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日曜日のキジバト

生成AI/創発/しごでき(にあこがれる)/うまくいく単純なアルゴリズム/読書/職場のストレス

誰にも知られずに続けていることがある。
それは、褒められることもなければ、
結果として見えるまでに、ずいぶん時間がかかる。

 

たとえば、朝のゴミ出し。
資料の誤字をこっそり直しておくこと。
人が嫌がるような小さな確認作業。
あるいは、日記や瞑想、体調管理。

 

誰かが見ているわけでもない。
評価されることも、すぐに何かが変わることもない。
それでも、なぜか自分の中では「やっておきたい」と思える。

 

そういう努力は、
時間をかけて、まわりまわって効いてくる。

周囲から見ると、ただ「安定している人」に見える。


でも実際には、
地道な習慣の積み重ねがその土台を支えている。

声を上げることなく、自分のペースで続けていく。
調子の悪いときも、無理のない範囲で続けていく。

 

ふとしたときに、「そういえば、最近うまく回ってるかも」と気づく。
それが「じわじわ効いてきた」瞬間だ。

 

努力とは、目立つ必要はない。
評価されなくても、誰かに気づかれなくても、
自分を少しずつ変えていく力になる。

 

すぐに報われないからこそ、長く続く。
すぐに効果が見えないからこそ、深く効く。

気づかれない努力は、
静かに、でも確実に、人生を支えている。

日々の生活が一定のリズムを持って回っているとき、人はしばしば「このままでいいのか」と思い始める。これは現状への不満というよりも、変化が起きないことに対する本能的な違和感、あるいは将来に対する漠然とした不安によるものだ。

 

こうした感覚は、特に大きな転機がないまま年を重ねる人々に共通して見られる。仕事・家事・SNS・趣味といった日常の要素は、形式としては変わらずとも、そこにある感情や身体感覚には微細な変化が起きている。だが、それが明確な成果や実感として表れにくいため、「何かを変えるべきか」「どこかに向かっているのか」という問いが頭をもたげる。

 

一方で、「変えたい」と強く思うほどの不満があるわけでもない、という状況もある。そうした場合、「静かに日々をつづける」という選択は、あえて動かないという一種の戦略にもなりうる。無理な目標や改革ではなく、小さな関心を丁寧に拾い、淡々と続ける行動の中にこそ、安定と持続の力がある。

 

実際、SNSや周囲の情報に触れる機会が多い現代では、「他者の変化」に触れることで、自分は停滞しているのではという錯覚が生まれやすい。しかし、比較対象のある生活は、本来の自分のペースを見失わせるリスクも含んでいる。

 

「このままでいいのか」という問いに、明確な答えを出さないままでも、生きていくことはできる。そして、むしろ答えを求めすぎずに、静かに、しかし確かに日々を継続していく態度こそが、変化に耐えうる基盤になる可能性もある。

 

季節の変化や、日々のわずかな違いに気づけるようになるのは、そうした静かな持続のなかにある。外的な変化はなくとも、内面で何かが育っているかもしれない——そう思えるだけでも、日々を続ける意味は見えてくる。

週末の午後、駅から少し離れた住宅街を歩く。
車の音も人の声も、遠くでぼんやりと響いているだけ。
風に揺れる木の葉の音と、自分の足音だけがはっきりと聞こえる。

そのときふと、「この静けさが、自分を守ってくれている気がする」と思った。


普段は仕事のこと、人との距離感、先の見えない未来――
頭の中はいつもなにかしらの思考で埋め尽くされている。
けれど、この静けさの中にいると、考えすぎることができない。
余計なものが、すっと引いていく。

静けさは、何も語らないけれど、何も否定しない。
自分の状態がどうであれ、黙ってそこにいてくれる。


誰にも気づかれなくてもいい。
がんばっていることを誰かにわかってもらえなくても、
こうして穏やかな場所にいられるだけで、すこしずつ自分が戻ってくる。

静けさがもたらすのは、空白ではなく回復だ。
なにかを手に入れるためではなく、余計なものをそぎ落とすための時間。


にぎやかさや達成感が自分を支えてくれるときもある。
でも、何かに疲れてしまったときに、
そっと背中を支えてくれるのは、こういう静けさなのかもしれない。

それは、逃げ場ではなく、安全地帯。
自分の輪郭が、ぼやけずに済む場所。


この静けさが、今の私には必要だったのだろう。
そして、この静けさのなかにいるときの自分を、少しだけ好きになれる気がした。

「大丈夫」とはまだ言えないけれど、
今日はこれでいい。