昨日、ゼミの後にゼミの仲間達と一緒に鍋パーティーをやりました。それにしても大勢で食べる鍋ってやっぱりいいですよね~。本当に楽しっかたですし、なんといっても美味しかった。いつも思うんですがどうしてみんなと食べる鍋はこうもおいしいのでしょうか?

そう考えていると最近身の回りでいろいろなものが「シェア」されているのに気がつきます。鍋も思えばシェアしています。カーシェア、シェアハウス、facebookなどのシェア機能、ありとあらゆるものがシェアされています。人はどうしてシェアすることに関心を持ち始めたのでしょうか?

「モノは分けると減るが、感動は分けると増える」まさにこれに尽きるのではないでしょうか?人は感動を誰かに伝えたいという欲求があります。SNSや皆で食べる鍋?なんかもこの部類に入るのではないかと思います。自分だけおいしい思いをするよりもそれを共有しながらおしゃべりしたり、笑ったりすることでよりその感動に深みが増すのでしょう。

では、カーシェアリングやルームシェアなどはどうでしょう?僕はこの部類つまり、所有することにこそ価値があるとされているモノ。個人的には車や家はプライベートな側面が強く、所有の喜びが高いモノは人と共有するのは少し抵抗があります。しかし、徐々に車、家などはシェアされています。当然、おそらく全ての車、家がシェアされるというのはこれから先は当分はないと思います。

これらのニーズはおそらく若者にあると考えられます。彼らは経済的にも余裕がなく、なるべく余分なモノにお金を使いたくないと考えています。このため、ある程度経済的自立ができるようになるまではシェアハウスやカーシェアリングは彼らにとってとても魅力的なシステムなのでしょう。尚かつ今の若者は車に以前ほど興味を持たなくなっているので尚更カーシェアリングは有用であるとおもわれます。

まとめると、シェアハウス、カーシェアリングなどは若者にとってはこれから先益々求められていくと考えられます。何しろ場所によっては一軒家を2~3人でシェアするれば一人当たり数万円で広いスペースで暮らすことができるのです。仲の良い若者同士であればこれは非常に魅力的であると思います。イギリスの大学生の大半はルームシェアをしていると言われています。これから先日本の大学生などもシェアハウスをしていくのではないかと考えられます。しかし、当然それは一時的な期間によるものであってずっとその状態であることはないでしょう。

昨日、鍋を食べつつそんなことをふと思いました。
The Future Times という記事にタナソウ(田中宗一郎)がなぜsnoozer(音楽雑誌)を止めた経緯が紹介されたインタビューが掲載されていました→http://www.thefuturetimes.jp/archive/no00/tanaka/index.html

とても興味深く、いろいろと考えさせられる内容だったので、そこで僕が思った事をいくつか書きたいと思います。

snoozerを止めたのはいろいろと採算性的なことも含めてたくさんの理由はあるそうですが、その中で僕が一番興味深かったのが、「雑誌媒体の限界を感じたから」というもの。

今日においてマスメディア(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌)の影響力は低下してきていることはもう既に皆さん知っておられることと思います。その背景にあるのが「ネット」です。ネットのお陰で私たちの暮らしはとても便利になりました。地球の裏側のことについて知ろうと思えばすぐに知る事はできちゃいます。

しかし、その一方で「情報」に対する渇望感や希少性が感じられなくなってきます。今の音楽産業はまさにその壁にぶち当たっているのではないでしょうか?一昔前であれば好きなアーティストのCDなら惜しみなくお金を使う事ができていたのに、今ではitunesなどのデジタルコンテンツから自分の気に入った曲だけを落とし込むだけで満足する人が殆どだと思います。その結果として、音楽市場の売上規模は年々縮小しています。モノからコトへ言われる様に人々はだんだんとモノへの執着が低下していきてることが見えてきます。

ネットが発達する前の時代では当然マス媒体の力は凄まじいものだったと思います。音楽雑誌に関しては、ある雑誌の一言が直接ヒットソングやバンドの知名度の上下そしてムーブメントを起こすくらいの時代、カルチャーを創り上げるだけのおおきな影響力があったわけで、今となっては考えられないことが起きていました。

ネットと活字媒体どちらが良いのかという議論はよく耳にします。もちろんどちらにも一長一短はあるわけでどちらかが良いというような考えはありません。ただこれだけいえるのは、私たちの暮らしはネットの発達によって格段と豊かになり、良くも悪くもより多くの情報を得ることができるようになったということです。

CDが売れなくなった原因は音楽業界の怠慢だ。というようなことが言われていますが、果たしてそれだけで済ませてしまっていいのだろうか?という疑問も湧いてきます。確かに、何も手を打ってこずにいたのは事実ではあります。しかし、だからといって果たして仮に何か手を打ったからといってCDの売上の低下を防ぐことができたのか?という疑問があります。実際、デジタルコンテンツ、技術の向上は誰にも止めることは出来やしないのだから今の現状はなるべくしてなったのだろうというのが僕の見解です。

youtubeやitunesで音楽を楽しむのも良いし、人それぞれの音楽の楽しみ方、多様性はあって然るべきだと思います。

とここまで書いて、いろいろと脱線しましたが笑、本来の主旨に話を戻すと、
しかし、それはそれとして、今の世の中の文化や音楽モノゴトへの考え方はちょっと違うんじゃない?とタナソウは考えています。

確かに、youtubeで 検索すれば何でも聴く事ができます。しかし、何でも聴けるようになったが故に逆に「何も聴かなくなった」と。つまり、自分の好きなアーティストのこと若しくわ、それに関係した系統のことなら聴こうとするが、それ以外の例えば昔の曲など聴こうともしないとタナソウは言います。

~すぐに聴けたりするものを誰もが欲しがることは、まずないんだよね。だから、“ストリーミングできます”、“ダウンロードできます”っていうのもそれと同じだと思うんだけど~(引用)

~人が何かに掻きたてられて、何かを欲するときって、必ず渇望感が必要だと思っていて。~(引用)

彼の言う様に人はある種、何かモノに対するありがたさを感じるときというのは渇望感や希少性を感じることができるからこそ感じる事ができ、モノの価値を実感できるんだと思います。

しかし、だからといって時代の流れを止めることは誰にもできないようにこれが現実なのだからその流れに逆らうことは当然ナンセンスです。だからといって、現状をただ見ているだけしかできないで何もしないことはもっと罪深きことだと感じます。

タナソウが他の人と違う点がこの部分にあると思います。この「何か変えてやる」「既存のモノを壊したい」という新しい価値を創造しようとするスピリッツに僕は共感するとともに彼をリスペクトします。
彼に一貫してあるのが「本質を楽しむ」ことにあると思います。

正解はないけど、本質はこうなのじゃないの?今の社会に対して不満はないの?キミの聴いている音楽ってホンモノなの?ここには今よりこんなにも素晴らしい音楽があるのに!!彼の心の中の声としてきこえて来るような感じがします。






~「経験」しないと「理解」できない。~
最近、このことをとても意識しています。人の脳が「理解」する状態というのは、「ある情報とある情報がクロス」したことを指すようです。つまり、あらかじめ頭の中に蓄積された情報の組み合わせの範囲内で「理解」という現象が起こるみたいです。

簡単にいえば、人は「経験」したことがないことは「理解」できないともいえます。

例えば、異文化を理解しようとしたら、実際に現地に足を運んでその場で生の文化に接しない限りは本当の意味での異文化理解にはならないと思います。

もちろん、フランスの文化について知ろうと思えば、ネットがあるのですぐに「知る」ことは誰にでもできることです。しかし、「知る」ことと「理解」することには大きな差があると私は考えます。

これはあくまで持論ですが、「知る」というのは「実体験」がなくてもできることです。一方で「理解」するというのは「経験」、実体験があってはじめて成立するものだと思います。

イメージしやすくする為に例を挙げると、仮にもしあなたがテレビでグルメ番組を見ていたとしてその中でタレントがとても今までに無い珍しいスイーツを食べていたとします。そこであなたはそのスイーツの中から知っている情報(例えば、そのスイーツに果物やクリームなどがのっていたとする)を頭の中で組み合わせ、だいたいの味をそこから想像し「大体こんな感じの味だろうな~」と理解した気になります。しかし、実際に食べても無いのにそんなこと理解できるのかあやしいと思いませんか?

あくまで推測ですが、やはり実際にモニターを通した言語情報、視覚情報だけでは対象物を本当の意味で「理解」したことにはならないのではないでしょうか?

もう一つ例として「ネットショッピング」を通して考えてもらったら非常に共感できることだと思います。ネットショッピングでお気に入りの服を探してようやく見つけて買ってみて、いざ実際に家で着てみたら「全く思っていたのと違う」といったような経験は皆さんにもあるのではないでしょうか?

ではなぜこのようなことが起きるのでしょうか?いうまでもなくそれは「経験」していないからです。「経験」という行為の過程において得られる情報量はとてつもなく多いのです。

普段、私たちは何気なく暮らしていますが、私たち人間は無意識にひとつひとつの動作をこなしていますが、実際、私達の脳は「五感」をフル稼働して働いているのです。人の行動の95%が無意識と言われていますが、それくらい普段私たちは五感を意識することがないのです。これは人がスムーズに活動する上で極めて当然の現象ですが、五感というのはやはり人間にとって要となる機能だといえます。

「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」これらのどれか一つ欠けたとしても生活に大きな支障をきたすことはイメージ頂けることと思います。

これらを踏まえた上で、「理解」することとは「経験」することであるということであり、つまりは
「五感」全体を働かせることが理解への入り口であることだといえるのではないでしょうか?

まとめると、理解とは実際に対象とするモノの本質を経験することにある。つまり、実際にリアルな環境に身を置きそこで実体験をすることが本当の意味での「理解」なのだと考えます。

こんなこといちいち言語化しなくても皆分かっていると思いますが、なぜ僕があえてこのようなことをわざわざ書いているかというと、以外と多くの人は日常の中でこの当たり前のことに気づかずに謝った判断をしていると思えるからです。

なので、敢えてこの「理解」という行為は何なのか?ということを考察することはとても重要だと思います。普段何気ないことに敢えて目を向けて行く事がこれからの時代必要なことであると感じます。

今私たちが生きている社会は非常に物質的に豊かですが、人々の気持ちは沈んでいます。その原因は一概にはいえませんが、その原因の一つとしてあるのが社会が成熟したことにあるといわれています。

成熟した社会では人々はあらゆる殆どのコト・モノを一通り経験し、理解していると感じています。その結果として消費は落ち込み、経済は回らなくなってきています。もちろん現実として企業がイノベーションを起こしにくい現状があるのは事実です。

しかし、私たち生活者についてよく考えてみると希望が見えてきます。
先ほど、紹介したように私たちは「理解」しているようで実際には「理解」していないことがたくさんあるのです。それは、人々の「心を動かす」ヒントだと捉えることが出来ます。つまりは、まだ、私たちの周りには未知なる感動がたくさん残されているのではないでしょうか?

これはこれからのマーケティングにとって非常に価値のある視点だと思います。例えば、「実体験」に基づいたプランを立てる事により、企業の商品、ブランドをより高いレベルで理解してもらうことができるのではないでしょうか?

このような考え方は実際に僕の尊敬するクリエイティブディレクターの伊藤直樹さんが体現されています。伊藤さんは「身体性」を意識した数々の素晴らしいキャンペーンを手がけています。

「実体験」というのは即ち、「身体を意識すること」だともいえます。これから一人でも多くの人が「経験」することの大切さを実感するようになれば、今よりずっと明るい、楽しい未来が待っているのではないでしょうか?