終わったよ、ハニー。今年の初め、歯医者に行って治ったと思ったらまた痛み出して、それがようやく治療終了。とどめを刺されるように、最後の診療で八千円も採られたよ。今日はまっすぐ家に帰ってきたのね。もう何処も悪くなりませんように、と願って止まないのだけど、未だ厄年真っ最中。皆さん厄落としはちゃんとしておきましょう。
さて、昨日の続き。やることなすこと、何かちょっとした距離のようなものを感じる、と昨日お話ししたので、本日はそれの検証を。
その前に、のりピーショック後のことをネ。何故かアレがきっかけで、良くテレビを見るようになったんだけど、ほとんどが相撲とゴルフとニュースばっかりなのね。それはまぁ、昔からそうだった、といえばそうなんだけど、つまりはちょっと以前よりは民放を見る機会が増えたような気がするのね。
改めてあの時のことを考えると、ちょうどテレビが壊れて、買い直して、それでテレビっていうモノに目が向くようになった、というのはあると思うのね。ただのりピーショックの間中、テレビは壊れていたわけで。どちらかというと、新聞とかネットとか、直近の情報は全て文字だったのよ。
それで変なイメージが出来ちゃったというか、かなり私見でその情報を扱っていたのね。評論家とか文化人のいらないコメントの入らない状態、って事ね。
で、私に何が起こったか?っていうと、まずテレビ見るでしょ?そこにちょっと胸を強調したうら若きお嬢さんとか出ているでしょ?私の視線は胸の谷間を品定めするでしょ?で、顔とか足とか全体を見渡すでしょ?そして下す判断は、多分裏では、ドラッグとかドラッグとかドラッグとかやっているんだろうな、と思うようになったのね。
大人になれば、誰だって、テレビに出ているお嬢さんが処女だ、なんて思わないのと同じ程度で、みんなどうせやっているんでしょ?という感じでジャンキー視してしまうのね。その原因は、やっぱりのりピーというものが持つイメージと、数年前に周りにいっぱい居た薬で失敗していた人とのギャップ、なのね。正直言って、一番やってなさそうな人が、やっぱりやってた、っていう事になるのは、それだけ衝撃も大きいって事ね。
そういう視線で見ると、そういう風に見えてくるから不思議。政治家を見て、裏でどうせお金ばらまいたり、札束で頬を張ったりしているんでしょ?って思ったりするのと同じなのね。そういう先入観というか、イメージからすると、政権交替しても利権の所在が移るだけで、これからどういうお金の問題が出てくるのかな、なんて。
結局、純粋な感動、というと大袈裟だけど、ある種の色眼鏡でしか見られなくなってしまったのは、残念だと思うのね。
ちょっとココで注意して欲しいのは、色眼鏡で見る、ということと、見下すとか敬遠する、という意味とイコールではないのね。ココは大事。それが昨日も言った、ある種の距離感を持って何事かに接するのが、悲しいことではあっても、必ずしも悪いことではない、って事なのね。
あくまで私のイメージだけど、距離感を持つ、ということはある種の冷静さ、なんだと思うのね。客観的に物事を見る、っていうのかな?それとは逆を考えてみると、例えば純粋、というのは、ある種の熱狂を伴っているし、それが周りのものを見えなくする、ということもあり得るわけ。
それをちょっと最近、何かと考えることがありまして。そういう時期なのかな、なんてちょっと思う。
私は未だ、ケンさんを心の師だと仰いで、手に入る本は必ず買って読んでいるし、ブログだって毎日読んでいます。多分、これだけ熱心に追いかけている作家はケンさん以外にいない。そして、それはずっと昔から、中学生の夏休みに「孤独のメッセージ」というケンさんの文庫を読んで以来、ずっと続いているのね。
だから、ケンさんの本は、どんな内容の本でも、ものすごくスムーズに頭の中に入ってくるのね。先日話したみたいに、最近は経済の新書とか、古典を読んでいるけど、そのスピードたるや雲泥の差がある。それはやっぱり培ったモノなんだろうと思うのね。
そして、それは私のクセ、ともいうべき所だけど、これと決めたらかなり頑な。これ、っていうモノが余り無いので目立たないけど、その数少ないモノのひとつが、ケンさんなのね。
それはどういう事かというと、ケンさんがこうだぜ、っていうモノがあると、私もこうだぜ、って思ってしまうのね。ケンさんがアレをすべきだ、というと、私もアレをすべきだ、と行動するのね。それが中学からだから、それはもう、かなり体の中に染みついています。ある種、信者、といっても過言ではないのでは?
でも最近、私もこうしてブログで文章を書いたり、ストーリーなんかを紡いだりしてるでしょ?その時に、ちょっと考えるのね。ちょっと言い方は悪いかもしれないけど、ケンさんの言いなりじゃダメだな、なんてね。私の中に息づいているケンさん語録から、その向こうに行かないといけない、という風に思うのね。
時々思うのね。例えば、この間選挙に行かないヤツは生きる資格なし、みたいなことを言った時に、直ぐに思ったのね。でもケンさんは行かないんだろうな・・・って。ココで、ちょっとしたギャップが生まれるわけです。ケンさんに、何選挙になんか行ってんだよ、って言われるかな、なんて。でもな、私はやっぱり選挙は行くべきだと思うし、実際私は行くし。ジレンマに胸がキュ、ってなるのね。
未だに、私はいろんな小説の中で、ケンさんの「さよならの挨拶を」を越えるモノは読んだことがないし、影響受けているから当然なんだけど、何処かシンクロしているところもあったりとか、なかったりとか。量の差違はアレ、何処か嗜好が似ているような、似てないような。
ただね、それはエレクラと一緒なんだろうと思うのね。自分で創作を始めると、それが好きかどうかは別にして、やっぱり自分の方にシフトしていくんだろうと思うのね。そして、あんなにスキだったモノが・・・、ということになると思うのね。創作って、なんでもめんどくさいものです。経験上、最初のウチはイイですけどね、そのうち、才能とかジコケンオーに襲われたりとか、そういう事態になると、なんてめんどくさいコトしているんだろう、なんて思うものです。そして、やっぱりそれなら他人の方がイイや、なんて思うんですよ。コピーしている方がイイ、とか、他の小説を読んでいる方が楽でいい、とかね。
そういうことをネ、最近、ケンさんもブログでも仰ってました。ケンさんと同じようなこと書くのなら、特に人前で作品を発表することはないと思うんです。お金とか関係無しにね、こういうブログとかでも、他人様に読んでいただこう、なんて烏滸がましいと思うのですよ。でもそれ以上に、自分にしか書けないことがあるのか?を自問自答するわけです。この鈴虫大の脳みそで。
で、私は未だお気楽なんですかね?自分にしか書けないことがある、と思っているんですよ。私だから出来ることがある、なんて。それで、すっかり中断していますけどね、鬼姫さんや別のストーリーをね、紡いでおります。そして、それをまた皆さんの前に晒してね、最悪の気分に浸ってもらおうかと画策しているのですよ(笑)。エレクラだって、やってますよ。
薄い膜が目の前にけっこうな数降りてまして、それでも自分の手の平で弄んでいるものは、多分何処かで、何か自分だけのものを思い描いているからなんだと思うんですよね。他人の評価は、この際置いておくとして、です。
オヤ?なんだか、以前の話と随分ずれてきてしまいましたね。情報は何処へ行ったんでしょう?相変わらず、めんどくさい話でごめんなさい。でも、まだまだ続くよ。
なんてね、恥ずかしげもなく俺ってスゴいんだぜだからお嬢さん方はこぞって私に交際の申し込みを、って言ってみました。明日はついに政権交替の日。これがいかに重要な日であるのかは、後の歴史家に譲るとして、私はせめてお祭りに乗り遅れないように、またしても一日中、テレビに釘付けの予定です。ですから、明日は果たして、今まで長々とお話ししてきたことに繋がるかどうか?鬼姫みたいに、いつの間にかなくなっちゃったね、なんて事になるか?私にとってもチャレンジの日、って事で。
それでは今日はこの辺で、ご機嫌よう。