下弦の月 (←←←クリックしてね)
おぅどしたどしたという方は予告 からどうぞ。
「先生、ごめんなさい」
一度横になった美波は、落ち着いたのか、また笑顔に戻っていた。上半身だけを起こして、私に向かった。でもまだ、完全には、笑ってはいない。
「大丈夫?」
ハイ、と美波は答えた。
「今日は何か、私に訊きたい事があって来たんでしょ?」
「そうだけど、無理しなくてイイよ」
「大丈夫です。本当に」
救われた気がした。
「まぁ、訊きたい事って言うか、確認だね。君は随分ともう、いろんな事に答えてくれているからね」
私は持っていた鞄から書類を取り出しながら、そう言った。学生時代から使っている鞄だが、そう言えば、あの事件の時も、この鞄を持っていたな、と今更ながらに思い出した。
「君が封印を解いた後の事、覚えている?」
美波は首を振った。
「その直後は何も。気が付いたら辺りが大変な事になっていて。周りにあった森がなぎ倒されてて、祠だけがぽつんとそこにあった」
「君はどの場所にいたのかな」
私は一枚の手書きの地図を指し出した。広石島を訪れた後、そこで見た位置関係を図にしたモノだ。
この辺りです、と美波は細い人差し指で指した。
「祠の前、だね。それはどちら向きに?」
「祠の方へ向かって倒れてました。ちょうどおばあさんに言われた注連縄を引きちぎったその格好で」
「という事は、注連縄をちぎった事までは覚えているんだね?」
少し美波は首を傾げる。
「その瞬間は・・・よく・・・覚えてないんです。引きちぎったのかどうかも、気が付いた時にそんな格好していたから、自分がやったのかな、っていうぐらいで」
なるほど、と私は言って、もう一度資料に目を落とした。確かに、それ以上の事は供述調書にも書いていない。たぶん、取り調べの時もそこのところをしつこく訊かれただろう。だが、それがここまでの供述で止まっているという事は、それ以上聞けなかった、という事だ。さすがに百戦錬磨の検事や刑事が、根を上げたとは思えない。ある程度納得したのだろう。
「良く覚えていないという事だけど、何か思いだしたような事はある?どんな些細な事でも好いんだ」
しばらく美波はじっと考えていた。視線を自分の手に向けたまま、じっと見ていた。
「・・・コレは・・・ちょっと、よくわからない事なんですけど」
「何かな?なんでもイイよ」
「その時の事だったのか、それとも、後の事だったのか、あれから時間の感覚が曖昧で、よくわからないんですけど」
「イイよ」
美波は顔を上げて私を見た。何処までも透き通るような瞳が、こちらをじっと見据える。私は一瞬、吸い込まれてしまうような奇妙な感覚に捕らわれた。
「白い部屋、みたいな・・・部屋かどうか、何か霧が立ちこめていてよく見えないのか、それとも辺り一面が真っ白なのか、よくわからないけど・・・、とにかくそんなところにいたんです」
「白い・・・部屋?」
美波は頷く。そしてまた、遠くを見つめた眼差しで、何かを探すように言葉を紡ぐ。
「地面に足を着けているような感覚が無くて、本当に時間の感覚もなくて、でも、自分の感覚というか、視線とか、手に触る感触とか、それはなんだかわかるんです。でも、それがフワフワとしていて、まるで雲の上に浮かんでいるみたいな」
「痛みとか、何かを掴んだとか、そういう感覚は?」
「良く覚えてません。でも、ものすごく、暖かで、それが急に熱くなって、アッと言う間に何かに吸い込まれるような感覚があって・・・」
そう言って美波は息を飲んだ。みるみる彼女の顔が強ばる。
「大丈夫?無理しなくてイイよ」
だが、私の言葉が聞こえないかのように、彼女は一点を見つめたまま動かなくなった。その内、額を汗が伝い始め、小刻みに震え始めた。
私は慌てた。先ほどの看護婦の言葉が、急によみがえってきた。
「美波ちゃん、大丈夫?少し休もうか」
彼女は急に背中を丸め、両腕を自分で抱きしめた。前のめりにうずくまり、大きく肩で息をし始めた。
「医者の先生を呼ぼう、もうイイよ」
私が立ち上がろうとするところを、美波の手が押しとどめた。信じられないくらい強い力で腕を掴まれ、私は驚いた。
「ダメ・・・」
美波は髪を振り乱して何度も首を振った。私は愕然としたまま、ようやく椅子に座り直した。
とりあえず、私は手を伸ばし、彼女の背中をさすった。
「横になろう」
美波はうなずき、ベッドに俯せに横たわった。私は戸惑うばかりで、為す術がなかった。じっと彼女を見つめたまま、時間だけが過ぎていった。
(明日に続く)