日本では名前にも流行り廃りがあるようで、少し前には「キラキラネーム」と呼ばれる珍名が流行りました。
最近は男女どちらでも使えそうな名前が増えているようで、昨年の令和2年(2020)の名前ランキング(明治安田生命調べ)では男子の1位は「蒼」、女子の1位は「陽葵」。
この辺もやはりご時世といったところでしょうか。
では、戦国武将たちの間で流行っていた名前は何か。
もちろん当時は統計などありませんし、昔の武士たちには本名以外に幼名や仮名(けみょう)と呼ばれる通称がありましたからちょっと複雑です。
例えば織田信長は幼名が「吉法師」でその後「三郎」、13歳で元服して「信長」といった具合ですが、一応ここでは後世に馴染みのある元服後の本名にピントを当ててみます。
そうしますと、戦国武将の中で最もよく見かける名前はたぶん「長政」です。(私調べ)
戦国武将の間では流行ってたんでしょうかねえ。以前ちょっと調べてみたら、年代にするとだいぶ幅広くはなりますが12人出てきました。
そのうち戦国時代前後にある程度の活躍が認められる人たちを、私は勝手に「七人の長政」と呼んでいます。
ということで、今回は私の独断と偏見に基づく閑話で恐縮ですけども、楽しみながら書き並べてみたいと思います。
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さて。
「長政」といえばまずはこの人。
①浅井長政
戦国史ファンの方々にとって詳しい説明は不要でしょう。
北近江の戦国大名にして織田信長の妹・お市の夫。盟友・朝倉義景との関係を重んじて義兄・信長に挑戦し、元亀争乱(元亀元年:1570~天正元年:1573)を戦い抜いて最後は小谷城に滅ぼされる訳ですが、この辺りは戦国史の白眉ですよね。
彼は先代が南近江の六角義賢に従属していた関係上、15歳まで「賢政」を名乗っていました。が、お市を娶るにあたって織田信長から一字をもらい受け「長政」を名乗っています。
②浅野長政
この人も歴史の教科書に載るレベルですから知名度は高いでしょう。
豊臣秀吉の妻・お禰の親族で、豊臣政権の五奉行の一人。関ヶ原の戦い(慶長5年:1600)では徳川家康に味方して、のちの紀州浅野家、芸州浅野家の基を築きました。
ただ「長政」と改名するのは秀吉の死後で、それまでは長く「長吉」を名乗っていたそうです。
秀吉の偏諱を受けた「吉」は、彼が死んだら捨てた訳ですね。うーむ。。
③黒田長政
この人も有名な戦国武将ですよね。豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛(孝高)の長男で、関ヶ原の戦い(慶長5年:1600)では東軍に属して活躍。ドラマや小説などでも登場シーンが多いですよね。
いわゆる戦国三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)に仕え、のち福岡52万余石の初代藩主。
「長政」の「長」はおそらく織田信長の偏諱を受け、「政」は旧主筋にあたる小寺政職からもらったのでしょうか。
④山田長政
謎の多い人ですが、この人も教科書などで取り上げられるのでご存じの方も多いでしょう。
駿河国の出身で、もとは徳川家の重臣・大久保忠佐に仕えた駕籠かきだったと云います。慶長17年(1612)ごろ朱印船に乗ってシャム(現在のタイ)に渡り、日本人傭兵隊長としてアユタヤ国王に重用されましたが、王朝内の暗闘に巻き込まれて毒殺されました。
この人は通称「仁左衛門」で、いつから「長政」になったのか経緯不明。
駕籠かきという低い身分から社会的ステータスがあがった人物がつける“それっぽい名前”として、「長政」の認知度は高かったのでしょうか。。
⑤木沢長政
少しづつマニアックな部類になってきました。肖像は見当たらなかったので、居城だった飯盛山城の写真を添付しときます(;'∀')
もともと畠山義堯の被官でしたが、飯盛山城を拠点として家中に大きな勢力をもち、やがて下剋上を実現して河内に覇を唱えた戦国前期の梟雄。このあたりは先の記事でもご紹介したところでした。
飯盛山城 木沢長政と三好長慶 | 落人の夜話 (ameblo.jp)
「長政」の経緯についてはよくわからないのですが、阿波三好家の三好政長(宗三)らと親族だったようですから、そのあたりのつながりでしょうか。あくまで想像の範囲ですけども。
⑥木造長政
さらにマニア度が増してきました。某野望系ゲーム経験者にはおわかりいただける部類でしょうか。写真もありません(;´Д`)
伊勢北畠家の重臣で、のち織田信雄の家老となった木造具政の長男。父の跡を継いで信雄の家老となり、その後、織田信長の嫡孫・織田秀信の家老となりました。
関ヶ原の戦い(慶長5年:1600)では東軍につくよう秀信に進言するも容れられず、岐阜城外の戦いに敗戦。切腹しようとする主君を説得し、降伏させる役割を担っています。
ということは、この人の「長政」もやはり主筋の織田信長から偏諱を受けた可能性が高そうですね。
⑦早川長政
締めの7人目はこの人。知名度はかなり低いでしょうが、戦国史愛好家的には実に興味深い人生を送った人です。
もとは豊臣秀吉の馬廻衆で小田原征伐(天正18年:1590)などに従軍。のち豊後府内で1万3千石の大名となった際、慶長豊後地震(慶長元年:1596)に遭い、領内の別府湾にうかんでいたという幻の島「瓜生島」が水没する被害を経験しています。
翌慶長2年(1597)、朝鮮に渡海した慶長の役で職務怠慢があったとして改易され、このとき旧領は石田三成の婿・福原長堯に取って代わられました。が、慶長4年(1599)には徳川家康らの配慮で無罪が証明され豊後府内2万石に返り咲いています。
ところが慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いではなんと西軍に付いて戦後改易。
14年にわたる牢人生活の辛酸をなめた後、慶長19年(1614)、大坂冬の陣勃発を聞き大坂城に入城。
真田勢らが布陣した四天王寺。
翌慶長20年(1615)の大坂夏の陣では、あの真田信繁に付属して天王寺口に布陣したところまではわかっていますが、大坂落城とともに消息を絶っています。
この人は武田家に連なる名家出身らしいのですが、「長政」の由来はさっぱりわかりません。ご存じの方があれば教えてください。
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ということで、「7人の長政」を並べてみました。
こうして見ると戦国の「長政」率の高さには織田信長の影響も大きそうですね。
一応、私が知る他の「長政」も並べてみますと、
池田長政
市橋長政
上杉長政
織田長政
篠原長政
榊原長政(星岑さんのご指摘により追加)
だいたい著名な武将に連なる係累の人々ですが、確認できるエピソードに乏しかったので「七人」から除外しています。
ただ、「長政」の人気ぶりはわかりますよね。
ちなみに戦国時代前後、武将たちの名前には“人気の漢字”がありました。
足利氏が将軍だった時代で最も高貴なのはたぶん「義」の字で、これは足利将軍家の通字でありました。これをもらえるのはごく一部の名門などに限られ、例えば大内義隆とか今川義元とか朝倉義景らですね。
その後は時勢によって「信」とか「秀」とか「家」になってくるのはお察しですけども、「長」や「政」はそうした格上の漢字にもくっつけ易い、汎用性の高い字だったのかも知れませんね。
以上、戦国「長政」考でした。
よろしければ命名の参考に…
なるわけないですな。
長々と失礼しました~(;´д`)