クリエーティブという言葉を聴くと普段の私たちとは少し距離があるように感じられる人が多いのではないでしょうか?クリエイティブとはアーティストや芸術家などの人達にしかあてはまらないような気もしますよね。しかし、人は本来誰しも「クリエーティブな生き物」なのではないかと思います。必ずしも画家やアーティストだけがクリエーティブというわけではないのではないでしょうか?

確かに、普段の仕事などでクリエーティブさを求められているという人はごく少数だと思います。また、ここ日本は特にそのようなクリエーティブ「創造」という事に対して他国に比べて圧倒的に歴史的に見ても軽視しているところがあります。少し前のsonyのウォークマンはそういう文脈から考えるととても革新的な非常に創造的な素晴らしい商品であったと思います。しかし、それ以外で見てみると私たち日本人は「創造」の大切さというのをないがしろにしているように感じます。

遡ること、戦後間もなく日本は廃墟と化した町を一刻もはやく再構築しようとしていました。そして、人口がベビーブームとともに急激に上がり住む家が一刻も早く必要でした。そこで、国は効率を最優先にし景観の創造性を無視した都市計画が推しすすめられていきました。確かに、当時は「生きる」ことで精一杯だったのかも知れません。それ故、創造よりも効率、合理性というのが優先されたのは仕方の無い事なのかもしれません。しかし、その代償はやはり僕は大きいかったと感じます。今、私たちの住む環境は何処も殆ど同じようなものです。今まで、地方それぞれに色があり、特色がありました。つまり多様性がありました。多様性があることはクリエーティブにとって非常に重要な要素だったと思います。しかし、今日では殆どの都市が代替可能な存在になってしまいました。つまりどこも似たような非個性化が起こりました。

ではなぜ、今クリエーティブが大切なのか?ということです。意識してみればわかることですが、普段の何気ない私たちの一つ一つの行為は実はクリエーティブの要素が見られます。例えば、人が音楽を聴いたりするのもクリエーティブへの欲求があることの表れだといえると思います。また、何か些細な問題に直面した時にあれこれアイデアを考えることもクリエーティブなことといえると思います。そう考えるといかに効率よく仕事をするのかということもクリエーティブなのかも知れません。しかし、これからのクリエーティブというのはもはや「効率」だけでは通用しない、必要とされないと思います。これかのクリエーティブはいかに人々の心を豊かにするのか、如何にいままでにない体験をさせてくれる創造性が求められているのだと感じます。

以前かいたかも知れませんがやはりこれからの時代は「効率重視からくる損得中心の価値観から『質』を求める時代」だと思います。そのためにもやはりクリエーティブというのが益々人々に求められてくるのではないでしょうか?

今までにないような感動、体験を可能にする創造性が必要とされる時代が来ると言いましたが、果たしてそれはどのようなものなのか?1+4→5という価値を与えるのは簡単ですが、0→1という価値創造はとても難しいです。しかし、もしそれができれば、たとえ最終的に1という価値であったとしても0→1に変換できれば人は1+4=5の時の感動よりも大きい感動を与える事ができるのではないでしょうか?つまり、0といううのは未知数であり、言語化できないものがつまったものなのです究極的に言ってしまえば、言語化できない感動というのが今までに無いものだともいえます。例えば、デイビット・リンチの映画などはとても理解し難いものがあります。しかし、何度も見たくなる中毒性、何か分からないけど気になる感じというのが究極的な0→1だともいえます。しかし、この価値が普及するのはまだまだ先のことだと思います。このキャズムはそう簡単には超えられないと感じます。つまり、アートの世界での感動がビジネスの世界で通用する時代はまだまだ先に思えます。なので今求められているのは既存の情報の中でつまり人々の生活文脈の中で通用する範囲での「アイデアの今までにない組み合わせ」が必要なのだと思います。アイデアとは本来既存の組み合わせでしかないという宿命があるのもこのことから分かります。なので、既存の組み合わせでしかないアイデアを如何に化学反応を起こさせる事ができるかが成功の分かれ道になるのではないでしょうか?

まとめると、これから先ますます人々は今までに無い感動を必要とします。そうなってくるとクリエーティブの力が求められます。従って、日頃から常に創造的であろうとする姿勢が重要です。
皆さん、ブランドと聴いてまず頭に思い浮かぶのは何でしょうか?おそらく、ブランド=高級品というイメージが殆どの方に共有されていることと思います。車でいえば、ベンツ、BMW,ランボルギーニ、.....やバッグなどのファッション系でいえば、それこそヴィトンやグッチなどが挙げられると思います。

確かに、これらの高級品いわゆる日用品ではない非常に高関与な商品はブランド力がとても強いので必然とブランド=高級品というイメージが共有されているのだと思います。

そして、今日ご紹介しようと思う話はついさっきバスに乗っていた時に後ろに乗っていた男女の会話から思ったことです。

今日は就職活動の為に注文していたスーツを取りに行く為にバスに乗りました。そこで私の後ろにお座りになっていた40代くらいのご夫婦と思われる男女が何やら面白い会話をしていました。それは丁度、バスがヴィトンのショップの前を通っていた時のことです。以下が彼らの会話です。

女「ヴィトン人入ってる?」男「う~ん、あんまり人いないみたいだね」
女「でも、ヴィトンって何か別にこれといって欲しいとまでは思わないんだよね~」
男「 あ~確かにね。なんか成金みたいだよね笑」
女「そうそう、外人とかが身につけているのはカッコイイんだけど、ヴィトン持っている日本人ってほとんど魅力的ではない人がおおいような気がする。」
女「あからさまにブランド品っていうことがわからないような、さりげない感じのブランド品がイイよね」

確かに納得です。前に座っていた私は知らぬ間に「うんうん」と頷いていました笑。
彼らの会話から見えてくるのはこれからの企業のブランドというのは企業や製品だけでなく顧客まで全てをブランディングの対象としなくてはならないということだと思います。しかし、これは当然容易なことではありません。なぜなら、これは「顧客を選ぶ」という意味合いが含まれるからです。また、別の表現をすれば「顧客を創造する」といえます。これは皆さんご存知のコトラーの言葉です。こう考えると、「顧客を選ぶ」ことは難しくても、つまり今の来て欲しくない顧客の存在自体を否定するのではなく、一から「創造する」ことができれば必然と企業が掲げる理想像に共感する顧客、企業が欲しい顧客が近寄ってくるのではないでしょうか?

では、ヴィトンの今のブランドイメージは何が問題なのでしょうか?考えられる問題点を以下に挙げていきたいと思います。

・ほんらい高級品の唯一のセールスポイントであった「ステータス力」というのが今日では殆どの多くの庶民でも身につけていることからそのステータス力が低下していること。つまりブランドにとって最も致命的な「没個性化」が起こっている

・ニセモノいわゆるバッタものが多く流通することでブランドイメージが傷ついている

・企業のスピリッツ、伝えたいメッセージ、企業として社会に根付かせたい価値が伝えきれていない

素人の僕が考えたものではありますが、おそらく以上のような要素が組合わさってヴィトンのブランドイメージは低下して、最初に紹介した男女のような考えを持つ人が形成されているのではないかと感じます。

しかし、現実として企業側としては購入してくれる顧客は誰であっても歓迎すべき存在であることは事実です。しかし、これからの時代はいずれ「顧客までもブランディングできる」企業が生き残る事ができるのではないでしょうか?




最近、日本では洋楽を聴く人が少なくなったと耳にします。確かに、僕の周りを見ても洋楽を聴いている人は少数なような気がします。しかし、よく見ると本当に洋楽を聴く人は減っているのか?とも思います。例えば、女性達の間では今韓流アイドルであるKARAや少女時代そしてレディ・ガガなどのアーティストのファンが多くいます。そう考えると洋楽というジャンルでいえばそんなに減ってはいないように感じます。しかし、音楽評論家などの人達は一体なぜ「洋楽を聴く人がいなくなった」ということを問題視しているのでしょうか?

洋楽にもいろいろなジャンルがあります。また、音楽を楽しみかたも人それぞれあります。音楽をあくまで暇つぶし的なモノ、ファッション的なものとして消費しているひともいれば、音楽を生きていく上でなくてはならないという位置づけをしている人もいます。そして、おそらく問題として挙げられるのが前者の音楽をファッション的なモノとして消費している人達なのでしょう。彼らの何処に一体問題があるのでしょうか?

改めてもう一度強調しておきますが、音楽の楽しみ方は人それぞれあって当然だと思います。気分が落ち込んだ時や失恋した時にこそ音楽を楽しむ要素を見いだす人もいていいわけです。それはもう本当個人の自由なのでいちいち口を出す必要はありません。しかし、それを前提として果たしてそれは本来あるべき姿なのか?といわれれば違うような気がします。特に今の多くの人々に音楽に限らず上のようなライフスタイル、価値観が共通に感じられます。

つまり、何も考えずにただ、流行に流された行き方に満足している人があまりにも今の時代多すぎるのではないか?ということを僕は見ていて感じます。勿論、流行に乗る事が自体が悪いということではありません。実際に僕自身新しいものが好きで、町で流行っているものがあれば直ぐに敏感に反応します笑。

では何が問題なのか?例えば、KARAが好きな女の子がいたとして、彼女がKARAを好きになったキッカケとしてみんなが聴いていたからということは全然問題ではありません。そこでキッカケは何にしてもKARAに共感した要素を自分なりに自覚して心から好きになったのであればそれはそれでいいのです。しかし、いわゆるKARAや少女時代やレディ・ガガなどの大衆ミュージック、エンターテイメント的要素がかなり強い音楽だけしか聴かない人の多くに共通するのは音楽に対して「使い捨て」として消費しているところにあると思います。彼らは仮にどんなに共感するアーティストに出会ったとしてもそれだけしか聴こうとしません。1、2年経てばもう二度々とその曲を聴くことはないでしょう。つまりあくまでファッションなのです。飽きたら捨てる。そして、自分の価値観にフィットするものにしか関心をしめしません。狭い世界だけで満足しています。果たしてこのような貧しい環境で満足していていいのでしょうか?

僕は思います。確かに、以前は僕もビートルズやストーンズなどのイギリスのロックしか聴きませんでした。でも最近思うのですがやはり世界にはもっとたくさんの素晴らしい音楽があって自分の小さな世界、自分が理解できるだけのものにしか目を向けないというのはあまりにも愚かであると気づきました。僕は別にKARAやガガを聴いている人達に無理して他の音楽を聴いて欲しいとは思っていません。別にそんなことに関与する権利は誰にもありません。しかし、ただ単にあまりにも音楽にしても他の事に関しても人々の考え方が健全なものではないような気がします。どんなモノにしても「使い捨て」として消費している感が見受けられます。使い捨てするものは本来別になくたって構わないモノなのだと思います。一時的なニーズを満たしてくれればあとはもう必要ないのです。果たして、音楽は本来そのような使い捨て商品なのでしょうか?もう少し聴く側もそして創る側も原点を見直すべきなのではないでしょうか?

僕が音楽を聴く理由は今までにない最高の感動、体験をさせてくれるからです。そう思うと今の日本の音楽シーンあまりにも酷すぎます。ま~こんなこと昔からず~~~っと言われてますけどね笑。いつか、今はマイノリティである素晴らしい日本のアーティスト達がいずれ一般の人達からも共感される日が来るのを楽しみにしています。