江美城 落城悲話と江尾十七夜 | 落人の夜話

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城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

鳥取県の西部、岡山県との県境にあたる奥大山に江府町という町があって、読みは「こうふ」。

昭和28年(1953)に3つの町村が合併して発足し、町名は町内を流れる4つの川(日野川、俣野川、船谷川、子江尾川)にちなんで名付けられたとか。

 

人口約2500人(現在)。

静かな町で、中心部にあるJR伯備線「江尾駅」前も、私が訪れた休日の昼間には人ひとり見かけませんでした。

 

 

その駅前広場から歩いてすぐ、住宅の間を抜けていくとこんな感じで、通の方ならもう嗅ぎ取られることでしょう。

すでに城跡の雰囲気が出てきてますよねえ。

 

そう、写真左手へ登ってゆく道は折れを伴う横矢掛り。壇の上に建つ家が櫓のように見えていたら、あなたは立派な城マニア。

今から向かうのはあの上に残る江美城跡です。

 

 

上の段公園に到着。

その名の通りここは曲輪跡で、後述する当地の夏祭り「江尾十七夜」の主会場でもあるようです。

この日は公園に車を停めてる人もいたのですが…停めていいのかどうかは知りません。

 

 

続いて城跡西面にあたる坂を登り、本丸方面へ向かいましょう。

 

 

 

ほどなく天守風建造物が出現。

むろんコンクリ製の観光天守で、八幡丸と呼ばれる曲輪跡の隣に建ってます。

古い案内を見ると入場料は大人100円とあり、昔は資料館として中に入れたようですね。

 

 

江美城は文明16年(1484)、蜂塚氏の初代、蜂塚安房守(諱不明)の築城とされます。

その後2代・三河守、3代・丹波守、4代・右衛門尉義光)と続き、約80年にわたって当城の主であり続けました。

 

蜂塚氏の沿革は定かではないものの、当初は伯耆国守護・山名氏に属する国衆だったようです。

それが大永4年(1524)、出雲の尼子経久による伯耆侵攻(大永の五月崩れ)前後に尼子氏の麾下へ入り、代を重ねて4代・右衛門尉に至っています。

 

しかし永禄5年(1562)、毛利元就の出雲攻めが始まると、若年の当主(尼子義久)に不安を抱いていた尼子配下の国衆らは雪崩を打って毛利方へ。

蜂塚右衛門尉も流れに乗って寝返ったものの、直後に再び尼子方へ帰参したのは、寝返り組のリーダー的存在だった本城常光の誅殺に動揺したためと云われます。

 

かくして江美城は、尼子討滅に狙い定めた毛利勢の矢面に立つこととなりました。

 

 

 

上左:本丸と八幡丸の間の堀切。

上右:本丸から江尾の町並みを望む。


本丸と八幡丸の間に切られた明瞭な堀切を通り、畑となっている本丸へ。

本丸からは先ほどまで歩いていた江尾の町並みが見渡せます。


山あいの静かな町です。

いつも思うのですが、まことに城めぐりはご当地めぐり。この趣味がなければ、私はこの町を知ることも見ることもなく生きていたでしょう。

いい趣味を持った…と浸りつつちょっと休憩(⁠^⁠^⁠)


 

 

こちら本丸の東端に残る土塁と櫓台。

ここは見どころで、しっかり凹凸と石垣の跡が残っています。

 

 

傍らの案内板より。


江美城は南北を船谷川、南谷川にはさまれた舌状台地の先端に占地し、陸続きの側を堀切で仕切ったいわゆる“後ろ堅固”の縄張り。

川をはさんで両側の台地にも「銀杏の段」「兎丸」と呼ばれる曲輪跡が残っています。


 

櫓台の外側はご覧の通り大規模な堀切跡。

谷筋を利用した可能性もありそうですが、ここで陸続きの丘と城内を仕切っていたようです。



永禄7年(1564)8月5日。

江美城下に押し寄せた毛利勢はおよそ3千。

采を取るのは吉川元春が右腕と頼む猛将・杉原盛重で、夜に入って山麓の居館に放火するも、城方はすでに山上へ移動して無人であったと云います。

 

手勢わずか500ほどの蜂塚勢は籠城とともに、月山富田へ使者をとばして尼子義久に援軍を要請。

しかし寄手の攻撃は急をきわめ、左右の山々から散々に鉄炮を撃ちかけられた城方は逃げることもできず、たちまち本丸に追い込まれました。

 

「殿よ、もはや尼子に義理を立てても無益です。降参しましょう」

喚声と銃声鳴りやまぬ中、家来の進言を聞いた右衛門尉は語り始めました。

 

「わしは先年、代々誼を通じた尼子を裏切って毛利に乗り換えた」

「……」

「それだけならまだしも、判断に迷ってまた尼子に出戻った。まったく節操のないことで、我ながら恥ずかしく悔やんでいる」

 

―今尼子滅亡可在邇ト見テ、復タ弱キヲ捨テ強キニ附カン事、人間ノ色身ヲ受ケタル者ハ不成所ニシテ、禽獣夷狄ノ心トヤ云フヘキ…(『陰徳太平記』)

 

「今また尼子の滅亡が近いとみて、弱きを捨て強きに付こうというのは、もう人でなく禽獣のすることだ」

 

―命惜シク妻子モ不便ニ思ハンズル者共ハ、悉ク毛利家ニ降リ候ヘ、士ハ渡リ物也、何ソ恨ミトモ思フベキ…(同上)

 

「ただそれは我が身一人のこと。命が惜しい者、妻子ある者は毛利に降ってよろしい。武士は渡りもの、恨みには思わない」

 

8月8日。

城主、右衛門尉自害し落城。自害の前に城兵の助命を嘆願するも許されず、城兵は全滅しました。

また城主の妻も城を逃れて落ちる途中、捕らえられて殺されたと伝わります。


その後、江尾城は毛利家の持ち城を経て、関ヶ原の戦い(慶長5年:⁠1600)のあと米子18万石に封じられた中村一氏の所領となり、重臣の矢野正倫が城代となっています。

この矢野という人の人生もなかなか注目に値するのですが、脱線になるのでここでは措くとして。

慶長14年(1609)、中村家が改易されると間もなく江美城も廃城になった模様です。



さて。

永禄7年に滅亡した蜂塚氏ですが、その治世は郷民にとって悪いものではなかったらしく、蜂塚一門は製鉄や開墾指導に精を出したと云われます。

また盂蘭盆8月17日の夜には郷民に城内を開放し、踊りや角力を催して夜を過ごすことを許していたそうです。


落城の後、当地では盆になると、蜂塚氏を偲ぶ盆踊りを行うようになりました。

それが「江尾十七夜」の祭りとして今に伝わっています。

 

500年の舞 江尾十七夜物語 | 奥大山物語《鳥取県江府町役場公式観光サイト》 (town-kofu.jp)


このあたりについては、『天の蛍』(松本薫:著)という歴史小説の題材にもなってましてね。

なんとこれ、コミック化もされているそうです。

 

天の蛍特設ページ | 江府町行政サイト (town-kofu.jp)

 

江府町を舞台にしたこれらの作品については町HPに特設ページが作られるなど、町あげてPRされています。

実は私もまだ読めてはいないのですが、こうしたご当地の歴史ストーリーってまだまだ埋もれてるんでしょうねえ。

ご興味のある方はぜひ覗いてみて下さい。

 

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場面変わりまして、こちらは道の駅奥大山

最近、旅先でこうしたアニメキャラをよく見かけるんですが、なまじっかな俳優を起用するより旅情を引き出せている気がします。


株式会社奥大山ドリーム (okudaisen.org)

 

 

ここのご当地ソフトは、地産のブルーベリーを使用したブルーベリーソフトでした。

もちろん即買いでかぶりつきますと、口の中に沁み込むようなあの甘酸っぱさがひろがります。

やはり城歩きのあとのご当地ソフトは格別ですねえ。


いや、話は変わりますけどね(´~`)モグモグ

当ブログには50のテーマカテゴリーを設けてまして、内訳は47の都道府県と「雑記」「外国」「シリーズ」で計50です。

これは「お城めぐりとご当地めぐり」を意識して全都道府県(と数ヶ国の外国)を旅した私が、基本的には旅したエリアごとに整理しようと思って設定したわけですが、改めて眺めるとどうも投稿数にかたよりがありましてね。

 

まあブログを始めたきっかけが東北地方への旅だったんで仕方ないんですけども、「鳥取県」「徳島県」「宮崎県」などのカテゴリーが未投稿「0」のままになってるのを見ると、それらご当地で歩いた城跡や史跡、そこにまつわるストーリーや寸景などがしみじみ思い返される訳です。


なので今回は「鳥取県」の城跡紀行をご覧いただいた次第。

しばらくカテゴリーの「0」をなくす投稿が続くやも知れませんが、今後ともお付き合い願えましたら幸いですm(_ _)m

 

 

 

クローバー訪れたところ

【江美城跡】鳥取県江府町江尾

【道の駅 奥大山】鳥取県江府町佐川908‐3