12月現在においてのfacebook総ユーザー数は世界で約8億人ともいわれています。日本はおよそ600万人ものユーザーがいます。今やfacebookの勢いは凄まじく、SNSでは最も大きい存在です。

皆さんはfacebookを使っていますか?つい最近までというか、今でもやはりfacebookの実名制に抵抗がある人がいることは事実です。今でこそfacebookユーザー数世界一位のアメリカでさえも実は以前まではネットの世界では匿名であることが常識であったのです。しかし、いつの間にかfacebookはMYSPACEを退き今では最も使用されているSNSとなっています。

facebookの創始者ザッカーバーグは実名制を採用した背景として「二つのアイデンティティを持つ事は不誠実さの表れである」と考えているようです。つまり匿名としての自分は本来のアイデンティティではないということ。

皆さんの本当のアイデンティティは何処にありますか?もちろんこの問いに明確な答え、正解はありません。しかしながら、時代の流れとして今や実名制で自分を表現することが当たり前となってきています。何故人々は実名制であることに共感しているのでしょう?

ザッカーバーグのいう「二つのアイデンティティを持つ事は不誠実さの表れである」という言葉が正しいかどうかわ分かりませんが、僕が思うにアイデンティティというのはいくつも誰しもが持っていることだと思います。例えば、学校での自分、会社での自分、家族での自分、一人のときの自分.....様々なアイデンティティが存在しています。こうやってみるとどれが本当の自分の姿なのか分からなくなってきます。おそらく、ザッカーバーグが言いたいのは結局は人間というのはアイデンティティが一つでないと落ち着かないので一つにしようということが言いたかったのではないか?と僕は思いました。

人は生きて行くうえで、色んな自分をあえて意図的に作り出す?演じることでうまく生きています。そうしないと人は社会生活できないからです。つまり、いつも本音ばかり言っていては争いが絶えずに無秩序状態になると考えられます。おそらく、本当のアイデンティティというのは「素の自分」のことであると思います。「素の自分」とは何か?それは本音が言える、思った事を自由に言える自分のことなのでしょうか?ともすると、ネットの世界、現事実の世界問わず人々の本当のアイデンティティは極めてプライベートな側面だけになってしまわないでしょうか?つまり、身内の中、若しくわ自分だけの世界だけしか本当のアイデンティティを見いだせないということになってしまわないでしょうか?

facebookが素晴らしいのはやはり「実名制」にすることによって、人の本来ののアイデンティティはもっと外にあるという気づきを与えてくれたところにあると感じます。今までの、特にネットの世界では匿名によって自由に心から思っている事を自由に表現できるという点に多くの人が魅力を感じ、ここにこそ本当の自分を表現できる世界があると思っていたのではないでしょうか?

いってみればそれは極めて内向きで全く外の世界、リアルを見ていないといえます。従って、ここでいう文脈のアイデンティティは非現実であるといえます。

その点facebookは実名制なので極めてリアルです。もちろん、実名なので本当に思っていることを自由に表現できることは限られてきます。つまり、現実の世界と密接にリンクしているのでオンラインなのだけれどじつはオフラインでもあるわけです。ここにこそこの世界にこそ僕は本来のアイデンティティが見いだされるべきだと思います。本当の自分とは社会の中でこそ見いだされるべきであって、というのも、人というのは社会の中で生きる生き物で、その中で他者との関わりを持つ営みによってしか自己を確認できないのです。

それゆえに、決して自己の中で完結するアイデンティティというのはありえないのだと思います。それはもはや現実逃避以外の何ものでもないのではないかと思えます?

もちろん、全てのコンテンツが実名であるべきということではなく必要に応じて匿名の強いtwitterやmixiなどのSNSを利用して貰えばいいわけです。しかし、基本として本当の意味での本当の自分がある場所というのはリアルな世界であるということは認識する必要があります。

実名制の最も懸念されるのが、プライバシーの問題です。当然そこはfacebookでも管理することができます。なのでそこまで心配する必要はないと思います。

と、ここまで書いて言いたい事が何か分かりにくくなったので、まとめると、

facebookによって今までオンラインの世界では匿名などのプライベートの部分がもっとも重用視されていて、その世界にいる自分こそが本当の自分であると誤解されがちであったけど、実名制のfacebookによってリアルなフィールドでこそ本来のアイデンティティは形成されるべきなのではないかと僕はおもいました。

ちなみに、このブログでなぜ僕が本名を出さないのか?という疑問が今書いていて感じました。おそらくそれはこのコンテンツ自体がそのように設計されていないからだと思います。また、僕自身、ここで書いている内容を知っている人に別に見られても全く構わないのだけれど、それをわざわざ見てもらいたいとも思わないからでもあります。また、このブログを僕はあくまでも自分の頭の中を整理することを第一の目的に使っているということが実名をださない一番の理由だと思います。

facebookであれば思っている事、考えている事を「共有」したいと思うからこそ実名でやる事に意味があるのだと思います。また、そのようなシステム環境が整っているということもあります。勿論、使い方は人それぞれ合って然るべきことです。

そもそも今日はなぜこのようなことを書いたかというと英語の課題でアイデンティティについてプレゼンするというのがあったからです。正直めっちゃダルイですが、ここまで書いてようやく何を言うべきか、考えるべきイシューを見つける事が自分なりにできたと思います。多分、テーマとしては「アイデンティティは実名であるべきかどうか?」みたいなものになると思います。

それでは。また明日~
今や町はクリスマス一色です。お店などのショ-ウィンドウなどもイルミネーションが飾られて、見ているだけでもワクワクします。またCMなどでもクリスマスをテーマにしたものがよく見受けられます。ここで皆さんにお聴きします。クリスマスのCMといえば何が思い浮かびますか?よく上がるのがJRの新幹線のCMだと思います。山下達郎のあの歌は名曲ですよね。その他にクリスマスならではのCMで僕がとても好きというか印象深いのがコカ・コーラのCMです。サンタとコーラのイメージがとても強く残ります。その背景として、このCMには非常に緻密なコカコーラのブランディング戦略があるのです。今日は以下でコーラのマーケティングについてご紹介したいと思います。

コーラかペプシか?どちらが好きですか?僕は味はペプシでパッケージやデザインを含めたブランドイメージは圧倒的にコカコーラの方が好きです。まぁ、味はそんなにというか実際はほとんど変わらないんですけどね笑。個人的な話はここまでとして話を戻すと、味は変わらない飲み物なのにどうしてこれほどまでにも両者の間に好き嫌いが別れるのでしょうか?

詳しい数字は分からないのですが、コーラの市場としては圧倒的にコカ・コーラの方が優位にあります。コカコーラがこれほどまでにも世界中の人々に愛されるようになったのにはコカコーラのブランド力の強さにあると言われています。彼らのマーケティングは世界的にも有名でケーススタディとしてよく使われています。コカコーラのブランドは「スマッシャブルブランド」といわれています。このスマッシャブルブランドとは、とても強いブランド力であることを意味しています。もともとはコーラの瓶を叩き割って、その破片一つからでもその破片がコーラの瓶であることが分かるくらいのブランド力ということから来ています。

コカコーラのブランドイメージとして「自由」「アクティブ」などとても明るいキーワードがあります。これらのイメージを徹底的に戦略的に彼らは何十年とかけて創りあげてきました。その結果として根強いコカコーラファンを生み出したのです。

我々はコーラを飲む時にただコーラの味自体を求めているのではなく、コーラの持つ「世界感」を味わいたいのです。

このように考えたときに、ともすると本来のモノ自体の価値とはかけ離れたものをイメージとして付ける行為というのは我々を騙しているのではないか?という疑問が残ります。本来はたかがコーラなのだから「自由」なんか感じられるわけがないと考える事も出来ます。

しかし、それは違うと思います。コカコーラの世界感は彼らにしかだせないのです。つまり、ペプシやその他のモノではコカコーラの世界感は出す事ができないのです。ここに問題の本質があります。確かに彼らのブランドイメージというのはコーラという飲み物の本来の価値ではなく後から付け足したいわば人工的な面があります。しかし、彼らがやったことは始めてのことであり、競合がやる前に徐々に彼らの世界感を構築していったわけです。まず、その時点で彼らのブランドはオンリーワンでありコカコーラだけが自由を表現できる特権があるのだと思います。

また、コカコーラが「自由」を表現できるのは彼らが真に心から自由の大切さというのを体現しているからだと思います。上辺だけでただ自由の大切さを叫ぶ事は誰でも出来ます。しかし、それを一貫して主張するにはかなりの労力が必要で、また「自由」という大きな事を主張するだけの「実力」「質」など、自由を叫ぶ資格がなければ生活者はすぐにその企業が偽物だということを見抜きます。

コカコーラが自由というブランドイメージを確立し、コーラという飲み物だけでこれほどにも多くの世界中の人々を魅了し、我々にハッピーな気分を味わせてくれることができるのは他でもないコカコーラが自由を体験させてくれる本物の企業だということを生活者が理解しているからなのでしょう。

勿論、ブランドイメージというのは時に後付け感があり、どうしても言葉遊びの側面があるのは事実です。しかし、そのようなことを少しでも感じさせる商品はすぐに市場がから消えていくと思います。つまり、これからいかに本物を創り上げて行く企業だけが生き残る時代だとも思います。コカコーラはココーラを飲むだけでハッピーになる力を本当に持っているからこそ本物の企業なんだと思います。それはマーケティングという戦略的な結果であるのは事実です。しかし、コカコーラが成功したのはマーケティングが単に優れていたという理由だけではなく、むしろ彼らの中に熱いスピリッツがあったことが最も成功した要因だと思います。テクニックだけでは生活者を感動させることはできません。そこにはやはり「熱いスピリッツ」、「志」が必要なのではないでしょうか?
驚くべき事に、私たちは意識していませんが常に人は「選択」をしています。

例えば、「お昼ごはんは何にしようか?」「弁当にしようか?」いや、「パンにしようか?」といったように日常レベルでいえばもっと多くの選択をしている事に気がつきます。

心理学では人の行動のナント95%は無意識であると言われています。それ故に私たちは普段何気なく暮らして何となく「選択」をしがちです。ランチを何にしようか?と悩んで「あ~、パンにすれば良かった~」と悔やむくらいの選択のミスなら気にしなくても全く問題ないのですが、しかし、時に人は大きな選択を迫られます。例えば、ビジネスでいえばどちらのアイデアに絞ろうか?またはどちらの企業と契約を結ぶべきか?といった重大な選択の場面があることと思います。

また、転職や結婚など他にも多くの大きな選択が存在します。これらのようなミスが許されない選択の際に我々はどのように対処すればいいのでしょうか?

今自分は大学で「選択の重要性」についての論文を書いています。そこで学んだことを自分の知識として定着させる意味でも以下に書いてみたいと思います。また、もしかしたら皆さんが何かを選択する際に迷った時に少しでも参考になるのではないかと勝手に思い...(笑)いくつか自分の考えをご紹介したいと思います。

選択をする際に最も大切なのは対象とするモノの情報を徹底的に知ることだと思います。まず、選択するものの情報を知ることでより選択の質が高まり、誤った結果に陥るリスクをかなり減らせると考えられます。しかし、こんなことは当たり前であると誰も感じていることと思います。勿論、これは至極当然ではあるのですが、以外とこれが難しいのです。選択を迷う原因がここにあるのではないかと私は考えます。

話をイメージしやすくする為にもう一度もっと日常レベルでの話をしたいと思います。日常の選択で皆さんが迷わず選択ができる、つまり、何かをする際に悩まずともコレッ!とぱっと判断できる時を想像して見て下さい。例えば、私はとてもビールが好きですが、いつもsuntoryの金麦を迷わず購入しています。ではその時の状態は一体どのようになっているのでしょうか?なぜ私は迷わず選択ができるのか?

その答えはとてもシンプルで、当然、金麦の「良さ」「機能」「価値」というのを経験しているからであり、それを選択すれば間違いないということが予め分かっているからです。そこに至るまでの過程には「比較」というのがあります。他社のビールを幾つも飲むことによって様々なビールの「経験」を得た結果として今があるわけです。

つまり何が言いたいのかというと、我々が選択を迷う時というのは「情報」が不足している状態であり、それはつまり「経験」が足りないことを意味しています。従って、いざ何か選択をしなくてはならない時に迷わないようにする為にも日頃から様々な事を「経験」しておく必要があります。

また、「選択の科学」という本を書いたアイエンガー氏曰く、「良い選択をするには正しい情報に基づいた直感」が必要であるとのことです。将棋で有名な羽生さんですが、局面が複雑になると次の一手が分からなくなることがあるそうです。つまり、次の一手の選択に迷うわけです。その時は「直感」を使うそうで、この直感の精度によって勝負が決まるそうです。羽生さんは、「直感」の精度というのは「経験」からくるものであるとおっしゃています。やはり、羽生さんのような天才レベルであっても「経験」はとても重要なものであることが分かります。

まとめると、選択の質を高めるには情報と経験この2つが重要になのではないでしょうか?迷ったときは直感で決めるしかありませんが、その直感の精度を高めるのは「経験」しかありません。

とここまで書いて、前回のブログ「経験しないと理解できない」で紹介したようにますます「経験」ということに対しての重要さ、奥深さをを今改めて実感しています。たぶん卒論ではこの「経験」が僕の中でのキーワードとなることと思います。まだ、テーマは決めていませんが、何かしらこの「経験」について書いてみたいと思います。

それでは、また明日。