翡翠の伝説 | 宝石★Wonderland

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こんにちは。

 

 

 

 

 

 

関東は鬱陶しいお天気が多いものの、かろうじて梅雨入りはせず

いまだに何とか持ちこたえているみたいです。

 

 

 

 

そんな中、昨日は久々に晴れた日曜日でした。

 

 

 

今春は何とか行きたいものと、ずっと思っていた

横浜イングリッシュガーデンへ、昨日行って参りました。

 

 

 

 

GWごろに行きたいな~、行きたいな~、とうずうずしていたのですが、

コロナのことを考えるとどうしても、

(もちろん人様もですが、)自分が感染するのが怖くて、

どうしても行く気にはなれず

そろそろピークも過ぎたかと思われる今頃なら、と

昨日の早朝に出かけました。

 

 

こちらは見ごろの期間に限り、早朝(8時から)の入園が可能なのですね。

 

おかげで久々に楽しんでくることができました。

 

 

 

 

 

 

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それでは、本題の翡翠についてお話ししましょう。

 

 

 

 

 

 

 

翡翠はアジアを中心として、大変に人気のある宝石です。

 

その理由としては美しさはもとより、翡翠の持つその精神性に魅力があるからではないでしょうか。

 

 

 

 

古代中国にはこんな伝説があります。

 

紀元前11世紀頃、殷の時代のことです。

 

 

 

 

 

呂尚という人物が、川辺で釣りをしていました。

 

 

 

すると釣った魚に翡翠の石板が入っていて、そこには予言が書かれていたのです。

 

「この国はやがて周となり、これからの中国を繁栄に導く国となる。

お前はそのために力をつくすことになるであろう。」

 

 

 

呂尚は、もとは殷の政治家であったのですが、殷の王に見切りをつけて旅に出たのです。

そしてこのときは漁夫の姿に身をやつし、渭水という地で釣りをしていたのです。

 

 

 

そこへ若者がやってきます。

 

 

若者に、今の出来事を話したところ、

 

「私の父はあなたのような方が現れるのをずっと待ち望んでおりました。

私の祖父は周の老太公です。」

と言います。

 

若者は姫昌、のちに文王となる、周の太公の3男に当たります。

時の太公は季歴です。

 

 

 

このころの殷は、専制的な軍事国家の性質が強く、周りの国々に恐れられていました。

特に恐れられていたのは、独自の宗教により、他国の捕虜を生贄として捧げる制度があることでした。

のちに、生贄として捧げられたとされる骨が14000体以上も見つかっています。

 

 

 

当時、周の国は殷の従属国とされていました。

その周を治めていたのが古公亶父(ここうたんぽ)です。

 

古公亶父には3人の息子がいましたが、3男の季歴に子供(古公の孫・姫昌)が生まれるとき様々な吉祥がおこり、

「この国を助けるのは季歴の子孫ではないか」と考えたのでした。

 

その気持ちを悟った季歴の2人の兄は、継承権を季歴に譲るために国を出奔したといいます。

 

 

わかりやすく言いますと、、

 

古公亶父(おじいちゃん) - 季歴(おとうさん) - 姫昌(文王)(わかもの)

 

↑と、なります。

 

 

 

古公の願い通りに、姫昌は周を繁栄に導きます。

 

そして、姫昌の息子、姫発によって革命が成し遂げられ、周は殷から独立(剋殷)したのですが、その時に大活躍した3人の名臣の一人が、

この呂尚(太公望)なのです。

 

(太公望とは、太公(古公亶父)の望んだ者という意味で呼ばれるようになった呂尚の後の呼び名です。)

 

 

 

 

この話は伝説として伝えられています。

 

呂尚と姫昌の出会いは、いくつかの説があるようです。

また、呂尚の出自については正式な記録がなく、謎が多い人物ともされています。

 

 

翡翠によって導かれた呂尚と文王の出会いのお話でした。

 

次回、翡翠の持つ意味について迫ります。