【長文】自分史[69]〜[72] | オカハセのブログ

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今回の自分史は2002年前後〜


[69]灰色の日常の中での大事な出会い


数ヶ月に一度ライブを演りに通っていた茨城県日立市のドラマーの「田島さん」(仮名)に、電話で「かくかくしかじかでサックスを壊してしまいました。世話になってるお店で借りたサックスは手元にあるけど、今は休みたい気持ちもあってほとんど吹いてないし、それに処方薬の副作用で吹いてもロクな音が出ないので暫く茨城には行けないです」と伝えた。

クリスマスイブの日は。例の旭川方面の彼女がアパートに来た。知らず知らずのうちに僕の中に溜まっていた彼女に対するストレスが、些細な彼女の自己中発言で爆発して怒り「もう帰れよ!」と言って部屋から追い出してしまった。おそらく彼女にしてみれば「イブの日なのに酷い仕打ちをされた」と取ったと思うし、当然と言えば当然だ。けど僕側の気持ちとしては「我慢の限界」だった。イブの日は我慢して穏やかに過ごして、後日に改めてちゃんと話し合いをしようという余裕もなかった。そしてそれから二度程会ったが間もなく別れて、そのあとは二度と会うことはなくなった。彼女がいなくなったら、保っていた理性的な箍も外れて、担当医には強い薬を処方されるようになり廃人化が進んでいった。前回の自分史で「アカシジア」が発症したと書いたのはこの頃のこと。

ある日の夜、ススキノ交差点前でヘロヘロな音(精神科の処方薬の副作用)でサックスを吹いていると、1人の女性が目の前に立ち止まって、酷い僕の演奏を真剣にきいていた。その頃の僕のサックスは絶対に人が立ち止まって聴くようなものとは思えないので不思議に思ったが、感覚的に彼女は僕の闇(病み)に気づいているようだった。

そして優しい笑顔で話しかけて来てマクドナルドに誘われてコーヒーを飲みながら話をした。

とは言っても僕は明らかに薬の副作用で喋り方や表情はまともじゃなかった筈なのだが、最初から分かっていて、おそらく「元気になるように励まそう」という気持ちだったのかもしれない。彼女の名前は「サラ」(仮名)としておく。サラは、こんな酷い音出してる僕の「好調時の演奏」をイメージ出来る鋭い感覚を持っている人なのかもしれないと想像する。何故なら謙遜ではなく、好調時の演奏と比べて見る影もない本当に酷い演奏に成り下がっていたのだから。サラに連絡先を訊かれたが、これは逆ナンとかではないのは確かだった(明らかな症状が出てるキチ○イの僕をナンパする人もあまりいないはずだし…)。とても気持ちの真っ直ぐな人だから。当時僕は電話が無かったので、住所とそれから歌声喫茶「トロイカ」の電話番号を教えておいた。

日々の暮らしぶりは、処方薬のせいで何をしてるのかよくわからないような日常だった。処方薬のおかげで悩むことも無い代わりに判断能力も低下していた。ボーッとしながらスーパーに行くと5回に一回くらい、特にすごく欲しいわけでもないチョコレートなどをポケットに入れて○引きしていた…  人として崩壊していた。


[70]少しずつサックスを吹き始める

ある日、アパートに帰って来ると隣の夢ちゃんの部屋に1人の男が来ていた。その男は夢ちゃんと2人でギターを弾いていてなかなか上手かった。
男は大槻ケンヂに似ていたので、仮名で「ケンヂ」としておく。ケンヂは、今まで色々と波乱が続きホームレスをしながら全国を転々としていて、札幌に来る前は大阪府の少し治安が良くない「河内」のあたりで1年以上ホームレスをしていたらしい。夢ちゃんが路上で弾き語りをしている時に来て、しばらく聴いていたので話をして仲良くなったようで「寝る場所が無いならば」とアパートに連れて来たらしい。夢ちゃんが大家にケンヂのことを相談すると、1年に1度くらいに数日だけ帰って来るヒッピーの部屋にケンヂはとりあえず仮住まいすることになる。その後ケンヂとはしばらくの期間、親友と言えるくらいの付き合いをすることになる。
ある日路上でサックスを吹いていると「下手くそ〜!」とヤジを飛ばされる。その悔しさからまた少しづつサックスも吹き始めるそれでもなかなか処方薬による影響でなかなか吹けるようにならない。けど処方薬に身体依存していたからやめれない。元々僕のサックス演奏をとても高く評価してくれていたひと回り歳上のブルースロックミュージシャンの自宅によく遊びに行っていたのだが、僕の状態を流石に見かねてその方の自宅でWeedをもらうことで処方薬から抜け出す。もちろんweedも依存性が多少はあるし違法性のあるものなので胸を張って偉そうには言えないことだけど、処方薬の依存から抜けられた。それによって楽器演奏をする上での弊害や挙動や話の仕方の異常性はほぼ通常に戻った。精神科の薬はあまり依存するとかいふくには向かわずに対処療法にしかならないと、身をもって知った。もちろん、本当に切羽詰まっていつ自○してもおかしくないないような人にとっては対処療法こそが必要。ただ、リスクもあるという意味。いずれにせよ僕は何にでもすぐに精神依存してしまう性質があるということを、この頃には強く認識するようになった。もしも僕が酒を沢山呑んでも気持ち悪くならない体質だったらアルコール依存症になるのは間違いない。そしてまわりにはシャ○中のミュージシャンがそこそこいたので、いつそれに手を出してしまうかわからない危険な環境だった。もしも手を出していたら今頃はこの世にはいないだろうと想像できるので「そこに行ったら完全に終わり」だと強く認識することになった。

それからはサックスが本来の実力に戻って行ったので、ジャムセッションに積極的にいくようになる。

親友になったケンヂは無一文なので、常に僕と一緒に行動させて食事を奢ったり自炊して一緒に食べたりした。ケンヂと知り合った最初の頃は、処方薬で挙動のおかしい僕と行動を共にするのはストレスもあって喧嘩もした。でも基本的には考え方が合っていたし、お互いの苦悩を多少は理解し合えていた。だけどケンヂは、少しずつ夢ちゃんやハムと相性が悪くなって行ったようだった。詳しい経緯はわからないけど、なんとなくケンヂが嫌われる理由はわかった。それは僕も違う場所ではなんとなく嫌われる人間だから、似たもの同士だから。そして夢ちゃんやハムも似たもの同士なんだけど、ケンヂとは歯車が合わない関係なんだろうなと。そして、どんな場所にいたって人間関係の問題はつきまとうものなんだなと思った。

世話になっていた歌声喫茶「トロイカ」(仮名)が場所を変えて、ライブハウスとして「カムカム」(仮名)という名前でオープンした。しばらくの間は僕はお金無くてもサックスを吹けばフリーパスにしてくれた。だけどそのうちにに新しい店長が来てからは、それまでのオーナーと僕とのコミュニケーションを店長は知らないために、自分はそこで演奏して無料というわけにはいかなくなった。店長の権限というのはかなり強力なものと知った(つい最近も、静岡のある店の店長と相性が微妙になってから、似たような経験をしてその店との関係が無くなっている)。

ある時、夢ちゃんから知り合いの呑み屋を教えてもらってそこを訪ねた。ススキノの外れにある「交流プラザビル」(仮名)の中の「猫屋敷」(仮名)という店だ。ススキノのお店で演奏してるロック系やファンク系のミュージシャンがよく来る店だった。少しイキった感じの客層の店だった。その店の連中から演奏は評価されるが、同時に舐められていた。もしもその連中が職場の同僚ならいじめを受けてたと思う。それでも通う理由があった。


[71]今回は父親のことを書く


父親が3〜4年ほど前に認知症だということがわかり老人施設に入居した。今回の記事は父親のことを書いてみようと思う。

僕は比較的父親との関係は良かったほうだと思う。兄と父の関係は確執があった。僕が小学の時、目の不自由だった母親は函館の盲学校に入学。1年に2〜3回父と兄と僕と函館まで(250キロ)夜中から朝方にかけて父の運転する車で母親に会いに行っていたが、母親が盲学校を卒業してから我が家に帰ってくる事は無かった。父と離婚して盲学校で知り合った男性と再婚したのだ。

父がタクシー運転手をしてた頃、同僚の借金の保証人になって夜逃げされ、給料の良い仕事を探さないといけなくなったようだ。そして札幌市内から洞爺湖方面へ30キロほど行ったところにある定山渓という場所にある豊羽鉱山というとてもハードな職場で働いた。豊羽鉱山の同僚はもとヤクザや札付きの不良ばかりの環境だから入社したばかりの頃は歳下から「何やってんだこのノロマ!」とか「おいオヤジ!」とか怒鳴られまくって、毎日「今日の仕事が終わったらここをやめよう」と思いながら仕事していたそうだ。前職のタクシーの運転手が10人で転職して来て、1人辞めまた1人辞め…   結局辞めずに残ったのは親父ひとりだった。給料は相当に良かったようだが全然裕福にはなっていないようだった。キツくてもこの仕事を辞めるわけにはいかなかったんだろうと思う。一体いくらの借金を払ってたんだろう?相当に大金だったんじゃないだろうか?

15年程前に久しぶりに父の家に帰った時に言われたこと。「もし、お前の母親の今の旦那がコ○されたっていうニュースを見たら、犯人は俺だと思ったらいい」と言った…   僕「いやいや…それは僕のその後の人生もめちゃくちゃになるからやめてほしい」 父「そんな父親の罪を引きずらずに、お前はお前でしっかりと生きて行けばいいべや」 あ〜ダメだこれ…この人完全に思考が停止してるわ…   加害者の家族が特定されてしまい何処の職場も何処の趣味の集まりも全て村八分になるというのは、今ほどネットが普及していなかったこの頃でさえもう既にそうだったのは思考が停止していなければすぐにわかることなんだけどな…

まあ口で言うくらいだからまさか本当に事件は起こさないとは思うけど、罪を犯す人って「自分がそのあと償えばいい、死刑になってもいい」という覚悟だけしか見てないから思いとどまることが出来ず、実際に罪を犯して初めて「自分が償ったところで加害者家族のその後の人生が台無しになるということに気が付かない」という【想像力の欠如】と【思考の停止】によるものなんだろうなと知り、少し怖くなった。僕は『手紙』という題名の「殺人事件加害者家族のその後の人生の大変さ」をテーマにした映画のDVDを持っていたので、今度父に送ろう思っていた。けど今回認知症になって、恐らくそんな事件はもう起こさない気がするから大丈夫かなと思っている。実際に父はどこで買ったのかは知らないが切れ味の良い高級な短刀を手拭いに巻いて洋服箪笥に閉まっていたのだ…   まあその後、父は思い直してその短刀を石狩湾に捨てたらしいけど。(認知症に父がなってなければ明かせない話を書いてます。今や父は書かれてもそんなにダメージは無いと思うので) そんな事件起こされたら恐らく、僕は今こうしてオカリナやサックスでの活動は、例え今の10倍の実力があっても完全に閉ざされたと思う。そして僕がそんな中で自死をした時に父がいくら後悔しても死刑になっても、全て遅い。

今から考えると父が認知症になるのは確かに納得がいく。今から10数年前、年金での生活が大変(最終職場がかなり歳をとってからだったため)な理由で維持費のかかる車を処分して、スーパー等に買い物するか自宅で一日中TVを見ている生活スタイルになったから。だから15年程前に父の家に帰った時に既に父から出てくる言葉は、メディアに洗脳された老害としか思えない発言が目立ってガッカリした。もしもパソコンとか元々やる人だったら恐らく「2ちゃんねる」とかに思考停止した老害なイタい書き込みとかしても全然不思議じゃないほどだった… 父は酒を飲めない人だから出歩いて飲みに行くことも無いし、頑固で偏屈者だから友達もほとんどいないからそりゃスーパー等に買い物するかTVっ子だけの生活スタイルを10年も続けてたら認知症にもなるだろうと思う。

認知症になった後に施設に入居したが、あの頑固な偏屈でスタッフを困らせてはいないだろうか?と心配になっていたけど、実は父は認知症になった途端に『とても穏やかでスタッフにも評判が良いらしい』と知った。 …あーなるほどな…

認知症になるとその人の本当の性格が出るらしいと聞くが、【実は父は頑固でも偏屈者でもなかったのかもしれない。色々と波乱が続いて自分を守るために頑固で偏屈で少し威圧感のある怖い自分を演じて生きていたのかもしれない。施設のスタッフに迷惑をかけていないのなら、むしろ父はやっと心の安定の境地に行けたのかもしれない。

僕は、というより父のせいで(笑)親戚連中は父とその息子である僕にさえも寄り付かない雰囲気なので、実は父のいる施設の連絡先を知らない。

でも父が亡くなったら絶対後悔するのでなんとか父の施設の連絡先を教えてもらい会いに行かないとなと思っている。



[72]入院


僕の住むボロアパートは治安が悪くなって来ていた。向かいの部屋の夢ちゃんがやめていた覚○剤にまた手を出して、それに伴い売人の893の何人かがこのアパートに住むことになったからだ。
そう、こんなボロアパートに住む893だから、彼等自身が覚○剤中毒で常に金がないみたいだった。そしてその売人の更に知り合いの薬中までもが入居してきてカオスになっていった…  因みにこれは893が植えたのでは無いと思うけど、アパートの庭に麻が1本生えていた。
僕は僕で調子を崩して[精神科に3度目の入院]をした。今度は3ヵ月という割と長い入院になりそうだった。1度目と2度目入院したのは家の近所の精神科だったが、3度目はベットの空きが無くて噂によれば「グレーゾーン」と言われる割と重症者が入る「カチューシャ病院」(仮名)というところだった。
ただ僕にとってはこの病院に入院出来たのは幸運だった様に感じている。
担当医は院長先生だったのだが、僕が大きなテナーサックスのケースを入院場所に持って来たのを見て、
院長「そのケースは?」
僕「これはサックスが入ってます」。
それまでの2度の入院の時に、精神科に入院しても楽器は練習は出来ないとは知ってはいる。けど外出許可が出た時に家に帰らずに音が出せるから、いつでも吹ける様に持って来ていた。院長は前の病院の薬の処方を確認すると「ああ、これは良くないなぁ。こんな強いのを飲んでたら管楽器は吹けないよ」と。確かに前の病院の時には、実際吹けなくなって薬を少し弱くしてもらって、その代わりブルースロックシンガーの優作さん(仮名)の家でグラス(隠語)を吸わせてもらい、それからは吹ける様になっていたつもりだったが、それでもまだまだ強い薬のようだった。
院長「薬は弱くするよ。それで様子をみるから」
普通なら入院すると通院時よりも少し薬を強めにする場合が多いと思うけど、院長はそれとは逆の判断をした。
そしてそのあと院長は「君には【それを吹ける環境が治療の一環として必要】だな」
僕「えっ?そんなこと無理でしょ…」
院長「無理じゃないよ。この病院は色々な部屋があるから空いてる部屋を使えば良い。そもそも吹けないのに何故持ち歩いてる?」
僕「ああそれは… チャンスがあったらいつでも吹ける様にです」
院長「そう、そういうことだよ。あー君(看護師に)この件をやっておいてね」と言った。
そして手荷物をいったん全て看護師に預けて部屋を案内された。とは言ってもそこは刑務所の独房みたいな場所に入る前の控室だ。手荷物をいったん預けて検査されるのは想定外だった。見られて困るものは、、確かにあったからだ…  少しすると看護師のひとりが部屋に来て「あのオカハセさん。さっきの院長の楽器練習の件ですが、少し待ってくださいね。前例がない事なので部屋の空きなどを確認して調整しますので」と言った。なるほどここの院長は相当なワンマン院長なのだとわかった。しかもそのぶん勘は鋭そうな院長だった。それから15分くらいすると独房へ案内された。鍵は外からしか開けられない、トイレが分かれていない部屋…  そこが1度目2度目の入院とは大きな違いだった。ここの病院は重症者じゃ無くても最初の一定期間は先ず独房からスタートさせられる。おそらく現在ではこのシステムは改善されていると思う。
こうして入院生活が始まった。
独房に入ってから30分くらいするとひとりの看護師が少し険しい顔で入って来て「オカハセさん!これはなんですか?!」と小さなタッパーの中身を見せた。
僕「はい、、すみません…大○(グラスの正式名)です…」
そのあと病院で呼んだらしい父が来て、少しばかり大変だった。





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