「三冠戦というものをこんな身体でやっていいのだろうかと自問自答している。」
両国大会で重傷(右肩関節脱臼及び腱板断裂の重傷)を負った橋本の次の挑戦者は右肩を破壊された川田に決定した。しかし橋本の状態はタイトルマッチを全うできるコンディションとは程遠く、防衛戦は延期を経て一旦PWF預かりとなる。そして悩み抜いた末に橋本が出した結論は三冠タイトル返上。99年の5月2日に実現しかけた橋本対川田のシングルマッチはまたしても幻となってしまった。
当然7月に予定していたOH祭りも欠場。相次ぐ負傷欠場は橋本の心の闇をより色濃くしていく。
その約1ヶ月、橋本は痛々しいテーピング姿でリングに帰ってきた。
※同日小川もハルク・オーガンとして出場…結果は?言うまでもないだろう。。
「自分の身体を犠牲にすることによって、残ったものがきっとあると思う。画面や試合を観て、感動していただいた、心に刻み込まれたとうものは残るものだし。俺はそれがプロレスラーだと思っているから。」
またこの頃から、不穏なスキャンダルが相次いでゼロワンに降りかかる。
7月18日に富士急ハイランドで開催予定のOH祭りはプロモーターとのトラブルにより急遽チケット払い戻し。(決勝大会は尼崎で開催)
8月の火祭りではその筋の一般客がリングに乱入するいざこざが起こる。
先だって両国大会に登場したゼットン(?)が円谷プロからのクレームにより急遽以降の参戦消滅。
冬木薫宅の周辺に泊まる不審な外車。
そして、リングの水面下では同日ゼロワンと懇意の仲であった紙のプロレス編集長山口日昇氏より、新しいイベントの構想が持ちかけられたのもこの頃であった。
が、この話に乗ってしまった時点が -ゼロワンにとっては渡りに舟か苦渋の決断であったのかは謎であるが- ノー・リターン・ポイント…いわゆる引き返せぬところだったのではないかと思われる。それは0年代初頭の秩序なきマット界を象徴するかのような荒唐無稽な試みであった。と同時にDSEがいよいよ馬脚を現したことを証明するかのようでもあったが、この誰も歓迎しなかったムーブメントが瞬く間にマット界を席巻した時、いやしてしまった時、橋本の時代が…古き良きプロレスの時代が崩壊の真っ只中に踏み入れている事に、気づいた者は同時誰一人としていなかった。
続く