日曜日のキジバト -16ページ目

日曜日のキジバト

生成AI/創発/しごでき(にあこがれる)/うまくいく単純なアルゴリズム/読書/職場のストレス

「ちゃんとやってるように見えるかどうか」が、
いつのまにか仕事の中心になっていることがある。
実際に手を動かすことよりも、
“やってる感”を出すことに時間を取られてしまう――
そんな瞬間に、ふと疲れを感じる。


報告のタイミング、返信の早さ、会議での発言、
SlackやTeamsでの“アクティブさ”。
どれも仕事の一部ではあるけれど、
「目に見えるアピール」だけが評価に直結するわけではない。

本質的な価値は、たとえ静かに、
目立たない場所でコツコツ積み重ねた作業であっても、
ちゃんと誰かの役に立っていることにある。


「ちゃんとやってる感」は、ある意味で防衛本能だ。
怠けていると思われたくない、
評価を落としたくない、
信用を失いたくない。
その気持ちは痛いほどわかる。

でも、それに縛られすぎると、
本当にやるべきことが見えなくなってしまう。
そして、消耗していく。


一見、手が止まっているように見えても、
頭の中では考えがめぐっていることもある。
逆に、常に何か作業をしているように見えても、
本質的な前進がないこともある。

見た目に惑わされず、自分なりの「本当に大切なこと」に集中する時間を
日々の中に、少しでも確保できるようにしたい。


もちろん、完全に“ちゃんとやってる感”を手放すのは難しい。
社会の中で働く以上、ある程度は必要な鎧でもある。

でも、100%その鎧を着ていたら、
息苦しくなるのは当たり前だ。

少しだけ脱いでみる。
「今日はこれだけやればいい」と決めて、
誰に見せるでもない前進を自分で認めてあげる。
それだけでも、働き方は変わっていく。


“ちゃんとやってる感”に振り回されず、
自分なりのリズムで進むこと。
それは、効率やスキル以前の、大切な仕事術なのかもしれない。

「大丈夫です」と言い切れないまま、今日も仕事に向かう。
体調も、気分も、まあまあ。悪くはないけれど、決して万全とは言えない。
でも、誰かに「大丈夫ですか?」と聞かれたとき、つい反射的に「はい」と答えてしまう。
そうやって、なんとなく日々は流れていく。


本当は、少し疲れている。
何かを我慢しているわけではないけれど、すべてに納得しているわけでもない。
でも「ちゃんとやらなきゃ」「迷惑をかけたくない」という気持ちが先に立つ。
それは弱さではなく、ある種の誠実さでもあるのかもしれない。


「大丈夫」と言い切れない日々を送ることに、
どこかで罪悪感を抱いてしまう。
でも、人は常に完璧な状態ではいられない。
不安や迷いを抱えながら、それでも続けていくことこそが、
“生活をする”ということなのだと思う。


大丈夫じゃなくてもいい。
むしろ、「なんとかやっている」くらいが、現実にはちょうどいい。
その中で、少しずつ、自分なりのペースやリズムができていく。
疲れたときは立ち止まりながら、時には少し休みながら。


「大丈夫じゃないかもしれない」と認めることで、
少しだけ心が軽くなる瞬間がある。
言葉に出さなくても、そう感じるだけで、自分への負荷が和らぐ。


“言い切れない”ままでいい。
それでも続いていく日々のなかに、
ほんの小さな安心や、静かな満足が見つかる日がある。


また明日、「大丈夫ですか?」と聞かれたら、
そのときの自分なりの言葉で、静かに答えられたらいい。
それが「はい」でも、「まあ、なんとか」でも。
それだけで十分、生きている証になる。

どれだけ頑張っても、評価されないことがある。
思いのこもった仕事が、数値で測られないことがある。
誰かの役に立った実感があっても、それが「成果」として記録されないこともある。

そういう瞬間に、ふと「このままでいいのか」と考えてしまう。
まるで、評価されなければ存在していないかのような錯覚に陥る。


でも、よく考えてみれば――
人が生きていくうえで、すべてを評価に還元できるわけではない。

きちんと休むこと、静かに考えること、
誰かにやさしくすること、ただ丁寧に暮らすこと。
そうした行為は、スコアにもランキングにも現れないけれど、
間違いなく「生きること」を支えている。


「評価されること」は、たしかに自信をくれる。
でも、それがなければ価値がないと思い始めると、
人生の大半が“無価値な時間”に見えてしまう。

そんなときは、そっと距離を取ってみる。
評価とは別のところで、自分が何を大事にしてきたのかを思い出す。
評価されなくても、自分が納得できる行動があったことを認めてみる。


仕事で、SNSで、あるいは家庭の中で、
評価は変わるし、文脈によって形を変える。
その一方で、「生きていること」そのものは、
もっと静かで、確かなものとして続いている。


評価されることと、生きていくことは、別の話だ。
そのことを忘れなければ、
たとえ誰にも見られていなくても、
自分の歩みを止めずにいられる。

そしてその先に、思いがけず届く評価もあるかもしれない。
けれどそれは、生きる理由の“おまけ”であって、目的ではない。