしてしばらくするとステージング担当のスタッフが「悪いけどさっきの近藤等則さんとコラボの件は、ここの支配人からNGだったよ。ここで勝手にサックス吹いたらしいね、それを怒ったらしい」と… え… 僕は「サラに吹けって言われて、ああ吹いて良いんだと思って(サラはこのクラブの顔だった)吹いたんですけど…」と言いそうになったが、逆にサラが責められるかと思い、それは言わずに「はぃ…」と答えた。この判断は正しかったのかはわからない。本当のことを言ってもサラがこのクラブの顔ならばそれほど責められなかったのかもしれないからだ。店の支配人やスタッフには顰蹙者に思われた様だが(そのスタッフは僕が吹いた時にそこにはいなかったから支配人の話しか聴いていない)、その場に居た客には「硬すぎるよー。演奏聴いて客はすっかり盛り上がってるのに何様って感じだよね」って同情してくれたのが救いだった。言ってみればサラが原因の「貰い事故」だったが僕はサラが悪いとは思えなかった。何故ならサラはなんとか僕をその場で【注目させるための愛情】だと分かっていたからだ。悪いのはサラでも僕でも無いが、ただ客が言うように「店の支配人が硬い」のだろうとは思う。
その何日か後にサラにお茶に誘われて半日くらい札幌の街を歩いた。サラが途中に立ち寄った確かCDショップだったか(記憶は曖昧です)?に、この間のクラブのスタッフがいた。彼はサラと普通に話しているが時々チラッと僕の顔を見て「こいつ勝手に吹いた顰蹙者だ」という目をしていた。いやいやアンタが目の前で話してるサラが吹けって言ったんだけどな…と心の中で呟くだけで、なんともモヤモヤする気分だった。例えると【ある待ち合わせにリーダーから間違えて30分遅い時間を伝えられて、その時間通りに行ったら周りの人達が「コイツ遅刻しておきながら一言もないのか?」と睨まれた時のようなモヤモヤ】だ。
なんだか行くところ行くところ理不尽な対応される業みたいなものがこの頃から多くなった。結局僕は【舐められてるんだろう…】と怒りが常にあった(それは今も消えないようで、時々静岡の音楽仲間とも自分の被害妄想で怒りをどうしようもできないことがある。多分トラウマになってるんだろうな…)。今から思うと、自分の撒いた種による社会不適合な特性から来る人間関係のトラブルや村八分によるメンタル的な「拗らせ」が、様々な人間に対しての強い怨みに変わっていたのだと思う。多分瀬尾高志のことさえ怨んでいたのかもしれない… 時々良いことももちろんあるけど、大体はやることなすことが裏目になっていて、人間も偏屈になっていたと思う。酒を飲むと酒癖が悪くなり、精神科の処方薬も多く飲んで意味もなく飲み屋やコンビニをブラブラするようになったり、北海道大学のジャズ研のセッションに安ワインのボトルを持ち込み酔っ払いながら参加したりしていた。友人や知人から「長谷川さんは、いつも落ち込んでいるか、又は壊れてるかのどちらかですね」と言われるようになった。僕を見かけると睨みつけてどこかへ消えて行く知り合いもぼちぼち出てきた。
酔っ払ってアパートに帰ると、部屋の鏡の前で
「オイ! オマエよ! いつまでもいつまでも何をやってるだよ! おんなじところグルグルグルグル回ってばかりじゃねえか! あー! オマエ、しぬことも怖くてできないのか!このクソ野郎!」と自分にヤジを飛ばすのが当たり前になってきていた。
母性の欠けてる僕の母親に悩みを打ち明けることもできない。
いい加減もう疲れていた。
だけど音楽をやっているからそれをモチベーションに生きていた。その分音楽に依存し過ぎて逃げ道が無くて音楽も辛い時も沢山あった。
それでも「音楽を辞めたら俺は終わる」と感じて無理矢理にモチベを上げていた。
ある日の北大ジャズ研のジャムセッションで新入部員のコントラバスの女の子が入って来た。彼女はとても華奢な身体で美人といえる顔立ちなのだが、しかしとてもセンス良くて骨太で芯のあるベースを弾いていたので誘って何度か一緒にライブをした。