飯盛山城 木沢長政と三好長慶 | 落人の夜話

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城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

関東にお住いのある城友さんから連絡があって、こんど関西方面へ城めぐりの旅に出てこられるとか。

聞けば大阪府の飯盛山城(飯盛城)なども回るおつもりのようで、私も地元が近い者として情報提供ができればと思い、近況確認がてら車をとばして登ってきたんですよ。

 

そしたら、秋ですねえ。

ルート中、ハイキングやトレイルランニングに汗を流している人たちと何度もすれ違いました。

ここは地元ではちょっと知られたハイキングコースになっているんですよ。

 

 

ということで、いきなりですが現地本丸跡にある縄張図より。

 

今回はまずこの図で城跡の概要と見所をつかんでいただきつつ、写真多めでお送りします(^^)

 

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JR四条畷駅から徒歩15分ほど。

公共交通機関を利用の場合ここが一番わかりやすいと思うんですけども、四条畷神社の奥を右手にまわると登山口があります。

 

ちなみに四条畷神社の祭神は、南北朝の英雄・楠木正成の子で“小楠公”こと楠木正行

父の跡を継いで南朝に尽くし、正平3年(1348)、四条畷の戦いにおいて戦死した由緒から当地に祀られています。

 

 

登山口から30分ほど登ってくるとこの堀切に着きます。

 

ほとんどのハイカーが興味もなく通りすぎるここは、飯盛山城の北端を守る堀切。

お城ファンの皆さまにとってはここからが見所です。

 

私は車で来た都合もあって反対側のルートから登ってきたんですが、こちらのルートは新道が整備され、ほぼ階段登山ながら藪などにはあたらないようです。

この上が二ノ丸になります。

 

 

 

二ノ丸御体塚郭にて。

 

「御体塚」という不思議な郭の名称は、この城で死去した三好長慶の遺体が安置された由緒からでしょう。

写真上左、「登山三百回記念碑」が立つ岩場の上にその遺体が置かれたのだそうです。

この郭の周囲は石垣がしっかり残っていて、かなり堅牢な造りだったようです。

 

 

 

二ノ丸と本丸をつなぐ土橋は、ぜひ下を覗きこんでみて下さい。よく見るとここも石垣が張られています。

ここを越えると本丸エリアです。

 

 

本丸三本松郭、本丸蔵屋敷郭と続く途中にこんなプチ岩場も踏破しつつ、本丸展望台郭へと進みます。

 

 

 

本丸展望台郭に到着。

秋の晴天、ハイカーの一団がキャンプ飯で昼食中でした。

 

展望台の上にあがるとこの眺望。

大阪平野から大阪湾、神戸方面や淡路島まで一望のもとに。

この範囲はかつてこの城の主でもあった、三好長慶の支配域とも重なります。

 

 

 

展望台郭の一段うえ、城内で最も高所となる本丸高櫓郭に、城址碑がありました。

この郭には“小楠公”楠木正行の銅像もあります。

 

このあたりでちょっと休憩。

先へ進む前に、改めてこの城の歴史をなぞらせてくださいね。

 

 

歴史上、飯盛山城の登場は南北朝期までさかのぼり、正平3年(1348)、先述の四条畷の戦いにあたって南朝方が陣場とした旨が『太平記』に記されています。

ただ、この城の知名度に大きく貢献しているのは、個性的な2人の戦国武将でありましょう。

 

1人目は戦国前期の梟雄、木沢長政

戦国史を彩る“七人の長政”…あ、これは私が勝手にそう呼んでるんですが、そのうちの一人。

 

木沢長政はもともと河内と山城の守護・畠山義堯(畠山総州家)の被官でした。

各地で戦功をあげて重用され、飯盛山城を拠点として家中に大きな勢力をもつに至りますが、やがて主家の頭越しに幕府管領・細川晴元に接近するなど下剋上の企みが露見。

享禄5年(1532)5月、主家の軍勢に城を囲まれます。飯盛山城の戦いです。

 

この戦は畠山義堯が被官を討伐する「上意討ち」の形であったものの、義堯はこの大きくなりすぎた権臣を討つにあたり、当時畿内の実力者だった三好元長の援軍も得て慎重に攻囲をすすめています。

しかし、戦も終盤とみられた6月15日、突如として山科本願寺が木沢方に参戦。

木沢に救援を乞われた細川晴元の策謀であったとされます。

 

数万におよぶ一向一揆勢に背後を襲われた畠山・三好連合軍は思わぬ展開に総崩れとなり、畠山義堯も三好元長も逃げ切れずに自害。

この大逆転劇により、木沢はその後10年にわたって飯盛山に君臨。河内から畿内の政治に影響力をおよぼし続ける、“小覇王”のごとき存在となります。

 

 

そして2人目は、“幻の天下人”として近年注目されている三好長慶

彼は三好元長の嫡男です。

父が飯盛山城の戦いに敗れて死んだとき、わずか10歳だった彼は堺にいましたが、近臣らの手引きで辛くも阿波に脱れています。

 

その10年後の天文11年(1542)3月。

阿波の軍勢を率いて畿内に帰ってきた彼は、父の仇・木沢長政と河内太平寺(柏原市)に戦ってこれを撃破。木沢を敗死させると畿内各地を転戦し、管領・細川晴元との争いを制して「三好政権」と呼ばれる一種の中央政権を成立させました。

 

永禄3年(1560)には芥川山城から飯盛山城へ居を移し、ここが三好長慶、最後の居城となります。

 

 

さて、では先に進みましょうか。

 

 

 

この郭の周囲にも複数の場所で石垣がみられます。

崩落の可能性から現在工事中の場所もありましたが、往時には見事な石造りの城であったことが偲ばれます。

 

 

本丸千畳敷、南丸方面へと続く堀切と土橋。

そちらのエリアにも見どころがかたまっています。

 

 

  

本丸千畳敷は二段の郭になっていて、上段の郭にはNHKとFM局の電波塔が建っています。

下段に千畳敷の跡。

 

飯盛山城では最大の面積をもつ平場で、柱の礎石や食器などが出土したことから屋敷があった空間と思われます。

三好長慶は飯盛山城で貴人を招いて連歌や茶会を催した記録が残っており、ここがその場だったのではないかと推測されています。

 

 

 

明瞭な土塁が残る南丸(上左)は、大手にあたる虎口(上右)を守る重要な郭。

ここが主要な縄張りの南端になります。

しっかり下草が刈られていてたいへん見やすい状態になっていました。

 

 

虎口を外側から。

石段の両側には比較的大きな石を用いた石垣も残っていて、ここが大手であった推測を補強しています。

 

 

千畳敷からやや下がった位置にある楠公寺。

 

ここはかつて馬場だったそうです。

ちなみに城内で簡易トイレがあるのはこの場所のみなのでご注意を。

車でやってきた私はこちらルートから登ってきたわけです。

 

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永禄3年(1560)。

ここ飯盛山城へ居を移し、みずから成立させた「三好政権」の采配をふるった三好長慶。

しかし「満つれば欠ける」の例え通り、最盛期のこのころから長慶の周囲に暗雲が立ち込め始めます。

 

翌永禄4年(1561)には軍事面でよく兄を補佐した四弟・十河一存が急死。

さらに永禄5年(1562)、最も信頼する次弟の実休(義賢)が畠山高政との戦いに敗れてまさかの戦死。

永禄6年(1563)には嫡子の義興が22歳の若さで死去。

毎年のように続く不幸は長慶の心身をむしばんでいったのでしょうか。

 

永禄7年(1564)5月、長慶はただ一人残っていた兄弟の三弟・安宅冬康を飯盛山城に呼び出して誅殺。

そのころにはもう、心身に異常をきたしていたのかも知れません。

 

―長慶老病恍惚不知人、委政於久秀…(『日本外史』より)

 

長慶は老いて病となり、恍惚として(ぼんやりとして)人の見分けもつかない。政治は松永久秀に任せきりとなっていた…

 

この記述が有吉佐和子の小説『恍惚の人』に影響を与えたのは有名な話ですが、ともかく冬康の誅殺から2ヶ月後の7月4日、飯盛山城において死去。享年43歳。

「老い」というほどの年齢ではないはずですが、いずれにせよ病床に伏したうえでの死去だったようです。

 

すでに嫡子を失っていた長慶は十河一存の長男・義継を後継に指名していましたが、いまだ若年だったことを危惧してか、その喪は2年ものあいだ伏せられました。

遺体は二ノ丸御体塚郭に仮安置され続けたあと、永禄9年(1566)、ようやく葬儀が営まれたといいます。

 

その後の三好家は畿内を舞台に派手な内紛に明け暮れ、義継、三好三人衆松永久秀篠原長房らがそれぞれ反目と結託を繰り返したあげく、長慶が築いた政権を織田信長に明け渡すことになります。

 

飯盛山城も畠山昭高遊佐信教と城主が変わりますが、天正4年(1576)、織田信長に攻め落とされてそのまま廃城となっています。

 

 

 

クローバー訪れたところ

【飯盛山城跡(楠公寺)】大阪府大東市北条2377‐11