仙台方面から夜の高速道路を北上し、“復興道路”と言われた三陸沿岸道路に乗ったのは、令和3年(2021)にようやく全線開通成ったこの高速道路を走りたかったからでした。
カーナビを設定した本吉PAにひとまず入り、ここで車中泊して朝を迎えたら、きれいでコンパクトなこのPAから太平洋が見えていました。
時刻は朝7時ごろ。
ここはもう宮城県の最北、気仙沼市内です。
何度か訪ねた気仙沼市ですが、来るたびにまちがきれいになっています。
漁港のまちだから朝も早かろうと思い、朝営業している食堂を検索したら、「鶴亀食堂」という食堂がヒットして評価も高いもよう。
しかもここ、なんと銭湯も併設しているとか。これはさっそく行ってみねばなりません。
気仙沼 鶴亀の湯・鶴亀食堂 (kesennuma-tsurukame.com)
と、やってきたら、なんだあの行列…
GW中とはいえ早朝からこの繁昌ぶり。他に朝から営業している店舗もありましたが、同様に並んでました。
気仙沼は観光地として人気が増しているようです。
11年前、初めて訪ねたときの風景が夢のようです。あの気仙沼が今はこれほど賑わっている。
鶴亀食堂はいったん諦めましたが、気分は全然悪くありません。
代わりにコンビニで購入したご当地モノを車内でほおばって朝食とします。
(´~`)モグモグ
なにせ今回の気仙沼旅のメインテーマは「熊谷家の一族」ですからね。陽のある時間は惜しいのです。
はい。
では、そろそろ参りましょうか。
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気仙沼市は「熊谷」姓の多いまちで、市内を歩けばあちこちで「熊谷」の入った屋号や表札を見かけます。
その多くは源平の昔、『敦盛』の故事で有名な熊谷次郎直実の孫・平三直宗を先祖と仰ぐ人々だそうで、直宗は承久の乱(承久3年:1221)で鎌倉へ馳せ参じて戦功をあげ、貞応2年(1223)、気仙沼へ下向し赤岩城を築きました。
それが、気仙沼「熊谷家の一族」のはじまり。
熊谷一族はその後、石巻(宮城県)から北上してきた葛西氏と激しく争ったものの、南北朝時代の正平18年(1363)、直宗から数えて六代目の熊谷直政のとき葛西氏に従属。領地を削られるかわりに気仙沼支配を許され、葛西氏配下の国衆となりました。
やがて本拠の赤岩城から枝分かれした分家が各々に支城を築いて代を重ね、戦国時代を迎えます。
中世における気仙沼の地形には奥深い入り江があり、これからご紹介するいくつかの城館のすぐ麓までも、入り江の端が伸びてきていたようです。
こうした入り江は近世に入ると新田開発などで徐々に埋め立てられ、現在は市街や道路となってもう見られない訳ですが、町なかには今も往時の名残を留める地形が見られます。
例えばこちら。
長崎館跡の旧大手筋と思われるこの場所は、東側(写真右手)が大きく落ち込んで窪地のようになっています。
今は住宅地の坂を登った小高い丘のようですが、かつてはここらあたりまで海水が入り込み、おそらく長崎館の前面には浦が形成されていたのでしょう。
駐車できそうなスペースに車を停めたら、すぐ近くにほらやっぱりありました。
明らかに土塁の跡です。
ここは城跡としても史跡としてもあまり注目されていないのか、案内板もなければ情報も希少。
地形で往時の名残をしのぶほかありません。
奥に進んでみました。
このあたりはいったん地面が下がってますね。
堀の跡かな…。道なりに歩いてみましょう。
お、ありましたありました。
曲輪と切岸、それに堀切の跡もしっかり残ってますね。想像以上にいい残存状態です。
どうやらこの堀切の上が主郭っぽいので登ってみましょうか。
ほほお…
いや、ただの草地と言うなかれ。明らかに削平されたこの小さな平地は、かつての長崎館の主郭。
戦国の昔、兄を滅ぼした分家の男が、本家に取って代わって采配を揮った場所です。
天文2年(1533)。
気仙沼熊谷家12代・熊谷直景が謀反の嫌疑で葛西稙信の討伐を受けたとき、直景の弟・直光は支城の長崎館を任されていましたが、討伐側に与して本家たる赤岩城に攻め込みました。
ときに兄・直景36歳、弟・直光35歳であったと云います。
―直光為先鋒将震武威接戦、直景敗伏誅當族咸殺戮之、稙信賞直光之忠貞、以直景之領地加賜…(『熊太系図』)
葛西稙信は熊谷直景を討伐するにあたり、直光を先鋒として兄を攻めさせた。その後、兄の領地を与えて知行させた…
つまり葛西氏は熊谷家を御しやすくするため、弟を使って骨肉の争いをけしかけたのでしょう。戦国あるあるの手法です。
赤岩城を落とした直光は兄を殺し、その家族郎党までも撫で斬りにして、己が熊谷の当主となりました。
さらに空城となった赤岩城には自分の手下を入れて支城とし、以後、自らの居城である長崎館を熊谷の本拠としました。
分家筋が本家を滅ぼして取って代わった訳です。
あ、すいません間違えました。
本稿とは特に関係ありません。
「兄殺し」の男が家督を盗った事態に反発を覚えた一族も多かったようです。
とはいえ主家たる葛西氏の威光あるうちは表面的には沈黙し、気仙沼の小さな天地で各々城館に割拠して、熊谷一族は45年にわたり睨み合うこととなります。
主郭の下に平地があったので、ぐるりと回ってみました。
この地形からすると、おそらくこの向こう側には…
お、やっぱり。
見事な切岸と曲輪跡で、どうやら虎口の跡らしき箇所もありますね。
あの段上はおそらく二の曲輪で、先程の主郭につながります。が、現在は畑地になっていたので写真は遠慮しておきましょう。
天正2年(1574)3月。
朝日館(南三陸町)で本吉重継の反乱が勃発。
反乱はおよそ1ヶ月ほどで終息するのですが、葛西晴信が催した鎮圧軍に熊谷家も加わって帰陣しています。
が、その直後。
熊谷一族のひとり中館の熊谷直平が兵を挙げ、何を思ったか長崎館、赤岩城、月館といった同族の城館を手当たり次第攻撃しはじめました。
直平の挙兵は結局何がしたかったのかよくわからず、ヒステリックな行動にさえ見えます。
案の定、一族の反撃で袋叩きにされて中舘は落城。直平も討たれて終わりました。
が、これをきっかけとして、くすぶっていた火が燃え上がるように一族の不和が表面化。
残る長崎館、赤岩城、月館が三つ巴で相争う事態となるのですが、そのあたりはまた次回、【熊谷家の一族②】でのお話といたしましょう。
訪れたところ
【長崎館跡】宮城県気仙沼市館山1丁目2