下弦の月 (←←←クリックしてね)
何がなんだかの方は、予告編 からどうぞ。
昼前だというのに、随分と気温が上がっていた。周囲を取り囲むように植えられた木々の合間から、かまびすしい蝉の鳴き声が聞こえていた。数日前に梅雨が明けたばかりで、空は晴れていたが、湿度は高い。
私は大きな門の前でタクシーを降り、そこから真っ直ぐに続く並木道を歩いていた。ここは、広島県の海に面した街にある軍の管轄下にある病院だった。高台にあるこの場所からは、遠くに瀬戸内のキラキラ輝く水面が見えていた。
ここに、大沼美波は入院していた。というより、幽閉されている、と言った方が正解かもしれない。彼女が、一旦拘束をされ、取り調べ、起訴、という段階を踏んだ直ぐ後に、彼女は保釈された。それが私の最初の仕事だった。
保釈されたと言っても、彼女が自由になったわけではなかった。というより、自由になった方が危険だった。彼女を取り巻く状況は、それほど安全を確保されたモノではなかった。マスコミが絶えず彼女の動向を注視していたし、被害者の団体が警察署を取り囲んだりすることもあった。時には事件の首謀者を殺害する、なんていう噂が流れた事もあった。
彼女をここに連れてきたのは、ハッキリ言ってしまえば政府の意向だった。だが、私もそれがもっとも適切な処置だったと思った。ここは軍が管理しているだけあって、安全は確保されている。ただ、取り調べ担当の検事だけでなく、様々な研究者の目に晒される事となった。彼女の自由は、まだまだ一定の制約がかけられていた。
私は受付で、IDカードを提示して中に入った。白い二階建ての建物は、一見するとただの病院だった。待合室も、まだ新設されたばかりなので、清潔でそれほど物々しい雰囲気はない。一般の患者が、普通に座ったり行き来している。
だが、彼女がいるのはもっと奥の、別棟にある部屋だった。私はいくつかの廊下を曲がり、その入り口に向かった。
一面ガラス扉の前で、私は傍らにある小窓に向かってもう一度、IDカードを差し出した。少し覗いた中には、銃を携帯した制服姿の兵士が二人見えた。警備担当で詰めているのだろう。そこが軍の管轄下にある事を、強く印象づけられる。
私は名前と、所属と、今日の用向きを言うと、静かにそのガラス扉は左右に開いた。ずっと真っ直ぐに続いている廊下を歩く。辺りはやけに静かで、私の靴音だけが響いていた。
廊下の奥は一応扉を隔てて外へと繋がっていた。だが、その手前にもさっきと同じような詰め所があり、その向こうには高い塀が見えた。私はそのちょうど中間ぐらいの距離にあるドアの前に辿り着いた。
分厚く大きな引き戸はあるが、ネームプレートはない。そもそも、ここに収容されている患者で、大沼美波以外の顔を見た事がない。ある意味、ここは彼女の為だけの棟だった。
私はその前に立ち、軽くドアをノックした。中からどうぞ、という声がした。だが、それは美波のモノではなかった。
ドアは静かに開いた。一人でいるには広すぎる病室の真ん中に、殺風景なベッドがひとつ。そこに美波が座っていた。ベッドの頭の上には、大きな窓があり、そこから射す光が美波の半身を照らしていた。彼女の目の前には引き出しの付いた小さなテーブルがあり、その上にはいくつかに仕切られた棚が設置されていた。いずれにしても、何処か単調で印象に残らない部屋だった。
傍らには、看護婦が一人、壁に背を向けて椅子に座っていた。先ほど返事をしたのは、この看護婦の方だった。
私の顔を見て、美波は笑顔を浮かべた。つられてこちらも笑顔になる。
彼女は26歳。だが、一見するととてもあどけない。年齢に見合う姿というよりも、もっと幼く見える。彼女がこの十年で経験した時間の事を知っているからかもしれないが、まるで16歳のまま、時が止まってしまったかのようだった。
先生、といって彼女は手にしていた文庫本を、傍らのテーブルに置いた。看護婦が立ち上がり、私に会釈すると、そのまま病室を出ていった。私は看護婦が座っていた椅子を引き寄せて、美波のベッドの傍らに腰掛けた。
「元気そうだね」
ハイ、と透き通るような声で、彼女は返事をした。ずっと私を見つめ、笑顔を浮かべたままだ。
彼女とこうしてここで会うのは、3度目だ。最初はこの病院に収容される事が決まって、東京からここまでずっと立ち会った。二度目は、彼女の両親と、これからの事を話し合った。そして今日が三度目だった。
彼女の弁護士だからといって、面会が自由に出来る、というわけではなかった。半ば政府の虜囚となってしまった制約から、いくつもの手続きを踏まないと許可は下りなかった。抗議はしたが、聞き入れられはしなかった。一応、ここが安全な場所、という事をこちらも認めてしまったが為に、受け入れざるをえない、というのが実情だった。
「どう?ここの生活は?」
当たり障りのない挨拶に、美波は笑顔のまま、少し俯いた。だが、直ぐに顔を上げ、きりりとした視線で私を見返した。
「毎日診察とか、検査とか、いろいろあって退屈してません」
「看護婦がずっと着きっきりで、窮屈じゃない?」
美波は首を振った。
「話し相手になってくれますから、いてもらった方が安心です」
一応看護婦の体裁だが、その実彼女もれっきとした兵士だ。一応、医学の心得なりはあるのだろうが、目的は彼女の警護と監視だった。毎日交替で、必ず美波には看護婦が着いていた。
そのことを、彼女も良く知っている。というより、彼女が一番、自分の立場というモノをわきまえていた。それは拘束される時も、取り調べを受ける時も、ここに来る事が決まった時も、変わらなかった。何か、何処かで悟りきったような、そんな態度で彼女はすべてを誠実に受け止めていた。
だから不思議と、彼女に対すると、敵意よりも同情の念が湧いてくる。彼女の周囲に起こった事を良く知っている私でさえ、あの惨劇の直中にいた私でさえ、なかなか彼女が事実に結びつかなくて困惑してしまう。資料は揃っていても、もう一度すべてを検証し直そう、と思い立ったのも、そんな彼女の姿勢のせいだった。
「ご両親が、見えられたのかな?」
棚の中にある物が増えている事に気が付いた。何冊かの本が並べられ、その他にヘッドフォンプレイヤーと、家族が並んだ写真立て。そして小さな花瓶に一輪の花が生けられていた。
「ハイ、差し入れを持ってきてくれました」
美波は、棚に並ぶ本の列に視線を送った。
「お父さんもお母さんも、私がまだ子供だって思っているみたいで、漫画みたいな本ばかりなんです」
そう言うと、美波はガラスが転がるような、涼やかな笑い声を立てた。
彼女の背中に面したガラス窓から、一陣の風が吹き込んで、傍らのカーテンを踊らせた。窓の向こうには背の低い木が植わっていて、その向こうはやはり壁だった。窓を開けていても、開放的な光景ではなかった。
なのに、美波の顔を見ていると、そういう事があまり気にならなくなる。不思議な感覚だが、彼女といると、それが何処であっても、潮の香りがする。つい先日訪れたばかりの広石島の、あの風景に重なるのだ。潮の香りと風。そんなものが辺りを柔らかく包み込むような、そんな感触が私の肌に感じられるのだ。
そして、何より、美波自身が、深い海のような透明感を持っている。何処までも青く、だが、奥深い。光を受け止め、反射し、風に撫でられ、撫で返す。しなやかに触れ合っているような印象が強く残る。
時々そんな美波の輪郭がぼやけて、時間の感覚さえ失ってしまう気がする事がある。だが、決してそれは戸惑いをもたらすのではなく、自然にその中に取り込まれていってしまう。
本当に不思議な女性だ、と私はいつも思ってしまう。彼女が惨劇の主人公だとは、未だに信じられないでいる。
(明日に続く)