戦国時代、熊谷一族が支配した気仙沼には、彼らが住んだ城館跡が点在しています。
主なところでは赤岩城、中館、月館、それに前記事で登場した長崎館を加えた4城館あたりでしょうか。
そのうち赤岩城、中館、月館の3城館は「松川三館」と呼ばれ、今も気仙沼市に多い「熊谷」姓のふるさとでもあります。
航空写真でいえばこんな感じ。
馬蹄形の地形で山のところに城館が3つ並び、平地の部分は昔は入り江だったそうです。
しかし隣の城からイビキでも聞こえてきそうなこの距離感。近いですねえ。
築城の順でいえばまず赤岩城ができて、その後、本家から分家がわかれる折々に中館、月館、長崎館と築かれていった模様です。
ということで、まず赤岩城跡にやってきました。
前記事でもご紹介した通り、『敦盛』の故事で有名な熊谷次郎直実の孫、平三直宗は承久の乱(承久3年:1221)で戦功をあげ、貞応2年(1223)、気仙沼へ下向。本拠地として赤岩城を築きました。
なので、ここが気仙沼熊谷一族の故地ということになるでしょう。
やがて石巻(宮城県)の葛西氏に圧迫されてその配下となった熊谷家は、天文2年(1533)、12代・熊谷直景が謀反の疑いで葛西稙信の討伐を受ける事態となりました。
このとき直景の弟で長崎館主だった熊谷直光は討伐側に与して赤岩城に攻め込み、兄を滅ぼします。
直光は空城となった赤岩城に家来を入れ、以後、長崎館が本家に取って代わる訳です。
続いて中館跡。
築城年代は諸説あり、建武年間とか永享年間とか云われますが、ここが脚光を浴びるのは天正2年(1574)4月。
中館の主・熊谷直平が突如挙兵して、赤岩城、月館、長崎城らを手当たり次第に攻撃。直平は当時60歳を超えていたそうで、『気仙沼市史』では「長崎館が一族の枢軸を握っているのを腹立たしく思ってきたのではないか」と推測していますが、別に根拠はありません。
一族みな敵に回した直平は、結局は袋叩きに遭って討死。中館には長崎館から一族の者が入り、直平の系統で生き残った者はのちに伊達家に仕えています。
最後に月館跡。
周囲を崖に囲まれた松川沿いの小山を占め、築城年代は建武年間とか文明13年(1481)以降とか伝わります。
一説には11代・熊谷直定の長男でありながら、母の身分が低かったため庶子とされた直政という者が初代と云い、だとすると実際は享禄年間(1528~32)のあたりかも知れません。
天文2年(1533)。
12代・熊谷直景が謀反の疑いで葛西氏の討伐を受け、長崎館の直光が赤岩城を攻め落とした事件をきっかけに、熊谷一族は内訌状態に陥りました。
葛西氏の威光を盾に、本家に取って代わった“兄殺しの男”、直光。その本拠地である長崎館と、彼が手に入れた赤岩城は直光の一派だったでしょう。
中館と月館はそれに反発しつつ表面的には静観していました。が、中館は上記の通り、天正2年(1574)に暴発して陥落。
残るは月館のみ。
この時点で長崎館による熊谷家統一、そして気仙沼統一は目前となっていました。
では月館探索時の様子もご覧頂きましょう。
ということで、登ってまいりました月館跡です。
案内板に見える登城口は私有地みたいな所にあり、今は荒れて通行困難とか。
今回は地元の方に教わった別ルートを辿って、荒れた竹林の中の道を行くこと約20分。
どうやら曲輪らしき遺構が見えてきました。脇には古い石積の跡もありますね。
曲輪跡に出てきました。主郭を守る堀跡と切岸が…
と思ったら、切岸を覆う枯枝を取り除くと下に石積みが埋もれていました。
なんとこの切岸は総石垣だったようです。
とはいえ石は小さく積み方も未発達で、もしかすると築城当時のものかも知れません。
藪に埋もれつつある標柱は主郭跡に建っていました。
伊達藩の時代に記録された『仙臺領古城書上』によると、
―築館城、東西四十間、南北二十間、館主熊谷左近…(『仙臺領古城書上』)
築(月)館城の大きさは東西40間(およそ73m)、南北20間(同36m)、城主は熊谷左近と記されています。
さほど大きくはなく、コンパクトな城館だったようです。
緩斜面に切られた堀切跡。堀底道を兼ねていた雰囲気もありますね。
いや、思ってたより遺構の残り具合がいいです。
はい、降りてきました。
城の麓の松川橋から顧みつつ、月館跡とお別れです。
中館の陥落から4年が経った天正6年(1578)12月。
月館の主・熊谷直澄が兵を挙げ、長崎館の熊谷直良と合戦に及びました。
これは松川の戦いと呼ばれるので、おそらくこのあたりで行われたのでしょう。
ということは、想像するに月館方は籠城し、長崎館の討伐軍を迎え撃ったのかも知れません。
結果、月館の直澄が勝利し、長崎館の直良は討死したと云いますから、一発逆転勝利だったと思われます。
40年以上続いた熊谷家のバトルロイヤルは月館の勝利で幕を閉じました。
が、天正18年(1590)。豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏は改易。それに伴って気仙沼の熊谷一族も没落し、月館も中館も赤岩城も廃城となりました。
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という訳で、気仙沼「熊谷家の一族」旅をご覧いただきました。
4つの城館を巡り歩いて戦国史に思いを馳せたあとは、現在の気仙沼の観光拠点「ないわん」でまったりして行きましょうか。
HOME - ないわん | 気仙沼地域開発 株式会社 (naiwan.info)
ご存じの通り、気仙沼はあの東日本大震災によって甚大な被害を受けました。
魚市場があるこの内湾地区も壊滅的な状態でしたが、徐々に復興して、今や魅力的なショップが集まる賑やかなエリアに変貌しています。
そのうちの1店、和菓子の「紅梅」さんに入ってどら焼きを買ってきました。
ご当地キャラ「ホヤぼーや」の焼き印入りです。
さっそく「ないわん」内のイートインでジュースを買って、一緒にいただきましょう。
宮城県気仙沼 昭和27年開業 和菓子店|紅梅(こうばい) (kasi-koubai.com)
(´~`)モグモグ
これ、クリームチーズの入ったどら焼きなんですけどね。あんことの相性も良くて甘すぎず、おいしいです。
そうそう。
戦国の気仙沼を支配した熊谷一族はいったん没落しましたが、生き残った人々は江戸時代に入ると村々の庄屋などに取り立てられて、荒廃した村々の再建にあたったそうです。
そして熊谷一族だけでなく、気仙沼に所縁ある多くの人々が、今またまちを復興に導いたということになりましょう。
訪れたところ
【赤岩城・月館・中館】宮城県気仙沼市松川
【気仙沼商業エリアないわん】宮城県気仙沼市南町海岸1‐14
【亀の子もなか本舗 紅梅】宮城県気仙沼市魚町2丁目1‐13