下弦の月 (←←←クリックしてね)
おぅどうしたどうしたという方は予告 から。
「どうしました?」
不意にドアを開けて、看護婦が入ってきた。泣き出した美波を見て、慌てて近寄った。肩を抱き、少し休みましょう、といって彼女をベッドに寝かせた。
私はなんのアクセスもしないのに、看護婦が入ってきた事に、驚いた。そして、同時に、理解した。
たぶん、この病室の何処かに、監視カメラがあるのだろう。椅子から立ち、看護婦の動きの邪魔にならないように身を避けながら、私は病室を見回した。だが、その片鱗は目に見えて見つける事は出来なかった。
巧みに偽装して、それは設えられているのだろうし、同じように盗聴器とか、そういう類のものが潜んでいるのだろう。
だが、仕方がない、とも思った。あの事件以来、多くの事が変わった。その象徴の的な物が、この病院にも現れている。
未知のモノに出逢って、変わらないものはない。だが、それがあまりにも巨大で、そのもたらす影響が多い程、変化は激烈となる。かつての世界大戦で焦土と化した日本が、何もかも生まれ変わったように。
一番大きく変わったのは、たぶん防衛、という意識だろう。それまで、日本という国は、外敵という感覚に鈍感だった。海の向こうでミサイル実験があっても、遠くの国で核実験が起こっても、声は挙がっても皮膚感覚としての危険を感じる事は出来なかった。
だが、この度、それはこの日本という国土から沸き起こり、圧倒的な力で破壊の限りを尽くした。それは同時に多くの人の命を奪った。親しい人、見知らぬ人にかかわらず、昨日まで、ついさっきまで元気だった人が、一瞬にして死体も残らず消えていくような惨劇に、多くの人が恐怖を感じた。
それはきっと多くの人にとって、初めての肌で感じる危険だったに違いない。共通認識出来る危険だったに違いない。
恐怖が過ぎ去ると、それは心の中に傷となって残った。癒す事の出来ない傷が残った。
なんとか体裁を保って生き残った政府は、復興の中でその傷を上手く利用した。コレまで何処か訝しく見られていた国防や軍備を語る人達に、大きな言い訳を与える事になったのだ。
事件以前から少しずつ延びてきた軍事予算が、事件後一気に倍増した。それは事件によって破壊された兵器の補充、という意味合いもなかったわけではない。だが、それ以上に軍備は増強された。
おかしなモノで、当時、その軍備が全く通用しなかった、という現実があった。なのに、まだハードに依存する体質は変わらなかったのだ。
さらには未知なるモノに対する危機管理の名目で、兵器開発に軍需は手を伸ばした。そこをテコに、科学技術はあからさまに兵器転用を目的としたモノに彩られていった。この病院もその一つだ。生物化学兵器のエキスパートが集まり、そのカモフラージュのように病院が併設されているようなモノだった。
監視カメラも、盗聴器も、研究の一環、という事ですべてが正当性を持っていた。彼らは生き残った美波、という貴重なサンプルを手に入れたのだ。
事件直後における人命救助と、復興に至る過程での治安維持。それらもいつの間にか軍が手がけるようになっていた。建前は警察や消防との連携だったが、緊急事態に統制が取れていたのは軍の方がずっと動きがスムーズだった。
そしてその結果、自衛隊は、国防軍として生まれ変わった。昨年憲法が改正され、軍の存在が認められた。
世論として、それに反対する者がいなかったわけではなかった。だが、現実はいつの間にか、日本というモノの安全を軍事組織が一手に引き受けていた。つまり、現実はすでにずっと前から変わっていたのだ。いつの間にかそう変わっていたのだ。法律はそれを追従しただけに過ぎなかった。
一方で人心はハードによる安全の確保、というものに全幅の信頼を寄せていたわけではなかった。そもそも、一体何が起こったのか、一体誰がこんな事態を引き起こしたのか、そういった問題に、誰一人として答を出す事が出来なかったからだ。
だが答が無ければ人は納得出来るモノではない。目の前で消えたモノ、人、それらを受け入れる事が出来なかったのだ。恐怖に対する答を人々は望んだ。
それは事実解明、という例えば私が携わっているような、美波の裁判というアプローチだけではなかった。
もっとも多く、それをすくい上げたのは、やはり宗教の存在だった。目の前で破壊の限りを尽くしたモノを、悪魔とか、神とか、いろんな言い方で表現した。そうやって名札を着ける事で、人の心は対象をイメージする事が出来、宗教はそれに対する答として有効だという言い訳を得る事が出来た。二つは絶妙にシンクロし、市井の人々の間に急速に広まった。
一方で、科学というモノの権威が落ちていった。科学という数式や、方程式では、そのものに名札を着ける事は出来なかった。それを可能にするには、かなりの時間がかかるだろうし、それよりももっとも根本的な理論から再構築を迫られる事になったのだ。
そうしている間に、軍がそこに浸食し、政府が後ろで糸を引いた。
結局生き残った人々は、恐怖から逃れようとして、彷徨ったあげくに、あらゆるモノを信じるという事に疑問を持ってしまったのだった。今の現実は、すべてそこから出発している。かつて信じていたモノを問い直す、という膨大な作業の間に、現実は変わってしまった。
私は、時々思う。そんな不安定な現実の中で、なにを誰に信じさせようというのだろうか。私が問うべきは、検察官か?裁判官か?その向こうにいる政府か?それとも、恐怖を深く刻んだ国民か?
そもそも、私は何処まで正気でいられるのだろうか、と。私だって、弁護士という肩書きを外せば、同じように恐怖を刻み込んだ一人の人間でしかない。その肩書きにすがっている事で、なんとか正気でいられるのかもしれない、とそんな風に思う。
「あまり彼女を刺激しないでください」
厳しい口調で、看護婦はそういって、また病室を出ていった。私は頭を下げながら、何処かいつもたゆたっているどんよりとしたモノを飲み込もうと努力した。
(明日に続く)