秋の陽はつるべ落とし。まして冬になれば、時刻が17時をまわればもう暗くなりかけます。
昨年末、延岡城(延岡市)の近くに「超」がつくほど貴重な銭湯があると聞いた私は、城の南を流れる大瀬川方面へ歩くこと約7~8分。
どうもここら辺りのようなんですが…
うわ、あった!
な、なんだこの外観は。
すでに文化財の雰囲気さえ漂わせるこの建物こそ、「超」貴重なレトロ銭湯、喜楽湯です。
さっそく入ってみましょう。
引用:喜楽湯(銭湯/風呂/きらくゆ/宮崎県延岡市本町) | のべおかん(延岡市情報サイト) (nobeokan.jp)
うおお…まさにハンパないノスタルジック感。
創業はなんと昭和24年(1947)。おそらく色んなものが創業当時のままです。
施設内の写真も記録しておきたい気分でしたが、先客がおられる中でそうもいきませんから上記サイトなどご覧下さい。
ということで。
今回は喜楽湯の前に訪ねた延岡城のことを思い出しておきます。
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はい、延岡城の北大手門にやってきました。
脇を固める石垣に多くの刻印が見えるのは、最初の城主たる高橋家時代のものではなく、江戸期に延岡藩主となった有馬家や内藤家時代の手伝い普請の痕でありましょう。
宮崎県延岡市あたりはかつて「縣(あがた)」と呼ばれ、当地にはもともと中世の城があったと云われます。
とはいえ、いまに残る延岡城と城下の礎が築かれたのは慶長8年(1603)、日向延岡5万3千石の大名だった高橋元種によってでありましょう。
元種は筑前国の名族・秋月家の出身ながら幼少時に高橋鑑種の養子となり、豊臣秀吉による九州征伐(天正5年:1587)の際に降参して延岡の地を与えられていました。
そしてこちら。
城郭ファンの間ではもはや延岡城名物たる「千人殺し」の石垣です。
角の根石をひとつ抜き取ると崩れるって伝説がありましてね、崩れたら千人くらい下敷きになって死ぬだろうってことで名付けられたようです。
こうして見上げると相当な高石垣で、確かにいま崩れてきたら、千人はさておき私くらいは亡き者にできそうです。
しかし物騒なネーミングですよねえ。まあ戦国の城なんて存在自体が物騒なんですがね。
そういえば、初代城主・高橋元種もなかなか物騒な人生を送った人ではあります。
慶長5年(1600)。
天下分け目の関ヶ原の合戦で元種は西軍に付き、兄の秋月種長らと共に大垣城(岐阜県)に入っていました。
当時、大垣城には比較的小身の諸将があつめられ、石田三成や宇喜多秀家ら西軍主力が出陣したあとの守備を任されていました。
9月15日。
関ヶ原の本戦で西軍壊滅の知らせに、大垣城の守備隊諸将に動揺が走ります。
城はすでに東軍に囲まれており、このとき三ノ丸を守っていた相良頼房、秋月種長、そして高橋元種の3将には、東軍から調略の手が伸びていました。
9月17日。
3将は「相談」と称し、二ノ丸を守る熊谷直盛、垣見一直、木村由信・豊統父子を三ノ丸に招いて一網打尽に謀殺。
昨日までの同志4人の首を手土産にして東軍へ投降した3将は、それぞれ本領安堵。大垣城はほどなく落城しました。
上左は二階門櫓跡。
上右は二階櫓の跡。
名前が紛らわしいですが別々の遺構で、いずれも本丸へのルートを守る重要ポイントにあります。
本丸に建つ洋装サーベル姿の銅像は、延岡藩最後の藩主・内藤政挙像。
廃藩置県後の延岡の、教育や殖産興業に功績があったとのこと。
こちらは三階櫓の跡。
江戸期には天守の代用とされた時期もあったそうで、案内板には櫓が建っていた頃の木組みがわかりやすく示されています。
三の丸下の石御門跡。
大手に対する搦手の位置にあります。
関ヶ原合戦で寝返り、同志を殺して延岡へ帰還した高橋元種は、しかし慶長18年(1613)。
坂崎直盛の家中で罪を犯した武士をかくまったかどで幕府に訴えられ、吟味のすえ改易。
身は奥州棚倉(福島県)へ流されて、翌年10月、棚倉で死去しました。
その後、延岡城は延岡(縣)藩の藩庁となり、有馬家、三浦家、牧野家と藩主家が移りかわり、最後の内藤家が8代続いて明治維新、廃城となっています。
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しかしまあ、アレですな。
威勢のいい 「千人殺し」の石垣よりも、私には血も涙もない「4人殺し」のほうがよほど怖ろしいですわ。
…なんてことも考えつつ、この灯りがこぼれる戸ガラスの昭和感ですよ。
なんちゅう懐かしさでしょうか。Z世代にはわからんでしょう。
私なんざ亡きじいちゃんばあちゃんちを思い出してついしんみりしちまいますが、今回はついさっき行ってきた延岡城のことを思い出しておきました。
風呂から出たら18:00すぎ。一気に冷え込む冬の暮れです。
カメラの性能のお陰で明るく見えてますが、あたりはだいぶ暗くなっていて、町の灯りが早くつき始めるのもこの季節ならではでしょう。
高橋元種が礎を築いた延岡の城下町に、今なお残る戦後の銭湯。
「千人殺し」も「4人殺し」も、ここでは湯舟につかって思い起こす旅の風情です。
いつまであり続けてくれる銭湯かわかりません。
初めて歩く城のあとここに入浴できた僥倖をかみしめつつ、私のお城めぐりとご当地めぐりはなお続くのでありました。
訪れたところ
【延岡城跡】宮崎県延岡市東本小路
【喜楽湯】宮崎県延岡市柳沢町1丁目4‐8